第10話
狐という生き物はある程度の妖力を持ち合わせて生まれてくるものだ。俺に名がないころも度々人に化けて人里に入り込んで美味いものを食っていた。
森は豊かで、たぬきの野郎やおっかない狼、それからでかい猪なんかが暮らしていた。森から少しいったところに町があってそこでは人間が生活を営んでいた。俺はみたらし団子が大好きで、その日も人に化けてだんごをかっぱらいに行っていた。
団子屋のババアは目が悪いが勘がいい。俺を気配で感じ取って熱々の炭を投げてきやがるんだ。その日も俺はそろり、そろりと抜足差し足忍足。ババアが後ろを向いて餅を練っている隙に塗りたてのみたらしに手を伸ばした時だった。
「あら、かわいいお狐さん」
団子茶屋の長椅子に座った女が俺に声をかけた。女は三色団子を膝の上に置いて、俺の方を見て目を細めて微笑んでいる。まさか、尻尾も耳も完璧に隠しているぞ。この女、曲者か?
「今日はおばあちゃんの機嫌が悪いの。大人しく買ったほうが身のためよ」
そんなこと言われちゃ俺だって盗むのに戸惑う。そんなこんなしているうちにババアが振り返って俺に声をかける。
「お団子いかが?」
俺は懐に入っていたなけなしの金を支払ってみたらし団子を一本買った。薄笑いを浮かべる女をひと睨みしてから女の隣に座る。
「ここのお団子は美味しいわね」
「お前が余計なことしなきゃ、タダで食えたんだ」
「あら、タダで食べるよりお金を払ったほうが美味しいわ」
食えない女だ。
女はツヤツヤの黒髪を珍しく下ろし、彼女の瞳は深紅に輝いていた。まるであやかしだ。風変わりな様子だからか道ゆく人間たちが彼女をみてはヒソヒソと噂話をする。そんなの知ったこっちゃないと女は三色団子を頬張っている。
「そうかよ」
「そうだ、お狐さん。あなたはどこに住んでるの?」
「はっ、別にいいだろう」
「尻尾が出てるわよ」
思わず振り返って自分の尻を見る。しっぽなんか出ちゃいない。
「てめぇっ」
女はクスクスと笑う。まるで俺を手玉に取るみたいにしやがって。
「あなた、名前は」
「ねぇよ」
「そう、じゃあコンね」
「はぁっ?」
「だって可愛いお狐様だもの。いいでしょ、あなたにもいつか名前をつけてくれるような素敵な人が現れるわ。それまではコン。いいわね」
よくねぇよ! と言いたかったが確かに名前がないのは不便である。俺たち獣は名前なんてのはつける習慣がない。人間と話す時、名前がないと不便だなぁ。
「お前は誰だよ」
女はクスクスと笑うと三色団子にかぶりついた。どうやら俺に名前を教える気はないらしい。
「夕暮れ時、森の端にある小さな屋敷においでなさい。そうね、小川の近くの……そこに私は住んでいるの。よければ美味しい油揚げをご馳走するわ」
「油揚げ!」
それから、俺と女の短い交流が始まった。女は人里離れた森の近くに小さな家を建て、そこに住んでいた。森の中にいた俺でもこの場所には気がつかなかった。人間の匂いはしないが、動物が死んだ時に出るような嫌な匂いが充満していた。
「いらっしゃい、上がってくださいな」
昼間にあった時よりも女はやつれたように見えたが気のせいだろう。臭い。家の中でネズミでも死んでいるんだろうか。
「あら、わざわざ人間に化けなくてもいいのに」
「う、うるせぇな」
女はよくみればかなりの美人だった。年齢は俺と同じくらい……20代くらいだろうか。嫁に言っていないところを見ると……いや、あんだけ性格が悪ければ嫁の貰い手などないだろう。
「私は小曳椿。ここで相談屋をやっているのよ」
小曳椿はここで一人、相談屋という不思議な店を開いているらしい。料理が上手く、鼻につく女だが話は面白い。
「おい、ネズミでも死んでるのか。くせぇ」
「ふふふ、私から死臭がするのね。死臭よ、死臭」
「お前、生きてんだろ」
「私ね、呪いにかかってるの。呪いがかけられているの」
椿によれば、彼女の父の不貞で末代までの呪いにかかっているらしい。なんでも、生物の「死」に関わっていないと死ぬとか、常に死臭が漂っているとか。瞳が紅色になるとかだ。
「ふーん、じゃあお前、あと数日で死ぬんだ」
「えぇ、ここに死の相談をしにくるお客さんがいなければね」
「なんだよそれ、森に入って猪でも狩ったらどうだ? 殺生をすれば死に触れる。お前はそれで死なない。簡単じゃないか」
椿の炊いた飯を食いながら、俺はそう言ったが椿は首を横に振った。
「それじゃ、つまらないじゃない。死を受け入れることも運命。すべては導きのもとにこの世はできているのよ」
「変な女」
「私には面白い力があってね」
椿は紅色の瞳を細めて笑うと俺の胸に手をかざした。
(あーあ、まーた変なこと言い出したよ、この女は)
「あーあ、まーた変なこと言い出したよ、この女は」
椿は俺の心の声そのものを口に出した。憎たらしいことに俺の話し方をちょっと真似してやがる。
「俺の話し方を真似してやがる」
「おい、やめろって」
「ふふふ、ね? わかったでしょう?」
「わかった、わかった。勘弁してくれよもう」
椿はクスクス笑って、手をかざすのをやめた。この女はどうやら心の声が聞こえるらしい。だから、あの団子屋で俺の正体が狐だと気がついたのだ。というか、あのババアとのやりとり全部聞かれていた……?
