3章 人を食った男

第9話


 葵たちの死への想いを水に流してから3日が経った。以前、客が来ない。彼岸は日に日に体調が悪化し、料理もできなくなっていた。

「なぁ、彼岸。客はまだかよ」

「今日はこないようね」

「おい、でも……」

「尾崎、最初に会った時も言ったでしょう? 客が来なければ私はあと少しで死ぬ。もしそうなったらそれは私の運命だったということ。それを私は受け入れるわ」

 この女はなんて馬鹿なことをいうんだ。みすみす死んでいいことあるか。俺はまだこの彼岸堂にきて日は浅いが……「死の相談屋」という仕事は人間も死人も救うことができる。葵やさよのことだってそうだ。俺たちが頑張ったから、安心して成仏したり、前を向いて先に進むことができたはずだ。

 そのためにはこの彼岸がここで生きている必要があるのだ。

「っ……尾崎、白湯を」

「わかったよ……」

 けほけほと乾いた咳をして、彼岸は苦しそうに息をする。むせかえるくらいの死臭で俺も鼻が馬鹿になりそうだった。

 台所で湯呑みにお湯を入れて冷ます。白湯であれば飲めるとのことだったが少しばかり塩を入れた。今朝から何も食ってないんだ。少しは栄養を……。弥勒のところにいって何か野菜でも買ってくるか? いや、野菜を食うのは厳しいか。

「ほらよ」

「ありがとう、尾崎。これを」

 彼岸は真っ赤な巾着袋を俺に寄越した。チャリンと鳴った音、ずっしりした重さからそこに金が入っているのがわかった。

「彼岸」

「今日はご飯を作ってあげられないから、弥勒亭にいっておいで。私は大丈夫。少し眠るわ」

 そういうと彼岸は白湯を一口飲んで横になってしまった。俺は彼岸の方まで毛布をかけて、そっと襖を閉めた。

 どうすればいいんだ。死にかけの小動物でも持ってきて彼岸の枕元に置いておけばいい? いや、生きた鳥でも捕まえて目の前で締めればいい……?

 いやだめだ。彼岸はあの花を水に流すことで……クソッ。何百年も生きていて女一人救えないのか?


 国道まで出ると、曇天から雨がこぼれ始めた。生憎、俺は傘を持っていない。大粒の雨が埃っぽい匂いをたてて、森全体が不快な匂いに包まれる。ぼちゃぼちゃと脳天に落ちてくる大きな雨粒は頭皮をつたい、額からポタポタと落ちる。数分も経たないうちにぐっしょりと作務衣に雨が染みてきた。びゅうびゅうと風が吹き付けるたび体温が奪われる。

 この体の主が森にやってきたのもこんな雨の日だったな。顔のいい優男は絶望に満ちた表情で、ずぶ濡れで森を彷徨っていた。何に絶望したのか、何が不満だったのか。男は衰弱し、死んだ。


——死んだ……?


「そうか!」

 俺は持っていた巾着袋を地面に落とした。拾う暇なんかない。森に向かわなくては。

 俺は雨の中、狐の姿に戻ると一気に駆け出した。森へ行かなくては。国道を戻るようにひた走り、彼岸堂を通り過ぎて森の中に入り込んだ。森に入ると一度足を止めて一気に妖力を解き放つ。俺の妖力のせいで近くにいた獣たちが逃げ出す。ガヤガヤとうるさい植物の音。

 集中して、この森にふさわしくない気配を探す。

「いた!」

 俺はその気配の方へ走り出す。まだ遠いが、消えそうなほど小さいが、この森のものではない気配だ。そう、この森は自殺の名所。「死」への強い想いを抱えた人間がやってくる。そいつを捕まえて、彼岸堂へ行こう。そうして「死」への想いを流させてやれば……彼岸の余命は回復する。

