ケース5-2「初めての経験」
ベッドの脇にしつらえている小さな本棚には、西洋菓子の作り方が載っている本がある。角がやや折れており、手垢や小さな汚れもついている。他にそういった本はなく、神父はその本の手に取り、懐かしそうに目を細めた。
「昔のことでも、思い出したか?」
気配も前触れもなく、背後から声がした。ゆっくりと振り向くと、今ではもうお
神父はひとつ息をつき、本を戻す。
「そうですね、過去を振り返ったところで意味はないのですが」
「だが、自分がここにいる意味と意義を確かめることはできる。過去に囚われているというと言い方は悪いが、同時に今の自分を形作ったものを忘れずにいることはできる」
「おや。今夜はよく喋りますね」
「初心を忘れるな、ということを言いたいだけだ」
「なるほど、初心ですか……」
神父は本をちらりと見、ふふっと小気味よく笑い声を漏らした。
「何がおかしい?」
「いえ。私にもそういう時期があったんだなと思っただけです」
「青臭い時期でも思い出したか」
「……そうですね。よくある話かと思いますが、私は祖父や父のやっていたことに反発していたんです。ここを出て、夢を叶える……しかし結局それは叶わず、今はここにいます。でもね、私はそれに満足しているのです」
「なぜだ? ……いや、聞いても答えないか」
「いえ。
探偵は小さく鼻息を鳴らし、木製の椅子を引っ張って腰かけた。
「聞いてくれるのですか?」
「お前とはそろそろ長い付き合いになる。仕事を紹介してもらった義理もあるからな」
「それはありがたい。少し長い話になりますが、構いませんか?」
「構わん。家を出た時の話か?」
「ええ」
懐かしそうに目を細め——ちくり、と胸が痛むのを感じた。もはや自分には関係ないと思っていたことでも、遥かな過去の経験でも、心に残ったものは消え去ることはないらしい。
「私が洋菓子店で働いていた時のことなんですが……」
☆
変化の兆しは、「おい」という一言から始まった。
常々横柄な態度の先輩が、クリームの詰まった絞り器を片手に半ば睨んできている。掃除の手を止め、何かミスをしただろうかと背筋を伸ばす。
「えっと、どうかしましたか?」
「やってみるか?」
「え?」
先輩の手元を見れば、お世辞にも形がいいとは言えない焼き菓子がいくつか並んでいた。地元ではそれなりに有名な洋菓子店だから、このまま出すのはさすがに自分でも抵抗があることはわかる。
この焼き菓子にホイップクリームを載せてみるか、ということだろう。
「あ……いいんですか?」
「どうせ失敗作だ。好きにやってみるといい。少しは練習になるだろ。……嫌か?」
「いえ、そんなことは!」
思わず大声を出してしまい、先輩が眉をひそめる。とっさに口を手で覆い、「すみません」と頭を下げる。
「それで、あの……どうしたら?」
「そうだな。とりあえず俺たちがやっているようにしてみろ。力加減を間違えるなよ」
そうは言われても今までに絞り器すら握らせてくれなかったのだから、加減がわからない。しかし、不意に舞い込んできたチャンスを逃したくはない。いつも横目で先輩の作業を見ていたのだから、見様見真似でやってみるしかない。
まず、念入りに手を洗う。
先輩から絞り器を預かり、焼き菓子の前に立った。
「っ……」
胸が高鳴る——いや、これは動悸に近い。上手くできるのか、先輩の目に
「力を抜け」
「あ、は、はい!」
息を吐き出し、全身から力を抜くよう努める。それでも動悸は収まらない。武者震いとはこういうものなのか、あるいはただ単に緊張しているだけなのか——しかし、いくら考えてもキリがない。
絞り器に両手を添え、緩く、慎重に力を込めて——
「ダメだな」
焼き菓子に載ったクリームの粒を見下ろし、先輩は両断した。
「ひとつひとつの大きさがばらけている。それに、形もなっちゃいない。時間もかかり過ぎている。これじゃあとても店には出せない」
「ですよね……」
自分にも、出来不出来はわかっていた。先輩のものと比べれば一目瞭然だ。せめて自分でホイップクリームを買うなりして練習すれば良かったのだろうが、とてもそんな余裕はなかった。目の前の仕事、そして日々の生活をしのぐだけで精いっぱいだったのだ。
しかし、それは言い訳にしかならないだろう。
「おや、やってるね」
カウンターから
「ないな。これじゃあ掃除のままやらせた方がマシだ」
「まぁ、そんなこと言わないでさ。君だって初めての頃は、コレとどっこいどっこいだったよ?」
「うるさい」
「あっはは。君もさ、そんなにしょげてないで。誰だって、最初から成功するなんて思ってないんだから」
「はぁ……」
「それよりもお前、接客はどうした」
「マユミさんに任せてきた。あたしはこれから休憩~」
ひらひらと手を振って厨房から出ようとし——「おっと」と足を止める。おもむろに自分と先輩との間に手を差し込み、不出来な焼き菓子を取った。
「ちょっと小腹が空いていたところなんだよね。ひとつ、もらってくね」
「おい、何を勝手に——」
「じゃ空乃かなた、休憩に入りまーす」
そう言い残し、しゅばっと奥に引っ込んでいく。
先輩は舌打ちし、焼き菓子を思案気に見下ろした。しばらく考え込んでいたかと思うと、「はぁー」とため息をついた。
「この菓子、全部お前が食え」
「あ、え? いや、でもこれ、こんなにたくさん……」
「いいから、食え。食べ物をムダにするな」
若干イライラした様子で言われ、小さく唾を呑む。
これだけの量を食べ切るのは大変だが、夕食を食べずに済むかもしれない——
「わかりました」と答え、焼き菓子を手元に集め始めた。
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