ケース4-2「幸福へと至る道」

 奇跡だ、と医者は二度口にした。


 レントゲンをはじめ、様々な検査を受けたなおの足は間違いなく回復に向かっているとのことだった。朝はほんの指先だけひくついていたのが、徐々につま先を動かせるようになってきている。そのことに医者も看護師も仰天し、一体何があったのかを聞かれてしまった。


 まさか昨日のことを正直に打ち明けるわけにもいかない。


 かといって、〈星見の庭〉のことを話しても信じないだろう。


 毎日念入りにマッサージしたからです、とその場しのぎで言い繕ったが、医者はまったく信じていない様子だ。


「脊髄も損傷していたんです。こんなことはあり得ない、というのが私の見方です」

「しかし尚はこうして、少しずつですが、足を動かせるようになっています。感覚も戻ってきていると……だよな?」

「うん。ちょっとだけだけど」

「……ううむ……」


 腕を組み、すっかり考え込んでしまった。看護師も困惑しており、まことと尚は示し合わせたようにぷっと吹き出した。


 こほんと咳払いし、「失礼しました」


「なんにしろ回復の兆候が見られるのならば幸いです。もしこのまま歩いたり走ったりできる状態になれば……医学史に残る事態となるかもしれません」

「いや、そんな大げさな……」


 言いつつ誠は、実際に歩いたり走ったりする尚の姿を思い浮かべた。尚は元来はアクティブな性格だから、そのようになれば泣いて喜ぶだろう。


 状態の推移を診たいということで次の診察の予約を取り、二人は病院を後にした。


 帰り際のタクシーの中で、「あ」と尚が小さく声を上げた。「どうした?」と訊ねると、彼女の視線は自らの足にあって、かかとが小さく動いているのだった。車で揺れたのではなく、確実に数回動かしている。


「動く、動いてる……」


 誠はその場で抱きしめたい衝動をなんとか堪え、震える声で「よかったな」と口にした。尚の頬を伝った涙は、自然に彼女のスカートに薄い染みを作った。


     ☆


 それからの尚の回復劇は、本人でも唖然とするほどだった。


 足の指先が動き出したその翌日、今度は膝が上がるようになった。「立ってみたい!」と言い出したが、「もう少し様子を見てから」ときつめに言いつけると、素直に従った。尚自身にも何が起こっているのかわからないのだから、下手なことはできないと判断してくれたのだろう。


 そして三日目——腿が上がった。しかも両方。まだ動きはぎこちないものの、「ほら、見て!」と両足を交差しているのを見せつけられた時には、文字通り唖然としていた。


「立ちたい! 立ってみたい! いいでしょ、手伝って!!」

「いや、尚、あのな……」

「手伝ってくれないなら、今度もうしない!」


 ぷい、とそっぽを向かれる。子供そのものの態度に辟易しつつも、「少しだけだからな?」と念を押す。尚も誠のただならぬ気配に気づいたのか、わずかに息を呑み、「うん」と短く答えた。


 尚の片手は誠の手に、もう一方はベッドの上に。


 尚がやや前のめりになり、すぐさま誠は彼女の背中に手を回す。ベッドから尚の手が離れ、床にぴったりと足がつく。ぶるぶると体を震わせ、「尚……」と言いかけたが、「このまま!」とすぐさま返される。


 尚の体を支える手に、体重がかかる。尚の腰は完全にベッドから持ち上がり、「うぅ」と彼女が短く呻いた。額には汗が浮かんでいる。しかしそれでも彼女は自らの足を見据え、がし、と己の腿を掴んだ。


「っ、っ……ぐっ……!」


 見えない何かに押し潰されそうになっているのを必死に抗うその姿は、今までに見たどんな顔よりも真剣だった。もう少しで掴めるという確信が意志となって、目に強い光をたたえている。


 そして——尚は立った。


 誠に支えられてはいるが、ほぼ自らの意思で立てている。偉業を果たしたというようにやり切った表情の尚は、「どう?」と訊いてきた。


「どうって……?」

「立てたよ、私。立てたんだよ!」


 つい声が弾んだことで尚の体がぐらつき、「危ねっ!」と誠が支えた。すぐさまベッドに戻し、「無茶すんな!」といつになく怒鳴ってしまう。びくっと肩をすくめた尚を前に、はっと口を手で覆い——「悪い」


「その、怒鳴るつもりはなかったんだ……ほんと、悪い」

「ううん。私が調子に乗っちゃったから」


 その後は仕事に出ざるを得ず、「絶対、一人で立とうとするなよな?」と念を押しておいた。尚の身に奇跡としか呼びようのない事態が降りかかり、その日の仕事は全く気が入らず、何度も怒られた。


 そして、急いで家に帰って——


「あ、誠。お帰りー」


 朗らかな声で誠を出迎えた尚は、キッチンに立っていた。しかも支えなしで。


 絶句していると、尚はばつが悪そうにうつむいた。


「あのね、キッチンまでならなんとか歩けるようになったの。壁伝いだったけど」

「尚、一人で立つなってあれほど……!」

「わかってる。でもね、いても立ってもいられなくなったの。文字通りっていうか……」

「尚!!」


 冗談めかして言った恋人に、誠は裂帛れっぱくの如き声を荒げた。尚は体を震わせ、うつむき、「ごめん……」と口にした。


 違う、と誠は首を振った。謝るのは俺の方なのに。足が動いて嬉しくなって、つい試したくなったのだろう。その気持ちは理解できるし、だからこそ——無茶をしてほしくなかった。


 また、足を動かせなくなったら——


「……立ったり、歩けたりできるんだな?」

「え? あぁ、うん……」

「そうか、よかった……」


 深く息を吐き、自らの胸を押さえる。嬉しい気持ちと焦りとがない交ぜになって、かき乱されているようだ。


「……尚」

「……うん、何?」

「今、尚はどういう状態なのか医者でもわからないんだ。だから、その……無理はしないでほしい。歩いたりとかしたいなら、俺も付き添うから」

「……うん、わかった。ごめん、誠」

「いや、こっちこそ。怒鳴ったりしてごめん」


 誠は荷物そっちのけで尚を抱きしめ、尚もまた誠の背に手を回した。


 膝を畳んで抱く必要がないということが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。

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