ケース2-5「力の片鱗」

「どうやら事は終わったようだな」


 パトカーが走り去った後に、長身の男がぬっと出てきた。コートを着込んでおり、全身から物々しい空気が漂っている。私立探偵という肩書とのことだが、この外見の探偵に依頼をするには相応の勇気が要るだろう。


 さっさっ、と聖書についた埃を払うような仕草をしてから「ええ」


「あなたが通報してくれたおかげで助かりました」

「よく言う。一人でもどうとでもなっただろうに」

「買いかぶりですよ。私はただの神父です」

「この庭のびとを務めているお前がか?」


 探偵は〈星見ほしみの庭〉に一瞥をくれた。彼が何を考えているのか、無機質な表情からは読み取れない。もっとも、昔からそうだったが。


「あの男……海老名えびな早人はやとの願い事だが」

「ええ。これまでの罪を無かったことにしてほしい、ということでした」

「馬鹿な男だ」

「それでも、〈星見の庭〉は誰の願いでも受け入れます」

「だが、結果として奴は報いを受けた。どういったからくりなんだろうな」

「さぁ……私にはわかりかねます」

「よく言う」


 探偵は〈星見の庭〉に視線を固定したまま、「どこまで読んでいた?」


「と、言いますと?」

「この結果になることを読んでいたのか、ということだ」

「さて、どうでしょうね」

「相変わらず煙に巻く言い方ばかりの男だ」

「確実に言えるのは……」


 神父もまた〈星見の庭〉に視線を投げかけた。


「〈星見の庭〉はどんな人間の願いでも、一生につきひとつだけ叶えます。それは絶対のおきてといってもいい。願い事を叶えてしまった後でやはり取り消したい、また願い事をしたいというようなことは、ありません」

「そのことなんだがな……」


 探偵は〈星見の庭〉から神父に視線を移した。


「お前自身は、願い事を叶えてもらったことがあるのか?」

「私の願い事ですか? ……それはもちろん」


 探偵はわずかに目を見開いた。神父がはっきりと答えることを想定していなかったためだろう。彼はすぐに元の目つきに戻り、数秒考え込むようにして、「なるほどな」と一人で得心して呟いた。


「だからお前はこの庭のことを、誰よりも知っているというわけか」

「全てではありません。私にだってわからないことはあります」

「例えば?」

「願い事を叶えた後の、人の未来です」


 探偵が眉を寄せたが、それも一瞬のことだった。「それもそうだな」と同意し、神父に背を向ける。


「お行きになりますので?」

「もう、ここには用がないからな」

「なんでしたら、ここで願い事をしてもいいのでは?」

「お断りだ。後で何が起こるかはわからないからな。今の願いのために、未来にリスクを負うような真似などできるか」


 そう言い残し、探偵は去った。


 神父は苦笑交じりのため息をつき、それから〈星見の庭〉に目を配らせた。あの海老名早人という男は、この庭を囲む花が変化していることなど気づいてもいなかっただろう。


 どういうわけなのかこの庭を取り囲む花は、色や形——種類そのものすら変えることで来訪者の存在を告げる。季節や気候に関係なく、だ。


 海老名早人の場合は——オダマキ。


「愚か」という花言葉を持つ。


 神父は緩く首を振り、手元の本に視線を落とした。誰もが聖書だろうと思っているものは、それらしいカバーを被せただけの、ただの花の図鑑だ。


 ふと、風が吹いた。


 それに伴って花が揺れ——次の瞬間には変化が始まった。まずは続々としおれていき、完全に朽ちて塵になった。かと思えば、地中からまた新しい蕾が力強く天に向かって伸びていく。映像を早送りしているかのような錯覚を覚えるほどに、その成長ぶりには目を見張るものがあった。


 今度は黒百合だった。神父にも、それぐらいの花言葉はわかる。「復讐」という意味を持つ花だ。


 神父は目の前に広がる黒百合を前にしても、別段感情を面に出さなかった。図鑑を抱き直し、天空を見上げる。


「今日は、月の光がよく映えますね」


 誰にともなく放った言葉は、わずかに黒百合の花弁を揺らした。

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