第8話
昼まで泥のように眠ったあと、俺はうまそうな匂いで目が覚めた。森の昼は静かだ。小鳥たちの鳴き声と、風で気が揺れる音。彼岸が湯でも沸かしているのか、古いやかんがコトコトと小さな金属音をたてていた。
屋根裏部屋の梯子を降りると、彼岸は割烹着をきて台所に立っている。米の炊ける香り、それからニンニクの焼ける匂いが非常に食欲をそそる。
「おはよう、尾崎。よく眠ったわね」
「はよ……ふああ」
これだけ眠ったというのにまだ欠伸が出る。でも妖力は回復しているな。森の近くにいるだけで十分だな。
「あなた、ハンバーガーが気に入ったようだから少し洋風のお昼ご飯を作ってみるのだけど、どう?」
「洋風?」
「えぇ、白身魚のガーリックムニエルよ」
彼岸が何を言っているのか、半分くらいはわからないが匂いからしてうまそうだ。重々と鍋の上で音を立てて焼ける魚の切り身はこんがりと狐色で、にんにくの香ばしさが部屋中に広がる。
「最後の仕上げね」
そういうと、彼岸は醤油を鍋にじゅう! と回し淹れる。その途端、醤油の焦げた香りがぶわっと広がってさらにうまそうな料理が完成する。
「早く顔洗ってらっしゃい」
急いで顔を洗って戻ると、食卓には魚のむにえる? とやらが並び、味噌の入ってない汁と山盛りの白飯。それから生野菜を刻んだものが山盛りになっていた。なんかタレがかかってるな。
見慣れない料理ばかりだがこれが「洋風」というものらしい。洋風というのはこの国以外の国のことらしい。なんでも、昨日食ったハンバーガーは戦争相手だった米国の料理だとか。世の中平和になったもんだな。
「これはどこの?」
「ムニエルはフランスかしらね。まぁでも、最後に醤油をいれているし、日本人の口に合うように料理してしまっているけどね」
俺は手を合わせてからムニエルを口に入れた。サクサクの表面に反して、白身魚はふっくらと焼きあがっている。彼岸の言う通り、焦がし醤油がなんとも言えず白飯に合う。バターと醤油の悪魔的組み合わせ……らしい。カリカリに揚がったニンニクの薄切りと鷹の爪が良い刺激になってさらに白飯が進む。
「おかわり!」
「はいはい」
彼岸はお櫃から白飯をこんもりと俺の茶碗に盛ってくれる。油揚げもいいけど、最近の人間の飯はうまいものばっかだなぁ。パリパリの魚の皮、それから付け合わせの人参もニンニクの香りでカリッと香ばしい。味噌の入ってない汁もなんだか複雑な味がする。俺の知らない出汁だろうか、野菜の甘みがじんわりと滲み出ているような……なんとも言えない優しい味だ。汁の中の角切りにされた小さな野菜はほろほろで噛まずとも口の中で溶けてしまう。狐である俺は元々雑食だが基本は肉食。だから野菜は好かんと思っていたが……これは美味い。油揚げの入っていない汁など価値はないと思っていたがそんなことはねぇな。
「へぇ、最近の食事はうまいんだな」
「そうね。尾崎は食事をあまり?」
「まぁ、俺はこの森に住まう死神だからな。別に食わなくても生きていけるし……最後に人と過ごしたのは100年近く前だ。こういうのとかハンバーガーとかは新鮮だな」
彼岸は「そう」と短く返事をするとムニエルを口にした。彼岸はなんだかんだいって街に実家があるお嬢さんだ。俺の知らないような美味い食べ物を食べて生きてきたんだろう。
「今日はあの二人が来るんだよな」
「そうね、あと1時間くらいかしら」
「お別れなのか」