 お願いだ、お願いだ。間に合ってくれ。

 棘のある植物に突っ込んで、自慢の毛皮が傷ついた。でもそんなのどうだっていい。くっつき虫がひっついても、気の棘で足を怪我したって……

「痛っ」

 情けないことに俺は足を滑らせて小さな崖を転がり落ちた。崖の斜面から飛び出した尖った岩が転がる体にぶつかってあちこちが痛んだ。

 だめだ、彼岸を助けなくては。やっとのことで止まった体を起こすと、よろよろと歩くスーツ姿のおっさんを見つける。

「おっさん!」

 俺は構わず声をかけた。おっさんは、俺の声を聞いてきょろきょろとあたりを見回す。そうか、狐のままじゃだめだ。

 俺は急いで人間の姿に化けて、おっさんの前に立ちはだかった。怪我をしているからか人間の姿になっても体中が痛い。雨が傷に染みてひどく痛んだ。

「おっさん……死ににきたんだろう」

 おっさんは突然現れた俺をみて目を見開いた。そしてそのままパクパクと口を動かした。おっさんは手にロープを持っている。あぁ、よかった。こいつ、ここに死ににきたんだな。この森にやってくる人間はこうして長いロープを持ってやってくることが多い。丈夫そうな木を見つけると、器用にくくりつけて縊死するのだ。

 みたところ、おっさんもそうらしい。

「な、なんだね! 君は」

「お願いだ、死ぬんならどうして死にたいのか、あっちに住んでる女に話しちゃくれないか!」

 俺はおっさんに掴みかかる。おっさんは俺から離れようとブンブンとロープを振り回した。

「お願いだ! おっさん!」

「話せっ! 気が狂ってるのか!」

 おっさんが振り回したロープが俺の顔面を強くうち、俺はすっ転んだ。左目が見えない。ロープで強く殴られたらしい。ぼやける視界の中、おっさんが逃げていくのが見える。

「くっそ……おっさん! 待ってくれよ!」

「くるな! くるな!」

 おっさんに追いつくために俺は狐の姿に戻って走る。この姿であれば多少目がみえなくても匂いでなんとか……! 俺はなんとかおっさんを追い抜かしておっさんの前に立ちはだかる。

「おっさん、お願いだ。お願いだから俺についてきてくれ!」

 おっさんはきょろきょろと周りを見渡して、恐怖に震えた様子で耳を塞ぐ。あぁ、俺が狐の姿だから気がつかないのか。

「こっちだよ! 目の前の狐だ!」

「ぎゃ〜!」

 おっさんは俺を見るなり大声を上げると、俺をバコンと蹴り上げた。あまりの不意打ちに俺はすっ飛ばされて近くに会った太い木の幹に背中から激突する。

「ぎゃっ……」

 流石に動けなかった。肋が折れたか……? あやかしだから死ぬことはないが、痛みは感じるし肉体は傷つく。くそ……なんでもいい、彼岸を助けるために何かに、何かに化けなくては。

 そうは思っても体はいうことを聞かない。断続的に続く体の痛みで集中ができない。二、三日この森の中で眠っていれば妖力で回復するだろうがそれじゃ遅い。このままでは明日、彼岸は余命が尽きてしまう。俺が、俺が彼女を助けないと。

 雨がより一層強くなった。おっさんの気配は森から消えてしまった。木々の間を落ちて大きくなった雨粒が痛んだ俺の体に落ちてくる。

 視界がぼやけ、体の痛みがひどくなる。そうだ、社まで歩ければ……クソ。体がうごきゃしねぇ。だめだ……意識が。



 夜鳥の声で俺が目覚めた時、体は幾分かマシになって起き上がることができた。雨はすっかり止んでいたが、太陽の届かない森の地面はぐっしょりと濡れていた。どのくらいの時間が経っただろう。彼岸は、もう死んでしまっただろうか。復活した妖力で気配を調べてみる。だめだ、人間の気配はこの森にない。

 狐の姿では涙は出なかった。でも、俺はすごく悲しかった。脳裏に思い浮かぶのはこの1週間ほど彼岸や弥勒と過ごした日々のことだ。

 彼岸と出会ったのはちょうど先週の深夜だった。死臭まみれの人間がカラスの死骸を持って飄々と森の中を歩いていた。

 最初はおもしろおかしくてからかってやるつもりで声をかけたんだっけ。彼岸は不思議な女だった。掴みどころがなくて、数百年生きている俺を手玉に取るような……。

 失意の中、俺の足は自然と社に向かっていた。ここで妖力を十分に回復したら彼岸堂へ向かおう。彼岸を埋葬して、それから弥勒に挨拶でもして「尾崎」は消えたことしよう。

 短い時間だったが、まだこの世の人間も捨てたもんじゃないとそうわかっただけでも幸せだった。大丈夫、俺はこの森でまた「死の番人」に戻るだけだ。そう、ずっとずっとひとりぼっちだったじゃないか。寂しくなんかないさ、何も寂しくなんか。

