ケース5-1「回想」

 私は父のことが嫌いだった。


 そればかりではない。祖父のことも好きじゃなかったし、〈星見ほしみの庭〉のことも、この家に生まれついたからにはり人を務めるという伝統も、腹わたが煮えくり返るほど迷惑で癇に障った。


 私には他にやりたいことがある——


 一度、父にそう反駁はんばくしたことがある。その場には祖父も母も同席していた。祖父は手を組んで悲しげな眼差しを私に向け、母もまたなんともいえない表情で口を結んでいた。


 父はこう答えた。


「お前のやりたいこととは、なんだ?」

「それは、答えなくちゃいけないことなのか?」

「当然だろう。まさか現実味のない夢を追いかけるというわけでも?」

「現実味がないっていうなら、あの庭はどうなんだよ!」


 窓から教会の方に向かって、鋭く指さす。


「願い事をするだけで叶う? そっちの方がよっぽど変だろ! 今どき、小学生だって信じないぞ! それなのにこの家に生まれただけで、あそこの守り人を務めるとか……冗談じゃない! 金にも何もならないじゃないか!」

「金の問題ではない」

「じゃあ、僕たちがどんなに貧しくてもいいっていうのか!?」


 私の正論に、父は黙りこくった。


 周囲を見回せば明らかだった。使い古しの椅子、机、テーブル。料理はパンとスープのみ。テレビや掃除機といった家電製品もない。自分のための個室もなく、寝る時も一緒の場で川の字になる。


 この日常には子供の頃からうんざりだった。祖父も父親も母親でさえも、現状維持のまま。あの庭の守り人とやらを毎日毎日、真摯しんしに務めている。


 それがどうしても理解できなかった。


 椅子に載せてあったぼろぼろのリュックサックを肩に担ぎ、吐き捨てるように言う。


「僕は東京に出るから。ここにはもう戻らない」

「……そう、か」

「守り人なんかまっぴらごめんだ。そんなもののために人生を棒に振りたくない。あそこにどれだけ幸せを祈る人間がいたって、僕たちはちっとも幸せにならないじゃないか」

「今の状況が、お前にとっては幸せではないと?」

「当たり前だろ」


 ふい、と背中を向ける。そのまま戸口に向かおうとして——背後から、祖父の声が投げかけられた。


「いつでも、戻って来ていいからな」

「……爺さん。悪いけど、そんなことはないよ」


 最後に母が私の名を呼んだが、私はそれに応えず、扉を開け放った。


 そして外に出た。あの教会を尻目にして、唾を吐きたくなった。なぜ、あんな古びた教会や〈星見の庭〉とやらを大事にするのか、本当に意味がわからなかった。家族の幸せをないがしろにしてでも、守るべき価値があるというのか。


「……くだらない」


 もう振り返ることはせず、自分の未来が約束されていると思える場所に向けて、歩を進めていった。


     ☆


 意気込みとは裏腹に、都会での生活は上質なものとはいえなかった。


 六畳一間の木造アパート。隣から騒ぎ声も聞こえてくる。外に設置されている洗濯機を回そうとしたら、夜勤明けの人から怒鳴り声が飛んでくる。骨身を削って得た賃金も、半分以上が生活費に消える。限界まで値切りされた総菜を買うこともしばしばあった。


 職場では常に小間使い。西洋菓子を作るという夢は儚く、掃除の傍ら、ただ横目で見ることしかできない。常に不機嫌そうな先輩が手慣れた動作で見事なショートケーキを作る様を、いつも不思議に思っていた。作り手の性格と、生み出される商品とでは因果関係が薄いようだ。


 そんなことを考えていると、「何を怠けてる!」と怒声が飛んでくる。店長は常に携帯電話やパソコンから手を手を離せておらず、こちらの状況に目を向ける余裕などないようだった。


 救いは、接客を務めている女性——空乃そらのかなたという珍しい名前の人だった。人当たりがよく、誰にでも気さくに声をかけられる。先輩にも店長相手にも物怖じせず。


 というよりも、話しかけられる隙間を見出すのが非常に上手い人だった。ほっと一息ついたり、道具から意識を離したり、そういったタイミングでそうっと入り込むのだ。そして、相手は嫌な顔ひとつしない。


 どうしたらかなたのような立ち振る舞いができるのか。


 客が途切れたタイミングで、意を決して訊いてみた。自分よりも三つ程度年上の彼女は「うーん」と頬に手を当てて、眉間にわずかにしわを寄せた。


「大したことじゃないと思うんだけどね。どんな人にも必ず意識の隙間みたいなのがあるの。よーく観察していれば、わかるんじゃないかな」

「意識の、隙間……」


 阿呆みたいにオウム返しして、私はすっかり首を傾げてしまった。「新入り、掃除はどうした!?」と声が飛んできて、もはやかなたの言葉にかまけていられる余裕などなかった。


 しかし去り際——「頑張ってね」とかなたが小さく手を振ってくれたことを、私は今に至るまで忘れていない。


 三ヶ月が過ぎ、半年が過ぎても——やはり、洋菓子に触らせてはくれなかった。夢にまるで近づけないフラストレーションが溜まりつつも、辛抱するしかないと自分に言い聞かせた。これといった資格やスキルを持ち合わせていない自分がここを追い出されたら、家からも追い出される。


 実家に連絡しようとは思わなかった。口を開いたら、どんな言葉が出てくるかわかったものではない。もしも父が出てきて、「それみたことか」などと言われれば、屈辱の上に屈辱を塗り込められることだろう。


 耐えた。ひたすらに耐えた。わけのわからない伝統に従っている祖父や父みたいに手を抜くことはしなかった。血筋なのだろうかと思いつつも、日々の業務に明け暮れた。


 そして——変化が訪れた。

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