「えぇ、さよさんの魂ももう成仏させないとあまり良い状態にならないから」
人間の魂とは不思議なもので……。強い執念や信念がある場合はそのものの記憶や思いを持ったままこの世に残ることができるが、それも長くはない。大体が悪い妖や悪霊に喰われ取り込まれ、いい結果にはならないのだ。
この森でも自殺者の魂が彷徨ってはいるものの勝手に成仏するか、悪霊の類に取り込まれて消えてしまうことがほとんどだ。俺は悪い妖ではないから、人間の魂を食ったりはしないが……。成仏できずに魂が消えるとそのものは輪廻転生できずに一生、暗闇の中を彷徨ったり、悪霊の一部として世に残り続けることになる。
悪霊はそうして大きくなり、多くの人間の苦痛を抱えたまま次第に生きた人間をその道にひきづり込む。そうなってしまえば、俺のような神に比較的近い存在にも手の施しようがなくなってしまう。
さよのような霊力の弱い幽霊はそういった悪霊などに取り込まれやすい。だから、彼岸花と共に思いを流し、夕暮れと共に成仏させるのだ。とはいえ、さよと葵の友情を超える結びつきの最後の別れに立ち会うのは少し心が痛いな。
「死ぬってのは辛いことだな」
「そうね」
彼岸は珍しく悲しげな表情をした。昨夜俺たちが見たさよの最期はあまりにも壮絶だった。うら若き少女の悲惨な最期はいくら彼岸とは言え心に大きな傷を作ってしまったのかもしれない。
「さ、茶を淹れてくるよ」
「ありがとう」
俺は食器を流しに入れて、やかんに入っていたお湯を急須に淹れる。ちょど良い温度で茶の香りが広がった。
彼岸と俺はほとんど会話もなく午後を過ごした。彼岸は相談事を記した台帳を書き込んでいたし、俺は過去の彼岸堂の書を読んでいた。客のいない彼岸堂ではゆっくり時間が流れる。
古時計の針の音も慣れてしまって気にならなくなった。ここでこうしてゆっくりしていると、ハイカラな街の暮らしでは疲れてしまうのではないか? とありもしない妄想などをしてしまうものだ。
小曳椿の記した彼岸堂の書は非常に面白い。俺がまだ狐だった頃の時代から「死の相談」は絶えずにあったようだ。そりゃそうか、人間に限らず生き物には死がつきものなのだから。
寿命が短く、それでいてあやかしの次に賢い「人間」と言う生き物は死にたいして多くの思いを抱えている。死に恐怖するものや、近いものの死を憂うもの、罪悪感で押しつぶされるもの……たくさんの人間が椿に思いを託し、そしてこの森の水に流していった。
彼岸花と共に水に流した死への思いは海に帰り、雲となり雨となりこの森へ帰ってくる。それはまるで輪廻転生のようにぐるぐると巡ってるのだ。
彼岸は峰田の分の台帳を書き終えて、硯で墨を擦り直している。多分、字を書くにしたってもっと便利で早いものがあるだろうに。彼岸は古臭いやり方が好きなのだ。変わった女である。
さて、本を読むのに少し飽きてきたし何か家事でもしてやるか。薪割りは昨日やったし、掃除か? いやいや、あやかしである俺様が人間のために掃除? そんなことはしてやる必要ないぞ! じゃあ、あれだ。ちょっと上流に言ってヤマメでもとってきてやろうか。そうだ、ヤマメを多くとったら昨日のハンバーガーの礼に弥勒亭に持って行こうか。
——オサキ。ヤマメを取ってきてくれたんだね。ヤマメってのはこうしてぎゅっと絞めてやってからたっぷり塩をつけてこんがり焼くんだ。するってーと、こううんまくなるんだよな!
