ケース5-3「帰郷への是非」
洋菓子店で働いて一年が経った頃——祖父が病で倒れたという報せを受けた。
母からの電話で、父が出ることはなかった。「一度でいいから顔を見せに来てほしい」と頼まれ、私はいったん考えさせてほしいと答えた。東京に出て成果らしい成果を得ていない現状、祖父や父母からあれこれと訊かれるようなことは避けたかったのである。
それに、店では人手不足が深刻だった。先輩のマユミさんが産休に入ってしまい、
とはいえ、そこまで困ってはいなかった。かなた先輩がフォローしてくれているし、この店で取り扱っている洋菓子の種類の把握にもつながる。何より、この経験もひとつの
あのホイップクリームの件以来、洋菓子の製作には関われていない。それでも前よりも先輩たちの仕事を注視するようになり、こっそりとメモをするようにもなった。接客に関しても、客からのオーダーや疑問に瞬時に答えられるような知識が必要になる。甘さは控えめかどうか、一人でも食べ切れるか、アレルギーがあるけれどこの洋菓子店で食べられるものは取り扱っているか……といった具合に。
私はともかくとして、かなた先輩の接客ぶりは見事なものだった。終始笑顔を忘れないし、物腰も柔らかい。私では答えられない質問でも、すかさずフォローに入ってくれる。かなた先輩に接客してもらえた客は、ほとんど笑顔で帰っていく。
「いやぁ、今日も働いたねぇ」
業務時間が終わりに差しかかってきた頃、かなた先輩は腕を上にぐっと伸ばした。私はすぐに清掃に取りかからなければいけないので、「お疲れ様です」と言うだけに留めた——が。
「ねぇ、〇〇くん。ちょっといい?」
「え? なんでしょうか?」
「最近、悩み事とかある?」
図星を突かれ、私は硬直した。やっぱり、と言わんばかりにかなた先輩は腕を組み、思案げに頬に手を当てる。
「製作に入れないことが不満とか?」
「いえ、そんなことはありません。接客だって、色々と勉強になりますから。……それよりも、どうして僕が悩み事をしてると?」
「〇〇くん、途中で何かを考えてじっと見つめている時があるじゃない。ほんの数秒程度だけど、一日に何回かあればそりゃ気づくって」
「はぁ……」
そこまで面に出ていたか、と自分の不覚さを呪った。
「で、どうなの?」
「……実は」
祖父が病で倒れたこと、顔を見せに来てほしいと頼まれたこと、しかし自分はなんの成果も出せていないこと……それら全てを、かなた先輩に打ち明けた。途中で厨房から先輩の怒鳴り声が飛んできたのだが、「今、大切な話をしてるの!」とかなた先輩が一喝したことでもう声は聞こえてこなくなった。
「ふむふむ……」
かなた先輩は先ほどの姿勢のままだったが、目はより深刻の色を帯びていっている。
「おじい様が大変、か……それで帰るかどうか迷っているんだ」
「はい。ただ、家には戻りづらくて。家を飛び出してここに来たはいいのですが、夢を叶えたとはとても言えない状況ですから」
「うん、それは……私にもわかるな」
「え?」と聞き返すと、先輩はカウンターにもたれ、微苦笑を漏らした。
「私も似たようなものなんだ。夢を叶えるって家を飛び出したはいいけどね、結局叶わずにここにいる。それ見たことかって言われるのも
「そう、ですか……」
「〇〇くんは、東京に出てどのぐらい?」
「一年半程度です」
「それじゃあ、夢を叶えるまではまだまだだね。私みたいに未練がましくここにいると、帰る機会がなくなっちゃうよ。『あいつは葬式にも来なかった』とかって、陰口も叩かれるし」
「…………」
「帰って、一度話し合うってのも有りだと思う。私がこんなことを言っても、説得力ないけどね」
かなた先輩の気遣いを嬉しく思いつつも、心の奥底では家に帰ることへの抵抗感がある。
私が黙り込んでしまったことで、かなた先輩は「ごめん」と謝ってきた。
「色々と余計なことを言ったね」
「いえ、そんなことは」
「でも、考えてみてほしいの。帰るべき時に帰らないと、本当にそのままになっちゃうから」
「帰るべき時……」
「うん。後悔だけはしないようにしてほしい。……私の勝手なわがままだけど」
ちら、と腕時計を見る。「もうこんな時間か」と呟き、かなた先輩は私に視線を戻した。
「掃除があったんだよね、ごめんね。私も手伝うから」
「いえ、大丈夫です。これは僕の仕事ですから。かなた先輩はもうお帰りになって、休んだ方がいいと思います」
「言うじゃない。……なんてね。ありがとうね」
「いえ……」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうね。……お疲れ様」
「はい、お疲れ様です」
かなた先輩はカウンターから離れ、店の奥に向かっていった。
私はすぐさま厨房に戻り、掃除に取りかかった。なぜか未だ残っていた先輩からの視線は冷たかったものの、別段声をかけてくる雰囲気はなかった。
懸命に手を動かす中——かなた先輩の言葉が蘇る。
実感と、後悔とを滲ませた言葉だった。あれは、帰るべき時に帰らなかった——あるいは帰れなかった人間の本音なのだろうか。かなた先輩がどんな夢を抱いていたかはわからなかったが、そのために犠牲にしてしまったものがあったのだろう。
そして、私はどうなのだろう。
帰るべきか、それとも——
ちら、と壁にかかっているカレンダーを見やった。繁忙期はとっくに過ぎているが、人手不足が深刻となっている。ここで私も抜ければ、残った者たちへの負担は大きい。休みを取りたいと言っても、果たして通るかどうか。
そこまで考えて、私は帰ることも視野に入れていることに気づいた。
今、帰ることは恥なのだろうか。それとも——
取り留めのない思考にふけりつつも、私はすっかり体に染み込んだ掃除の手順を手際よくこなしていった。
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