ケース2-2「逃亡者の願い事」

星見ほしみの庭〉はその名の通り、縁石や芝生で星形に区切られていた庭園だった。しかし、それだけならただの風変わりな庭に過ぎない。


 早人はやとはじろじろと眺め回し、外縁に植えられた花も注意深く見つめて——はぁっとため息をついた。


「なんの変哲もない庭じゃねえか。こんなところに人が押し寄せてくるってのか?」

「押し寄せてきたことはありませんが、願い事を叶えるために訪れる人は後を絶ちませんね」

「へっ。いけしゃあしゃあと。そこらのチンピラでもちったぁマシな金稼ぎの方法を考えるぜ」

生憎あいにくではありますが、こちらから金銭を要求することはありません。また、お礼として金銭を受け取ることもありません」


 早人は若干の不快さと疑念に、眉をしかめた。金が目的ではないというのなら、この神父は一体何が目的なのだろうか。まさか願い事を叶えようとした人間の後を尾けて、結局叶わずに不幸に陥る様を見たいとでもいうのだろうか。


 しかし、そこまで悪趣味な男であるようにも見えない。


 早人が黙り込んだのを見て、「いかが致します?」と神父が尋ねた。


「それは、この場所で願い事をするかってことか?」

「そうですね。一生に一度だけ、取り消したりはできないという条件こそはありますが」

「……ふん、くだらねぇ」


 言いつつも、早人の視線は庭から外れずにいる。もし、本当なら――という希望の種が芽生えていることを自覚せざるを得なかった。どんな願い事も叶うと聞かされたとあっては、つい興味を惹いてしまうのは人間の性だろうか。


「なぁ、神父さんよ」

「はい、なんでしょうか?」

「仮に、もしもだ。俺が願い事をするとして。それは、口に出して言わないと駄目なのか?」


「いいえ」と神父は首を横に振った。


「祈って、願うだけでもいいのです。人に言えないような願い事をするお方もいらっしゃいますからね」

「頭ん中の願い事を叶えてくれるってのか? ……ますます、うさんくせぇな」

「では、止めておきますか?」

「…………」


 早人は腕を組み、じっと庭を見下ろした。金銭を要求されることはないし、願い事を口に出す必要もないという。ただ、祈るだけ――そんなことで願い事が叶うのなら、誰も苦労しない。馬鹿を見ない。


 そうだ、馬鹿馬鹿しい。


 さっさと来た道を引き戻して——それでどうする? また警察に追われる身となるのだろうか? 安息とはまるで無縁な生活を送るか、もしくは刑務所の中か。どちらにしても早人の思うような展開に転ぶ可能性は無いに等しい。


 だったら——


「おい、神父さんよ。ちょっと、後ろを向いててくれるか?」

「おや、なぜでしょう?」

「言わせんなよ。祈るところを人に見られるとか……恥ずかしいだろうが」

「それは、失礼しました。では、願い事を言い終えましたら声をかけて下さい」


 神父は律儀に後ろを向いた。早人はその姿を注視していたが、まるで微動だにしない。本当に、声をかけるまで後ろを向いてるつもりだった。


「……アホらし」


 小声でつぶやき、ひとまず胸の高さで手を組んでみた。祈るというものがどういうものかわからない身としては、これで合っているのかはわからない。ただし神に祈るだけでもないのだから、これでいいのかもしれない。


 もし、本当に、願い事が叶うのなら——


(決まってる)


 俺の犯した罪を全部、帳消しにしてほしい——


     ★


 早人は今、歓楽街の中心のキャバクラで酒をあおっていた。その一気飲みにキャバ嬢がわーっと手を叩く。


 心地いい気分だった。


 半信半疑で元来た道を辿り、街に出ても、誰も自分のことに気づかない。警察官と出くわした時には心臓が飛び出るかと思ったが、ちらっと見ただけですぐにパトロールに戻っていった。


 指名手配犯のチラシもなかった。たまたま立ち寄った居酒屋でも、ニュースになっていない。一応新聞も確かめてみたが、早人に関する事件はひとつもなかった。


 まさか、という思いでインターネットカフェに飛び込んでみた。


 自分の名前で検索してみても、同姓同名の別人が出てくるだけ。何度もスクロールし、ページを開いてみたが、結果は同じ。少年院上がりで、恐喝やスリ、果ては殺人を犯した男のことなど、一文たりともなかった。


「……は、はは……」


 信じられない気持ちでカフェを後にする。半ばふらふらと歩いた先に交番があって、中には年配の警官と、若い警官がいる。


 早人はごくりと唾を呑み、その交番にまっすぐ向かっていった。開かれた扉から足を踏み入れると若い警官が振り返り、「どうかしましたか?」と訊ねてくる。早人の顔を見て驚く気配は微塵もない。


「あ、えっと……ああ、そうそう。トイレってどこにあるかなぁって」

「公衆トイレですか? それならこの交番を出て……」


 若い警官の話は耳に入らなかった。年配の警官はこちらを見向きもせず、手元の書類に書き込んでいる。「やれやれ……」と額をかいては、ふぅーとため息をついている。ちらりと、こちらに面を上げたものの、やはり動揺したりはしなかった。


 交番を出て、しばらく歩いたところで——つい、笑い出したくなってしまった。これまで逃げ続けてきたのは一体なんだったのかと、自分でもおかしい気分だった。


 この気分のまま、適当に通りがかったキャバクラが目に入った。外装からそれほど高くはないだろうが、手持ちが心もとないから用心するに限る。もし、べらぼうな金額を請求されたとしても、殴って逃げればいい。


 罪は全部チャラになった。


 もう、怖いものなどない——この時点で早人は、本気でそう思っていた。

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