ケース4―4「永遠の幸福と不幸」

「揺れていますね」

「え?」


 いきなりそう言われ、まことは困惑を顔に浮かべた。神父はゆっくりと半身を誠に向け、「この花がです」


「風に吹かれて揺れています。まるであなたの心のように」

「……詩人ですね」

「そのつもりはなかったのですけどね。もし、お気に障ったなら申し訳ありません」


 軽く頭を下げた神父に、「いえ」と誠は彼から視線をそらした。


 二人は今、〈星見の庭〉の手前に立っている。縁石と花によって星の形に区切られた庭は、当時願った時の光景と変わりないように見える。神父の言葉で、もしかしたら花が変わっているのかもしれないということにようやく思い至った。


 しかし、それは些細なことだ。


「神父さん。今日はお訊ねしたいことがあって、ここに来ました」

「はい、なんでしょうか?」

「あの時に、願ったことについてです」

「『恋人の足を治したい』……あなたはそう仰いましたね。あれからどうなったのでしょうか?」


 誠は言い淀み、次の言葉を発するために胸に溜まった息を吐き出さなくてはならなかった。


「……健康です。快調といってもいいぐらい。今はもう普通に歩けるし、なんならランニングで俺を追い越したりするほどです。医者は奇跡だなんだって言うばかりで……あ、それは本当なんですけど……とにかく、なおの足は完全に治っているのだと思います」

「ふむ、それは重畳ちょうじょうです。しかし、あなたの顔を見る限り、とても幸福であるとは言い切れないようですね」

「……怖いんです」


 我知らず、握り込んだ手に力が入る。


「この幸福はいつまで続くんだろうって。もし明日、目を覚まして尚の足がまた動かなくなったら? そうなったら尚はどれだけ絶望するだろうか、とか」

「ふむ……」

「神父さん。ここ……〈星見の庭〉で願ったことは、どれだけ長続きするんでしょうか? 半年とか、一年とかって、そういう区切りはあったりするんでしょうか?」


 悲痛にも近い切実な声。


 神父は無言でうなずき、〈星見の庭〉に首を向けた。花を、縁石を、〈星見の庭〉全体を見つめている横顔からはどんな感情も読み取れなかった。


「願い事の期限というものは、これといってありません」

「え……そ、そうなんですか?」

「しかし、あなたが不安に思うのももっともです。〈星見の庭〉で願い事をしたことで恋人の足が治った……誰でも信じようとしないでしょう。もしかしたら、あなたの恋人でさえも」

「……はい。尚には、このことは一切告げていません。口に出したら、なんか……崩れてしまうような気がして」


 たまらずうつむく。神父相手に告白するというなど、まるで懺悔ざんげだ。何も悪いことなどしていないはずなのに、幸せを享受きょうじゅしていられることに怖さがある。


 また、歩けなくなったら?


 また、奪われたら?


 また、絶望したら?


 そんな思いはもう、尚にはさせたくなかった。だからといって誠がどうこうできるとも思えない。すでに尚は自ら働きに出ていて、一緒にいられる時間が減ってきているのだ。一人の間、もし尚が交通事故に遭ったらどうしようと気を揉み、不安で部屋中をうろついたことは一度や二度ではない。


 尚が帰ってくる度、嬉しさよりも安堵感が勝ってしまうのだ。


 そういうことに——疲れを感じている。


「永遠の幸福も、永遠の不幸もありません」

「……?」

「世の中は不条理です。いつ、誰の身に災厄が襲いかかるとも知れない。あなたは恋人の足が治らないと知り、絶望を知った。違いますか?」

「いえ、合っています」

「絶望を知ったあなたは、もう二度と同じ目に遭いたくないと思っている……それは、そう感じて当たり前の感情です」

「でも、俺はこの先どうしたら……!」


 神父はゆっくりと首を横に振った。


「私にはどうしようもありません。〈星見の庭〉でさえも」

「……!」

「すでにあなたは願い事を叶えた身。例えばこの場で『これから先、ずっと幸せでいたい』と願ったとしても意味がありません。以前、お教えしたことを覚えていますか?」

「願い事は、一生につき一度だけ……」

「そうです。取り消しも上書きもできません。僭越せんえつながら言わせてもらえば、あなたはこの先手にした幸福を取りこぼすことがないよう、努める外ないのです」

「そう、ですか……」


 誠は落胆をあらわに肩を落とした。押し込めようとしていた不安が胸中に広がり、わけもわからず気分が悪くなる。


「もしかしたら」という不安は予想以上に自らを苛んでいた。


 神父の言う通り、もう絶望したくなかったのだ。自分も、尚も。


「残念ながら、あなたを慰める言葉を私は持ち合わせてはいません」

「……いえ、大丈夫です。すみません、こんな夜更けに来て」

「構いませんよ。ここはいつでも開いておりますから」


 どこか含みを持たせた言い方だったが、誠にはそれどころではなかった。


 わずかに体を起こして神父に背を向け——「ああ、そうそう」


「くれぐれも、車には気をつけて下さいね」

「……どうも」


 言われるまでもない、と反駁はんばくする気もわかなかった。


 それから帰路につき、見慣れた風景が目に溶け込んでも、誠にはなんの感慨も芽生えてこなかった。一生このまま不安と共に生きていくしかないのだろうかと考えると、暗澹あんたんたる気持ちになる。


 だから、気づかなかった。


 後方から猛スピードで軽トラックが向かってきているのを。


 はっ、と反射的に身を翻したが——遅かった。電撃を浴びたかのような衝撃が体全体を揺さぶり、意識が黒く染まった。


 次、目を覚ました時にはアスファルトの上にいて——サイレンの音と光、そして男性が拘束されているところだった。


 見覚えのある男——


 そいつは尚から足を、二人の希望を奪った男だった。

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