俺は昔、社の近くで絵吉と一緒に食べたヤマメを思い出した。人間ってのはヤマメが大好きだ。そのくせ、ヤマメを捕まえるのが死ぬほど下手で笑えてくるんだよな。
「彼岸、ちょっと森に行ってくる」
「夕暮れまでに戻ってね」
「おうよ」
俺は彼岸堂を出てから少し森を歩くと、狐の姿に戻った。久々の本来の姿にぐっと体を伸ばし、全身を震わせる。川の水を直接飲んでやれば、水面にツヤツヤの美しい黄金色の狐が浮かんだ。
良いものを食べているからか毛艶がいい。我ながらいい男じゃないか。さて、もう少し上流に行ったところにヤマメが多く生息する小さな滝壺がある。
人間の姿でいるより足が軽い。4本の足で森の土を蹴ってかけていく。豊かな土の香り、俺の姿をみて昆虫や小動物が逃げ出していく。おいおい、俺はお前らなんか食わないぞ。ただの狐じゃないんだから。
人の背丈ほどもない小さな滝と滝壺に着くと、俺はおもいっきり飛び込んでヤマメの群れの中に突っ込んだ。手当たり次第にヤマメを飛ばして陸に上げてしまう。この森は「自殺の名所」なんて呼ばれているせいで普段は人が寄り付かないから、魚を取りにくる人間もいない。
つまりは、まるまる太ったヤマメがいっぱいいるってことだ!
「よーいしょっと」
俺は人間の姿に戻って、袋を取り出した。袋の中に川の水を入れて、岩の家でピチピチと跳ねるヤマメを突っ込んだ。苦しそうにしていたヤマメは袋の中に入ると静かにヒレを揺らした。全部で7匹。俺と彼岸が食べる分、残りの5匹は弥勒亭に持っていってやろう。
俺は弥勒亭に大量の日本酒が置いてあったのを見逃さなかったぞ。あの大将、相当の酒飲みだ。ヤマメの塩焼きと酒、最高じゃないか。いい恩返しになるはずだ。
俺は人間の姿で帰り道を歩いた。人間の姿で森を歩くのは非常に新鮮だった。あぁ、今度は社を直しにこようか。弥勒にでも手伝ってもらって、倒れた狛狐くらいは直さないとな。まぁ、社に俺はいないから別にこのままでもいいんだけども……。森の中の小さな社は小動物が雨風をしのぐために使うこともあるし、ごく稀に死ににきた人間が手を合わせることもある。綺麗にしてやらないとな。
俺は彼岸堂に帰る前に国道にでて弥勒亭へと向かった。弥勒亭は<準備中>の札がかけられていたが中に人がいるようで話し声が聞こえる。多分、夜の酒屋の準備でもしてるんだろう。仕込みをしているいい香りがあたりを包んでいる。あぁ、これは稲荷寿司のために油揚げを煮つけているな。ごくり、俺の喉が鳴った。
「ごめんください」
準備中の扉を二、三度叩くと、弥勒が「はーい」と顔を出した。弥勒は俺の顔を見るとにっこりと微笑んだ。
「昨日の礼に、これ」
俺が袋を持ち上げると弥勒が「親父! 尾崎さんがヤマメ持ってきてくれた!」と玄関先から大声を上げる。すると、前掛けで手を拭いながら大将が奥からやってきた。
「おうよ、おっ。いいヤマメだねぇ。いいのかい?」
「昨日は息子さんに世話になったんで……森の奥にいい場所であって、よければ」
大将は「入った入った」と俺を招き入れるとヤマメいりの袋を受け取って厨房へと入っていった。
「こりゃ、立派なヤマメだ。客に出すのはもったいねぇ。弥勒、下処理したら塩焼きにして酒の肴にしよう」
「おっ、さっすが親父!」
「尾崎さんと彼岸ちゃんの分も下処理してやるから安心しな」
「すんません、ありがとうございます」
「いいん、いいんだ。ほら、弥勒。二人の分を包んでやんな」
弥勒が下処理されたヤマメを手際よく紙に包んで藁で縛ると俺の方に持ってきた。礼を私にきたつもりなのにいつの間にかもてなしてもらっている。気のいい人間たちだ。
「じゃあ、今日は客が来るんでまた……」
「おう、ヤマメありがとな! 弥勒、お前も礼いいな」
「尾崎さん、ありがとう!」
俺は派手に見送られて弥勒亭を出た。もう日は傾き、風も少しばかりつめたくなってきていた。そろそろ、葵たちが来る頃だろうか。
