ケースEXー3「願い事の行方」
家に帰ることは伝えなかった。
私は実家を素通りし、あの教会の手前に立った。いつ頃に建てられたのかもわからない、古びた教会。その横を通りすぎ、〈
庭の手前に、父が立っていた。
とっさに身を隠そうとしたが、「〇〇」と名を呼ばれ、観念して姿を見せた。
父は聖書を片手に、厳めしく顔を引き締めてい。
「母さんと、〈星見の庭〉から聞いた。叶えたい願い事があるようだな」
「邪魔しないでくれよ、父さん」
「そのつもりはない。〈星見の庭〉で何を願おうが、その人の自由だ。だが、叶うかどうかはまた別の問題だということは頭に留めておいた方がいい」
「叶わないとでも思ってるの?」
「それは私にはわからない。〈星見の庭〉が決めることだ。身分不相応の願い事をすれば、必ずしっぺ返しを食らう。あの母親はそれがまるっきりわかっていなかった」
「でも、かなた先輩……娘さんには関係のないことだって……!」
「本当にそう思うか?」
私は言葉を詰まらせた。
「あの娘にここを教えたのは、お前だそうだな」
「なっ……なんでそれを!?」
「それも、〈星見の庭〉が教えてくれた」
「また、それか。わけがわからない。こんな庭が、一体何を教えてくれるっていうんだ?」
「ありとあらゆる事を。……ただし、いつもというわけにはいかないがな」
父は淡々と告げている。ふざけているようにも、誇張しているようにも見えない。
「どうする?」
「どうするって……」
「ここに来たということは、もう腹は決まっているのだろう」
「……そうだよ」
私は父の横を通り過ぎ、〈星見の庭〉の正面に立った。父が何を言っても私はかなた先輩のために願い事をするつもりだった。
その結果、どうなろうとも——
背後で父がため息をつくのが聞こえた。肩越しに振り返ると、父はもはや私に語るでもなく、背を向けて教会の方に歩いていった。もはや言葉は不要と考えたのは、私だけではないようだ。
私はかすかに——ほんのかすかに、落胆していた。父ならばもしかしたら、私を止めてくれるかもしれないと考えていたからだ。馬鹿馬鹿しいとか、そんなことに願い事を使うなとか、息子の身を案じて何かしら言葉を投げかけてくれるかもしれないと。
それは、単なる甘えであるというのに。
私は庭の手前で片膝をつき、胸の高さで両手を組んだ。かなた先輩の身に降りかかった不幸を払いのけてほしい——ただ、それだけを願って。
どの程度時間が経ったろう。
父は戻ってくることなく、母が顔を見せに来ることもなかった。願い事が叶ったのかどうかもわからない。ただ風が吹いて、木々の葉や花が静かにざわついたことだけは肌身に感じた。
「これで、願い事は叶うのか……?」
立ち上がり、ぽつりと呟く。ただでさえ半信半疑だったのに。
それに叶うにしろ叶わないにしろ、かなた先輩がどうなるかなんてわからない。どこへ行ったのかなど、知る由もないのだから。むやみに願い事をするなんて、やはり馬鹿馬鹿しいことなのではなかったのだろうか。
私は〈星見の庭〉を、ただずっと見下ろしていた。
☆
かなた先輩が再就職したいと言い出した。
母の容態が安定してきたらしく、もはや介助の手は必要なくなったとのことだ。
店長は渋っていたそうだ。すでに人員は補充済みで、もはや人手不足は解消されているのだと。事実私も焼き菓子制作に少しずつ携われるようになってきているし、新しいバイトもよくやってくれている。今ここにかなた先輩が入り込める余地があるとは、私にも思えなかった。
私が辞めればあるいは——とは思っていたが、さすがにせっかく得たチャンスをフイにしたくはなかった。
かなた先輩が力なく店を後にするのを、私は黙って見ることしかできなかった。
それから、一か月の時が経った。
バイトが急に辞めてしまい、店長は焦り出した。こんなことならかなた先輩を引き留めておけばよかったと、今さら後悔して。店長は「困った」「どうすれば……」と頭を悩ませ——結局、かなた先輩を呼び戻した。
「
かなた先輩は一も二もなく、店長からの誘いに乗った。その働きぶりは前と同じ——いや、それ以上だった。私が手掛けるはずの掃除も自ら行うようになり、むしろ私の仕事が奪われている始末だ。
「かなた先輩、無理をしなくても……」
「お願いだから、やらせて。またチャンスを無駄にしたくないから」
そう言われてしまって、突っぱねることができるだろうか。
かなた先輩は今、幸せなのだろうか。私が〈星見の庭〉で願ったことは、叶ったのだろうか。
聞いてみたくても、そんなこと聞けるはずもない。かなた先輩の状況は確かに知りたかったが——もしも幸福だとしても——〈星見の庭〉の恩恵であり、私が願い事をしたからであるとはとても言えないし、言いたくもない。
私はかなた先輩の働きぶりを、ただ脇で見ているしかできなかった。
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