ケース4ー1「災難と僥倖と」

 あの男女二人組から、〈星見ほしみの庭〉の話が出てきた時には手からトレイを落としそうになった。お互いを探っているように見える距離感から、恋人同士ではなさそうだ。それでも最終的にはグラスをかち合わせて歓談していたのだから、話は丸く収まったのかもしれない。


〈星見の庭〉——


 その名、その場所は新城しんじょうまことにはまだ新しく記憶に残っている。何せ自分もついこの間、〈星見の庭〉で願い事をしてきたばかりなのだから。


 分厚い本を抱いたいかにもな風体の神父——彼は〈星見の庭〉のルールについて、説明してくれた。願い事は一生につき、一度だけ。しかし誠は悩むことなく、〈星見の庭〉に祈った。


 恋人の足が治りますように、と。


     ☆


 全くの、不幸な事故だった。


 ドライバーがよそ見運転をしていたおかげで道を外れ、通学路に突っ込もうとしていたのだ。そのことにいち早く気づいた誠の恋人——古見ふるみなおという——は、トラックに近い位置にいた小学生を突き飛ばしたのだ。


 そして自らが盾となるように、はねられた。その衝撃でトラックの軌道は通学路から外れ、電柱にぶつかった。


 死者は出なかった。突き飛ばされた小学生も、すり傷程度で済んだ。


 しかし、尚は——腰から先が動かなくなった。感覚がなくなっちゃったんだ、と病室で笑って言っていたのが、生々しく記憶に焼きついている。車椅子生活を余儀なくされ、結婚の話もしばらく延期となった。


 誠はかいがいしく世話をした。尚が退屈しないように本を持ち込み、車椅子を押して外に出たり、思い出の歌を二人で口すさんだりした。


 それでも——それでも、彼女の精神が徐々に蝕まれていくのは目に見えていた。


「もう、私のことなんて忘れた方がいいよ」


 突然そう言われ、途方に暮れた。尚が自分のことを案じているのはわかっているし、尚の両親からも「娘が重荷になってしまう」と言って結婚の取り止めを申し出てきた。誠の両親も揺れていて、「これからどうするの?」としょっちゅう心配をされた。


 どうするかなんて、そんなこと考えていない。


 そんな折——スマホで何気なく見ていたニュースの中に、〈星見の庭〉のことが載っていた。祈ればどんな願い事でも叶うという、信憑性の欠片もない記事。


 だが、誠はそれにすがりついた。


 神様でもなんでもいい、彼女の笑顔を取り戻したい。忘れた方がいいなんて、あんなことを言わせたくない。


 無理を言って有給を取り、噂の庭があるという場所に向かい、そこで神父に出会い、願い事をした。


 終わった後で、急に馬鹿馬鹿しくなった。こんなところまで来て恋人の足を治してほしいだなんて、滑稽こっけいにも程がある。そんなことで治るのなら、この場所は噂話で終わらないはずなのだから。


 家に帰り、今は退院した尚の出迎えを受けた。キッチンに立つことすら出来ない彼女のために惣菜を買ってきたのだが、彼女は「ありがと」と力なく微笑んだ。


 その夜――珍しく尚から、「抱いて」と頼まれた。二つ返事で事を始めて、丁寧に愛撫して、挿入して――その時、彼女の顔が天井を向いているのに気づいた。そしてつぅっと、目の両端から涙粒がこぼれた。


「ダメだ、全然なんも感じない」

「尚……」

「嬉しいはずなのに、全然嬉しくない。誠だって、人形を相手にしてるみたいでしょ?」

「そ、そんなことは……!」


 尚は無理やり横向きになり、枕に頭を沈めた。手を出しかけたが、その手で一体どうするのかがわからず、宙に固定されたままだった。


「私のことは、もう忘れて」

「尚……」

「あなたの重荷になりたくないの」


 目の前に壁がせり上がったようだった。何を言っても中途半端な慰めにしかならない。尚が今何を求めてるのかもわからず、浮いた手はだらんと落ち、誠はうつむいた。


 二人は同じベッドで逆向きのまま、寝る姿勢に入った。


 なぜ、こんなことになったのだろう。


 益体のない考えが頭の中で渦を巻いている。あのトラックのドライバーを憎みたくても、彼もまた重い怪我を負っている。それでもいつかは治るのだから、不公平としか言いようがない。


 なぜ、尚が苦しまなければならないのだろう。


 なぜ、自分は泣いているのだろう。


 何一つ思考が定まらないまま、誠は眠りについた。


     ☆


 翌日、変化が起こった。


 やや寝ぼすけな尚のために朝食を作り、呼びに行こうと寝室に足を踏み入れた時に――体を起こし、呆然としている尚の顔が真っ先に目に入った。


 彼女の布団は外れていて、両足があらわになっている状態だ。その指先がわずかにひくついているのを見、誠は我が目を疑った。


「な、尚……これは……!?」

「あ、あ、うん……なんか、ちょっと動かせる、みたい……」


 尚も信じられない様子で、足の指先を凝視している。親指がぴくりと動いた時、はぁっと息を呑んだ。


「う、動かせる……! 動かせるよ!」

「マジか……」

「一体、なんで? 昨日、何も特別なことは……あ、あった、か……」


 昨夜の性行為を思い出したのだろう。気丈な彼女らしくもなく、どちらかといえばお姉さんぶりたがる尚がここまで赤面することなど、今までにない。


 しかし、誠は確信していた。


「と、とりあえず病院行ってみよう!」

「え!? でも、仕事は……」

「休む! とにかく、病院だ! 尚、メシを食ったらすぐに行くぞ!!」

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