俺は少し早足になる。さよにまた少しの妖力をわけてやれば、葵とさよに最後の会話をさせてやることができるかもしれない。
彼岸堂に着くと、もういつもの部屋に葵がやってきていた。葵の後ろにはさよがいて、二人は俺をみると笑顔でぺこりと頭を下げた。
さよの方はもう力が弱くなってしまったのかこの前よりもうっすらと透けていてほのかな光を放っていた。
「さ、尾崎も帰ってきたことだし。儀式とまいりましょうか」
彼岸の言葉に葵とさよが顔を見合わせて頷いた。どうやら二人の決意は決まったようだ。ぎゅっと手を握り合って、最後は涙を流さず笑顔でと決めたのか、二人は微笑みを浮かべている。
「尾崎、帰ってきたばかりで悪いけれど準備を」
「おうよ。お二人さん。裏庭に案内するよ」
玄関からぐるっと回って裏に回ると、夕日と彼岸花で真っ紅な景色が広がっている。濃密な香りと美しい光景を俺は見慣れているが、女学生には新鮮だったらしい。
「わぁ……キレー」
葵は彼岸花の花畑を見て思わず声を上げた。夕日が葵とさよを照らす。俺はこっそりさよに妖力を送った。
さよは気がついたのか、俺の方を驚いたような表情で見る。俺は静かに瞬きをした。
「葵ちゃん」
さよの声が響いた。
「さよ、声が」
「うん、最期はお話ができるみたい」
「さよっ、さよっ」
葵が涙を流す。さよは泣きながら笑っていた。
「葵ちゃん、元気でね」
「いやだよ、さよ。やっぱりまだ一緒にいたいよ」
「ううん、私はもう行かなくちゃ。だめだよ、葵ちゃんは世界でいちばんになって素敵な選手になって幸せになって……それからおばあちゃんになってゆっくりゆっくり来るんだよ」
「さよ、大好きだよ」
さよは葵の言葉に「私も」と答えた。葵はわんわんと泣き出し、さよは葵の背中を撫でた。
「葵、ごめんね」
「どうして……どうして。一緒にいたいよ、二人でずっとずっと一緒にいるって約束したじゃん。やだ、やだよぉ」
さよは何も言わず、ただ葵を抱きしめていた。現実を受け止められず、泣きじゃくる葵、さよの方は決意ができたのか静かに涙を流してうた。いつだってそうだ、先にいくものは自分勝手で後のものを待ってくれることはない。
この先、さよと葵が再会できることはないだろう。輪廻転生の中で記憶というものが引き継がれることはない。そもそも、次も人間になって同じ時代に生まれることなんてできないだろう。
この世での別れは今生の別れ。でも、人間というのはいつだって再会を約束するのだ。愛おしい人との別れを堪えるために、希望に変えるために。
「さぁ、彼岸花を」
彼岸が一つの彼岸花を葵に手渡した。さよは葵の手に手を重ねて、彼岸花に触れる。夕日に照らされてほのかに光る彼岸花が二人の少女の手によって小川に流された。彼岸は「別れ」と書かれた半紙を同じように小川に流す。半紙が溶け、千切れて消えていく。
「葵、ありがとう。大好きだよ」
「さよ、少し遅くなるけど、必ず、必ず会いにいくよ」
「うん、あっちでゆっくり待ってるね」
「さよ、さよ、またね」
さよの口が「またね」と動いたが、彼女の体が光の粒となって消えてしまった。その声は俺まで届かなかったが、葵には届いただろうか。光の粒となってきえ、天に登っていくさよだったものを抱きとめるように葵がぎゅうっと空を抱きしめた。
「さよ……さよ」
葵は膝から崩れ落ち、声を上げて泣いた。もうさよはいない。それを葵自身も実感しているようだった。
「ありがとうございました。あの、私……、さよの分まで幸せに精一杯生きようと思います」
葵は彼岸堂の玄関先で涙を拭きながら言った。その手首にはさよとお揃いの紐、ミサンガというまじないの飾りがひらひらと揺れている。
「尾崎、国道まで送って差し上げて」
「いえ、一人で……帰れます。さよとの最後の時間をゆっくり、思い出したいから」
葵はそういうと俺たちに笑顔で手を振って、元気に出ていった。
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