「手をかざさなくても聞こえるのよ」
椿は薄笑いを浮かべる。勘弁してくれ……。
「まぁ、心を読んでしまうのは簡単だけれど、聞こえないほうが楽しいのだからもうやめるわ。ごめんなさいね」
椿はそういうと、俺から目を逸らし、油揚げを摘んだ。
死の相談人が来なければ4日で死ぬ。
そんな女と知り合って数ヶ月が経った頃だろうか、ぱったりと相談人が来なくなってしまった。椿はもう動くこともできなくなって、病床に伏せていた。
「お迎えが来るのが早かったわね」
「なんだよ、もう油揚げ。焼いてくれないのかよ」
「そうね、焼いてあげられないわ」
「悲しいこと言うんじゃねぇよ」
「可愛い可愛いお狐様」
椿の死臭ただよう手が俺のおでこを撫でた。暖かく優しい手はもうすでに氷のように冷たくなっていた。
「わがままを言えるのであれば、そうね。私を食べてちょうだい」
「お前はまだ生きて、俺の飯を作ってくれるんだろう?」
椿はそっと俺の頬を撫でる。
「優しい優しいお狐様。私が逝く前にあなたに力をあげる。あなたはあやかしとなってこの森を、私の子孫を、彼岸堂を守ってね」
「そんな、お別れミテェなこと……」
「ねぇ、私。最後にヤマメが食べたいわ」
この女、こんな時だって薄ら笑い浮かべやがって。でも、覚悟を決めた人間の希望を無碍にはできねぇ。
「わかった。お前が死にたくなくなるような特大のヤマメを取ってきてやる。それまで待ってろ。いいな、絶対に待ってろ」
戻ってきた時、彼岸堂に入る前に彼女が死んでいるのがわかった。強く漂っていた死臭は消え去っていたからだ。寝床からだらんと垂れた白い腕は冷たくなり、ぴくりとも動かない。俺は、彼女の最期の願いすら叶えてやることはできなかったんだ。
冷たくなった椿の手を握って、どれくらいの日が経っただろうか。不思議と椿の体は腐らず、綺麗なままだった。
ある夜、俺は外が騒がしいのに気がついた。
「おい、ここだ」
「人を呪ってるって話だぜ」
「もう数日見てないから死んでるかもな」
「死体だけでも回収して燃しちまおう」
ゆらゆらと揺れる数本の松明。
人里の男たちだった。椿は紅色の瞳とその怪しい(意地悪い)性格のせいで人にはかなり嫌われていた。そして、この「死の相談屋」という不気味な仕事のせいで呪い師か何かだと思われ疎まれていたらしい。
椿が里にいかなくなったのに気がついた奴らが、生死を確認しにきたらしい。男たちの会話を聞いて、俺は椿の言葉を思い出した。
——私を食べてちょうだい
俺は人間を食う趣味はねぇ。狐は雑食の中でも肉食よりだとはいえ、人間なんか襲ってくったりしねぇ。不味そうだし。そもそも死肉は食べないし。
「あぁ、君の悪い女だったな」
「埋葬する必要なんかないさ、海に捨てちまおう」
「触りたくもねぇ」
「君悪い女、呪われそうだ」
「このままこの屋敷ごと燃やしちまおう」
土足で入ってくる男たちに俺は唸った。大きな狐に姿を変えて、牙を剥く。男たちは俺に驚いて後ずさる。
「なんだ……あの女狐だったのか!」
「近寄るな……」
俺の声に男たちは松明を振る。まずい。家の中に火がつく! 俺は必死で松明を持っている男に噛み付いた。俺が噛み付いたことで男たちは混乱する。
「殺される!」
俺は次々に男たちの喉笛を裂いてやった。俺たちの、椿のことを馬鹿にするからだ。椿は美しく、純粋で面白い女だった。呪いなんか使っちゃいない。むしろ、人間たちの心を綺麗にする手伝いをしてたんだ。
5人ほどの死体が彼岸堂に転がったころ、俺は人間の姿に化けて椿の体を外へ持ち出した。
「なぁ、椿。俺は殺生をしちまったよ」
「俺はさ、お前との思い出を守りたかったんだよ」
