ケース2ー3「悪夢の再現」

 あの〈星見ほしみの庭〉という場所で願い事をしてから一年後——


 海老名えびな早人はやとは今、選択の岐路に立たされていた。すぐに逃げるか、救急車を呼ぶか。そんな単純な二択。


 目の前には、頭から血を流した女性が倒れている。膨らんだ腹を手で押さえ、苦し気に喘いでいる。つぅ、と血が畳に広がっては赤黒く染めていく様は、早人にとっては悪夢の再現としか映らなかった。


 あの時、警察から逃げた時もそうだった。


 適当な女と適当に仲良くなって、家に転がり込んで、適当に暮らして——そして、相手が妊娠した。


 責任取ってと言われても、早人にはどうする気もなかった。あまりにもしつこいので、つい弾みで叩いたのだ。打ち所が悪く、相手は頭から血を流し——そのまま死んだ。


 この程度で死ぬなんて――


 早人は逃げた。そして、〈星見の庭〉に辿り着いた。今までの罪を全部帳消しにしてほしいと、そう願った。それからは意気揚々と人生を謳歌おうかし、また女と交際し、そして——妊娠した。


「なんの冗談だよ、これは……」


 あの時の再現としか思えない光景。状況も酷似している。女はまだ息があるようだから、救急車を呼べばおそらく助かるかもしれない。


 しかし、事情を聞かれるのが怖かった。


 籍を入れる気も子供を育てる気もなかった。ただ、ただ——気楽に生きられればいいと思っていた。面倒なものを抱え込まずに、のうのうとのさばっていればいい。死ぬ時はどうするかなんて、考えたこともない。


 考えたくなどなかった。今が楽しければいいじゃないか——


 だが、目の前の女は死が目前となっている。


「き、救急車……」


 早人はスマートフォンを震える手で取り出した。押す番号は109だか110だか、どっちだろう。いや、119だったろうか。とにかくこれ以上状況が悪化しない内に、この女の命を——


 がし、と女の手が早人の足を掴んだ。ひっ、と早人の口から声が漏れた。


 女は血の垂れた顔で早人を見上げ、「逃げるの?」と問いかけた。底冷えする声音だった。女性かつ、死にかけているとは思えないほどの握力と、圧力だった。目には怒りと失望に満ち、早人を射抜かんとしている。


「はっ、は、は……」

「ここで逃げたら、あんた、許さない。あんたなんか、選ぶんじゃなかった。あたしが……馬鹿だった。あんたなんか、死ねば、いい……のよ」

「う……」


 早人は反射的に女の手を振り解いた。もはや通報しようという気にはなれず、女はそのままにして、慌てて家から出た。今の騒ぎを聞きつけたらしい住人と出くわしたが、早人は何も言わず、通り過ぎた。


 そして逃げた。またしても。


 そして警察の追跡が始まった。またしても。


「なんで、なんでこうなる……!?」


 帳消しになったのではないのか。いや、自分はあの時何を願った? 確か、これまでの罪を帳消しにしてほしいと——


「まさか!?」


 車を走らせつつ、早人は呆然とした。これまでの罪とは言ったが、これからの罪も帳消しにするとは言っていなかった。また同じことを繰り返すとは思わなかったのだ。


「——くそッ!」


 早人はハンドルを切り、片手でカーナビで検索した。目当ての場所は出てこなかったが、その近くの施設の名前が出たのでひとまずそこを目的地とする。


(もう一度だ、もう一度……!)


 あの場所で、〈星見の庭〉で願い事をすれば。あのうさんくさい神父によれば一生に一度ということだったが——そんなものは、やってみなければわからない。


 逃げるの?


 あの女の言葉が耳の奥でこだまする。


 ああ、そうさ。俺は逃げる。面倒事なんかゴメンだ。今までずっとそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。逃げて何が悪い。能力も才能もない奴は、逃げることだけしかできないんだ。


 ふと、いきなりフロントガラスに紙が貼り付いた。「くそッ、邪魔だ!」と毒づいた瞬間——絶句した。それは指名手配犯のポスターで——早人の顔写真が載っていたのだ。


「なん、で……」


 後方からサイレンの音がし、早人は急いでドアガラスを下ろしてポスターを取り除いた。


 わけがわからなかった。


 自分は夢でも見ているのだろうか。殺人犯というレッテルから解放されたはずなのに、今また追いかけられている。願い事をして以降、どこにも見かけなかったあのポスターがまたしても目の前に現れて、早人の罪を糾弾している。


「ふざけんな、冗談じゃねえ!」


 逃げてやる。逃げ切ってやる。


 だが、その前に行かなければいけないところがある。

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