 ボロボロの社につくと俺は腰を降ろした。丸くなって、妖力を回復するために再度目を閉じる。



***



「よう、オサキ。油揚げと酒をもってきてやったぞぉ」

 絵吉は腰につけた瓢箪から酒をトポトポと漆塗りのさらに注いで俺の前に置いた。俺は社のそばで座って待つ。絵吉は気の良い青年で、いたずら狐の俺に「オサキ」と名前をつけて可愛がってくれた。

 俺は絵吉が用意した油揚げを平らげると、社の裏に隠しておいたヤマメを加えて彼に渡す。

「おっ、いいねぇ。いいねぇ」

 絵吉はその辺で拾った木の枝をヤマメにブッ刺すと、腰袋に入れていた塩を塗り込んで、器用に焚き火にヤマメを当てる。じゅうじゅうとヤマメが美味しそうな匂いを漂わせ、森の中の獣たちがざわついた。

「なぁ、オサキ。俺ァ結婚して遠くにいくんだぁ」

 きゅん、と俺は鳴いて返事をする。この頃の俺はまだ妖力が少なくて、人間に化けるのもやっとだったんだ。絵吉の前ではこうして元の姿のまま、自然体でいられた。

「俺ァよ。この街では<狐憑き>って嫌われててよぉ。おっかさんもおっとさんも俺を遠くにやりてぇんだとよぉ」

 狐憑き、というのは悪い狐が人間に化けて悪戯をしたり人間を使役しているような状態をいうが絵吉はそうじゃない。彼はただただ優しいだけの男だ。優しくしている相手があやかし狐の俺であっただけ。

「きゅん、きゅん」

「狐ってのはこんなにもかあいらしいのになぁ。だぁれもわかっちゃくれねぇでよ」

 悲しそうに笑う絵吉を見て俺は鼻をすり寄せる。絵吉は俺を撫でるとひょうたんの酒をごくっと飲み込んだ。

「かぁ〜っ、こうしてお前と飲むのも今日で最後だ。達者でなぁ」

 絵吉の丁髷、古臭い畳の匂い。優しい笑顔と大きくて無骨な手。絵吉が立ててくれた小さくても立派なお社。狛狐。まだ1銭も入っていない小さな賽銭箱。ここが俺の家になるんだ。俺はあやかしだ。ここで人々の願いを叶えて神になるんだ。

「オサキ、俺ァいつか狐と人間も、妖も妖怪もみんなが仲良くなれるって思うんだァ。お前はこんなにいいやつで、俺もこんなにいいやつでさ。ヒック」

 顔を赤くした絵吉はまた酒を煽る。

「きゅん、きゅん」

 俺も賛成するように声を上げた。

「そうかァ、そうかァ。お前がいつか神さんになったら、この森にくる人間たちをたくさん助けてやってくれなァ」

 ぽんぽんと俺の額を撫でた絵吉は「よっこい小吉の助!」というと振り返りもせずに森を去っていった。言葉の通り、それから絵吉がこの森を、社を訪れることは無くなった。

 時の流れと共に、森の社には人がたくさんお参りにきたこともあったし、戦争の時なんかはお社を壊しにくる人間もいた。戦争が終わった後はいつしかこの森は自殺の名所となり、死を求めた人間が最後をもとめてやってくるようになった。

 あぁ、俺の居場所はここだ。ここで次の人間がやってくるのを、次の時代がやってくるのを見守るのが俺のお役目なんだ。



——オサキ、オサキ



 暖かい女の声がした。

 まるでひだまりの中にいるような暖かさに包まれて、俺は浮かしの夢から目を冷ました。丑の刻、俺は壊れたお社のそばで眠っていたらしい。

 起き上がってみればお社の狛狐の一匹がぼんやりと光っている。声の主はこの狛狐のようだ。

「誰だ……」

「ふふふ、オサキ。あなたにあやかしの力を与えた時以来ですね」

 声の主はそう言ったが、全く思い出せなかった。

「新手のあやかしか? 俺はこの森の主。オサキ様だぞ。去れ、去れ。今は機嫌が悪いんだ。相手なんかしてやんないぞ」

 そうだ。俺は機嫌が悪い。変なおっさんにボコボコにされるわ、彼岸の死に目には会えないわ……。

「あらあら、早とちりは昔から変わらないのね。オサキ、あの子はまだ死んではいませんよ。あなたが眠っていたのはほんの数刻。まだ夜明けまで時間はあります」

「本当かっ!」

「えぇ、間違いはありませんよ。あなたのあの子への気持ちが……私をここに呼び戻したのだから」

 この声は一体誰だ? 知っているような、知らないような……。でも、彼岸がまだ生きているなら……戻らなければ!