返り血で気が立っていたのか、俺は興奮していた。こうして古い動物は化け物になっていくのか。俺はそのうち、人を殺すことに抵抗を感じなくなって、誰もが嫌う化け物になっていくのか……。
俺がどんなに声をかけても、俺の腕の中の椿は反応しない。眠ったような表情のままただ存在しているだけだ。恐ろしく軽い体を抱き上げて、俺は裏庭の彼岸花の咲き誇る畑へ向かった。
ここで儀式をする椿は世にも美しく、花の生気を吸って余命を呼ばす様はまるで天女のようだった。
——私を食べてちょうだい
うっすらと白みはじめた夜空の下、俺には椿の声が聞こえたように感じた。腕の中の椿はうっすら笑っているようにも見えた。
俺は椿をぎゅっと抱きしめて、抱きしめて、それから首筋に噛み付いた。死臭はしない。血も流れない。柔らかい人間の肉は人間の歯でも十分に噛みちぎれた。
肉を飲み込むと自分の体が縮むのがわかった。俺の体は狐に戻っていた。もう止められない。俺は椿の体に夢中で噛み付いて、噛みちぎって、飲み込んだ。滴る血をなめとり、骨も噛みくだいた。
彼女の体を取り込むほど、妖力が強くなる。俺はそうして、朝日が昇るまでに椿を食らった。
朝日が登ったあと、俺は彼岸堂の死体を花畑の下に埋め、妖術で彼岸堂に守りをかけた。
俺は、人を……愛した人を喰らってしまった。彼女の不思議な力であやかしとなった。もう人に関わるのはやめよう。森の奥でひっそりと暮らそう。そうだ、仙狐になる修行でもしてやろうか。
——なぁ椿、また俺に会いに来いよ。そしたら今度は死なせないからよ
***
彼岸は俺の手をきゅっと握った。
夜空が白みはじめ、空気は一段と冷たくなっていた。微風が吹いて彼岸花が揺れる。俺は、俺があやかしとなったあの日、ここで起きた出来事を全て思い出した。あのひだまりのような声の主・椿のことも。彼女を愛していた幼き自分のことも。
「あぁ、椿。お前ってば会いにきてくれたんだな」
腕の中の彼岸はまだ息があった。
浅く、優しく、強い死臭の中で彼岸は俺の話に耳を傾けてくれていた。一生懸命に薄ら笑いを浮かべて、そっと手を伸ばす。
「尾崎、半紙を」
俺はくしゃくしゃになった半紙を懐から取り出すと彼岸に手渡した。彼岸は俺に人差し指を差し出す。
「なんだよ」
「噛んで」
「はぁ?」
「墨の代わり」
彼岸は俺の犬歯に人差し指を滑らせると、滲んだ血で半紙に「再会」と書いた。
「尾崎、花を」
俺はすぐ近くに生えていた彼岸花を折る。太陽が山の中腹から頭をのぞかせる。早く、早く小川へ。
俺は彼岸を抱き上げて小川へと走った。彼岸は半紙と花を握って小さく息をする。間に合ってくれ、間に合ってくれ。今度ばかりは死なせたくないんだ。
——椿、助けてくれ。頼むから
「彼岸、彼岸」
「さぁ、尾崎。その思いを……けほっ、流しましょう」
彼岸を小川の近くに下ろし、俺が支えるようにして座らせた。俺は椿への思いを花に込める。じんわりと手の中が温かくなり、彼岸花が淡い光を放つ。本来なら夕暮れに行う儀式だが……。
俺は彼岸花を小川へと流した。続いて彼岸の手から半紙がはらりと落ちる。
——さよならだ、椿
彼岸の体からふっと力が抜ける。俺は軽くなった彼女を受け止める。
全てを思い出した。忘れていたことも、忘れたかったことも。俺はずっと昔から彼岸堂を知っていた。俺は、知っていたのだ。
俺は彼岸を抱きしめたまま、目を閉じた。ずっとそばにいてくれた椿がもうどこか遠くへ行ってしまったような気がした。
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