ケース2-1「逃亡者」

 海老海えびな早人はやとは焦っていた。法定速度などお構いなしに、車を走らせていた。


 後方から赤い回転灯とサイレンが迫ってきている。これから進む先にも警戒網が敷かれているかもしれない。逃げ出してから三十分程度はかかっているから、その可能性は十分に考えられる。


 突破できるか? 逃げられるか――?


 このまま道路を突き進んでも、らちが明かないような気がしてきた。脇道に逸れてそこから逃げるという手もある。


 しかし、一体どこに?


 その時——偶然にも――看板が見えた。焦っていて文字は読めなかったが、左手側に道があるということだけはわかった。即座にハンドルを切り、木にぶつかるすれすれでアクセルを踏み続けた。


 バックミラーを確認すると、回転灯の明かりは見えなくなっていた。あれほど鬱陶しかったサイレンも何も聞こえてこない。


「まいた……のか?」


 てっきり追いかけてくるものと思っていた。速度を緩めてもう一度後方を振り返るが、やはり追ってくる気配がない。脇道に入ったことで見失ったのかもしれないと思うと、「へへっ」と自然に笑い声が漏れた。


「ざまあみろってんだ」


 しかし、この先には何が続いているのだろう。早人は訝しげに車を走らせ、やがて——天頂に十字架のある建物に辿り着いた。


「はぁ? 教会なのか、ここ?」


 しかし、人がいることは考えられる。警察を呼ばれると面倒だ。ここは身分を偽って、どこか抜け道がないかを訊ねるのが上策だろう。万が一のことがあったとしても、殺して黙らせればいい。


 どうせ、もう人を殺した身だ。一人も二人も変わらない。


 金色の取っ手のついた、木製の扉を開ける。左右には横長の椅子が、祭壇に向かって配置されている。窓から漏れる光が祭壇をきらびやかに照らしていたが、早人は別段どうとも思わなかった。


「おい、誰かいないのか」


 応じる声はなかった。ちっ、と舌打ちして祭壇まで歩いていく。無駄なことだとわかっていたが、試しにもう一度、声を張り上げてみた。


「誰かいないのか!? おい!」

「そこまで怒鳴らなくても、聞こえていますよ」


 声のした方向に振り向く。祭壇の左手の小部屋から、背の高い男が現れた。こんな夜更けだというのに、今からでも祝祭か儀式でも始められるといった具合の恰好だった。手には本を抱えていて、柔和な笑みを浮かべている。


「あんた、ここの人か?」

「少なくとも、空き巣ではないことは確かですね」

「俺が空き巣だとでも思ってんのか?」

「おや、違いますので?」


 早人はがしがしと後頭部をかき、「まぁいい」


「今、ちょっと道に迷ってたところなんだ。どこか、こう……抜け道みたいなのがあるんだったら、教えてくれ」


 うーん、と神父らしき男は首を傾げつつ困り顔になった。


「すみませんが、そういうようなものはありません。あなたが来た道から引き返さないと別のところには行けません」

「はぁ!? ここで行き止まりってことか!?」

「そうなります」


 先ほどよりも強めに頭をかきむしり、「くそっ!」と悪態をつく。しばらく早人は腰に両手を当てて天を仰ぎ――「しょうがねぇ」


「ほとぼりが冷めるまでここにいさせてもらう。いいか?」

「ええ、構いませんよ」

「……俺のことは聞かないのか?」

「なぜ、聞く必要があるのですか? ここは教会です。誰にでも自由に開かれておりますので」

「はっ、高尚なこった」


 皮肉を込めてぶつけても、神父は顔色ひとつ変えなかった。


 祭壇のすぐ手前の席にどかっと座り、タバコに火を点ける。神父が咎めるような目で見てきたが、無視して吸い始めた。トラブルが起こってかれこれ数時間は経っていたから、久しぶりの紫煙と味がたまらなく美味く感じる。


 ふと、気づいた。窓の向こうに奇妙なものがある。全貌は見えないが、縁石などで直角に区切られているようだ。


「なぁ、神父さん」

「はい、なんでしょう?」

「あれ、なんだ?」

「あれですか? 〈星見ほしみの庭〉といいます」

「はぁ? 〈星見の庭〉?」

「ご覧になりますか?」

「……いいよ、くだらねぇ」


 どうせうさんくさいパワースポットか何かの類いだろう。早人はそう決めつけ――不意に、あることを思い出した。〈星見の庭〉という単語を聞いたのは、これが初めてではなかったのだ。


 そうだ、あの女がいつか行きたいと言っていた。これから生まれる子供と一緒に、願い事をしに行こうと。一生に一度だけ、なんでも願い事が叶うんだと言っていて、早人はそれを話半分に聞いていた。


 なんでも願い事が叶う——


 早人は携帯灰皿にタバコを入れ、「なぁ」と鷹揚おうように呼びかけた。


「〈星見の庭〉って、アレか? どんな願い事でも叶うっていう……」

「その通りです」

「今までどんなヤツが、お願いしに来たんだ?」

「色々、ですね。老若男女問わず、立場も肩書もそれぞれ違う人たちが来ては願い事をしていきました」

「それで、どうなったんだ?」

「あまねく願い事は全て叶いました」

「なんで、そんなことが言い切れる」

「あの庭が教えてくれるのですよ」


 そう言って窓越しに〈星見の庭〉を見やる神父の横顔は、嘘をついているようには見えなかった。茶化したり、誤魔化したりする風でもない。


 早人は神父をほとんど睨むように凝視し——「案内してくれ」


「と、いいますと?」

「あの庭だ。本当になんでも願い事が叶うんだな?」

「ええ。一生に一度だけ、ですが」

「ふん。じゃあ、確かめてやろうじゃねえか」


 神父はにこりと笑みを浮かべ、「では、こちらに」と祭壇の右手側を手で示した。

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