ケース4-3「不安の兆し」
それからの
挙げ句の果てには
〈星見の庭〉で願い事をしてから一週間と経たずに、尚は歩ける状態となっていた。ただし筋力が落ちているため、杖をつく必要はあったが。
尚は隙あらばペットボトルを自分の足に巻いて、筋トレに励んでいた。その姿にははらはらさせられるものがあったが、自らの足をがっしりと掴んで一回一回上下させているのを見ると、とても「止めろ」とは言えなかった。
一週間を過ぎ、尚は家の中でならば杖をつく必要がないほどに歩けるようにはなっていた。そうなれば当然、尚の次の要望が簡単に想像できる。
不安はあった。だが、ここまでの回復ぶりを見ているとできるんじゃないかという気持ちの方が勝った。一人で歩かせるわけではないし、単純にアパートの周りをぐるっと回ってみるだけだ。
勝手に一人で出歩かないということを条件に、誠は尚と一緒に出かけることを約束した。
仕事が終わり次第、即座に走って帰路につく。明かりの点いている家の中ではすでに夕食の支度を終えている尚が、じっと椅子の上で待ち構えていた。誠の姿を見るなりぱぁっと顔を輝かせ、期待に満ちた眼差しをこれでもかと向けられ、呆れると同時に我慢をさせてしまった罪悪感に胸が痛んだ。
二人で素早く夕食を済ませ、簡単に出かける準備をする——
少し目を離した隙に尚はもう玄関に立っていて、新品同様の靴も履いていた。「早く、早く!!」とせがまれ、「わかった、わかってるから!」と急いで財布などをジーンズに乱暴に突っ込んだ。
「わぁ……!」
フェンスに両手をつき、吐息を漏らす。都心に近いから星など見えるはずがないが、尚の目にはありありと映っているかのようだ。
まずはエレベーターで一階まで移動。尚は階段を使いたがっていたが、さすがにそれは
測ってみたことなどないが、そんなに規模の大きくないアパートだ。三分もあれば一周できる。
尚は杖をつき、誠は彼女から一瞬たりとも目を離さないよう、慎重に隣を歩いた。誠の予想に反して尚の足取りはしっかりとしていて、とても一週間前まで指先しか動かせなかったとは思えない。杖をつきながらも尚は前を見、周囲を見回し、空を見上げ、喜びと興奮をあらわにしていた。
「歩ける……」
尚の目から涙がこぼれた。頬を伝い、幾筋も涙の跡ができる。それを拭うでもなく、尚は力を込めて歩いていく。無茶はさせたくなかったが、ここで水を差したくなくて、誠は黙って尚の後を追いかけた。
三分で終わる距離は、五分以上かかった。
尚は膝に手をつき、息を乱している。手を貸そうとしたが、やんわりと断られた。その代わり涙と汗にまみれた顔を向けられ、「どう?」と訊いてくる。
「どうって?」
「歩けたよ、私。歩けた……」
「……ああ、すごいな。すごいよ、尚」
「これって、奇跡なのかな? 神様っているのかな?」
「さぁ……俺にはわかんないよ」
〈星見の庭〉のことを言うのは簡単だった。だが、話しても信じてはくれないかもしれない。それに尚はまだ歩けたばかりなのだ。何かしらあって彼女をぬか喜びなどさせたくない。
奇跡がいつまでも続くとは限らない。
そうと考え——不意に、ぶるりと肌がざわついた。先ほどまでの嬉しさがかすんできて、代わりに不安が立ち込めてくる。今感じているこの幸福は、一体いつまで保証されるのだろう?
もし、また尚が歩けなくなる時が来てしまったら——
「誠? 誠? おーい?」
何度か呼びかけられ、ようやく面を上げた。「どうしたの?」と訊く尚の顔にも、不安の色が浮かんでいる。尚も薄々、自分と同じような気持ちになっているのかもしれない。
「なんでもない」
首を振り、できる限り笑みを作ってみた。尚は「うん」と言ってからすっと口を閉じて、手を差し出してくる。その意図は明白だったので、誠はその手を握り返した。
このまま帰ってもよかったのだが、今度は「コンビニまで行きたい」と言い出した。なんでも季節限定のスイーツが発売されたばかりなのだそうだ。
「俺が代わりに買いに行くって」
「やだ、自分で行きたい」
「アパートの周りを回るだけって言ったろ」
「大丈夫だって。それに、誠がいてくれるでしょ?」
ぐっ、と言葉に詰まった。確かに自分がいれば、尚一人を担いで戻ることぐらいどうってことはない。
それでも、誠は語気を強めて反対した。引き下がるかと思ったのだが——「やだ」と頬を膨らました。
それから二人で、外で言い合いになってしまった。みっともないとわかってはいたのだが、尚の興奮が止まらない。誠もヒートアップしてしまい、通行人から怪訝な目で見られてしまった。
だが——
二人でこんな風にケンカをするなんて、どれぐらいぶりだったろう。
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