「オサキ」

「なんだよ、急いでるんだよ!」

「あなたが、全てを思い出せれば……彼女を救えるはず。あぁ、これ以上はもうだめね」

 狛狐のまとっていた光がぼぅっと消えた。気配も一緒に消えた。

 俺はやっとのことで体を起こす。彼岸がまだ生きている。早く、会いに行かないと。もう無理やりにでも彼岸花を追って余命を増やしてやるんだ。

 俺は必死で走った。夜明けまで数時間。彼岸が死ぬまで数時間だ。



 彼岸堂につくと、外まで死臭が漂っていた。彼岸の命が尽きるのも時間の問題だ。真っ暗なのは彼女がもう灯りをつける力もないからだろう。

「彼岸!」

 俺は玄関前で人間の姿に化けると部屋に飛び込んだ。死臭がひどいがまだ気配はある。彼岸は死んでない。いや、死にかけだが死んでない。

 彼岸の寝室に入ると、そこに彼女は横になっていた。微かにある息は非常に弱々しく、今にも消えてしまいそうな命の灯火が揺らいでいるようだった。

「彼岸!」

「遅かったじゃない、尾崎」

「彼岸、ごめん俺……相談人を連れて来れなくて、それで、その」

「いいの、これが運命なら私は受け入れるわ」

「だめだ、そんな! えっと、俺」

 彼岸はうっすらと目を開けて俺を見た。

「怪我してるじゃない」

 俺は夢中で忘れていたが、片目が傷で見えなかった。そうだ、崖から落ちて、おっさんに蹴っ飛ばされて俺は満身創痍だったんだっけか。今はそんなことどうでもいいが。

「気にすんな。彼岸、死ぬなよ。お願いだから」

「尾崎、あなたのせいじゃないのよ。だから、いいの」

 彼岸の諦めたような言葉が本当に腹立たしい。人間は100年も経たずに死んでしまうんだ。だったらもっと、もっと意地汚く命にしがみつけ。簡単に放り出すんじゃねぇ。

「だめだ、生きろ」

「これは呪いよ、だから仕方ないの」

「ふざけるな」

「あなたは死神でしょう? 私の死を待ち望んでいたのではなくて?」

 こんな時でも彼岸は皮肉を言って薄ら笑いを浮かべた。そうしたらこいつを助けられる? 死の相談人を今から探したんじゃもう時間が足りない。説得してもこいつは彼岸花を折ることはない。俺が死ぬ……? いや、俺はあやかしだ。簡単に死ぬことができない。くそ、どうしたらいいんだ。

「ねぇ、尾崎。最期のお願いを聞いてくれるかしら」

「最期なんていうな」

 彼岸はそっと俺に手を伸ばすと、弱い力で俺の手を握った。

「最期は……あの彼岸花に囲まれて、朝陽を拝みたいわ」



 彼岸を横抱きにした時、頭の中に森の中で聞いた声が響いた。


——オサキ、思い出すのよ。

——あなたの死の記憶を


 彼岸は驚くほど軽かった。彼女を持ち上げてゆっくり、ゆっくり歩く。歩みをすすめるたびに頭の中に、あのひだまりのような声が響いた。


——あなたにもあったはずよ

——水に流したい、死の話が


 まるで稲妻に打たれたように俺は思い出した。俺にもあったんだ。水に流してほいいほど辛い「死」の思い出が。

 彼岸の体を花畑の中に下ろす。彼岸は「美しいわね」と呟いた。あぁ、そうだ。俺が「相談人」になればいいんだ。


「なぁ彼岸、聞いてくれるか」

「何を……?」

 俺は横になった彼岸の手を握った。もうほとんど冷たくなっている。あぁ、本当にこの人間の余命はあと数時間だ。

「死の……相談だ」

「いいわよ、話してちょうだい」

 彼岸がゆっくりと瞼を閉じた。あぁ、この記憶は死ぬまで思い出すもんかと心の奥底に閉じ込めたものだ。だから、ずっとずっと忘れてしまっていたのだ。

 彼岸を救うためなら向き合おう。俺が、あやかしとなったあの日の暗く陰鬱で大嫌いなあの日と。

 

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