その背中に追いつきたくて 1
「そ、それはつまり……」
確かに、卒業式前日までの情報では、ジェラルド様は前線にいたはずだ。
その場所は、北端に近くて、馬を替えて夜通し駆けてきたとしても、一日で帰ってこられるはずがない。
それに、まだ戦いは終わってなかったという……。
「じゃ、俺はそろそろ帰るかな」
「……バルト。本当に感謝している」
「気にするな、俺とお前の仲だ。今度、改めてステラ様のこと、紹介してくれよな?」
「……」
「ははっ。そんな目で見るなよ。早くわかってもらえるといいな?」
「早く帰れ」
ジェラルド様に友人のように軽く手を振って、私には恭しく一礼したあと、バルト卿は帰っていった。
いつの間にか、使用人たちも下がってしまったようだ。
食堂には、食事を終えた私たちだけが、取り残される。
「さ、そろそろステラも部屋に戻りなさい」
「……ジェラルド様」
「……なぜ泣く、ステラ」
婚約破棄されて、命の危機にさらされても泣くことがなかった。泣かなすぎて、可愛くない女だと周囲に言われていたくらいだ。
それなのに、どうしてこんなに簡単に涙がこぼれてしまうのか、私にもわからない。
戸惑ったような無骨な指先が、私の頬に触れて涙を拭う。
潤んでしまった視界の中で、金色の光が揺れているのは、まるで湖に映し出された月みたいだ。
そんなことを思いながら、一度強くまぶたを閉じる。
「どうして……。ジェラルド様に、私は何もしてあげたことがないのに、いつも助けてくれるんですか?」
王太子の婚約者としてせめてジェラルド様の前で、恥じない自分でいたいということだけが、いつだって私の支えだった。
本当に、時々会えるだけのジェラルド様は、いつだって余裕の表情で私に笑いかけてくれた。
私はずっと、ジェラルド様よりも子どもだったし、王太子の婚約者としての立場もあったから、優しさをもらうばかりで、何も返すことができなかった、そんな自覚があるのに。
「どうして……。戦いが終わる前に、戦場から離れるなんて、重い罪を問われてしまいます」
「……ステラ、君の命には代えられない」
ふわり、と頭を撫でられた。
必死になって涙を拭って上を向けば、ジェラルド様は、どこか困ったように笑っていた。
「それに、君はいつだって私のことを救ってくれた」
「……え?」
「無邪気な笑顔も、私が怪我をしていたことに気がついて涙ぐみながら差し出してくれた少し不格好なお守りも、いつも摘んで差し出してくれた小さな花も」
それは、大好きな王子様のために、小さな子どもがしたことだ。
ジェラルド様は、私のことを助けてくれたけれど、やっぱりそれは幼いころから知っていた少女を守ってあげたかったというだけなのだろう。
それとも、現在この国で一番強い力を持つ風の精霊、ルルードが私のことを気に入ってしまったからなのだろうか。
「……ジェラルド様、でも私はあなたが、私のせいで罪に問われるのも、傷つくのも嫌なんです」
「ステラ、ありがとう。君は優しいから、余計な心配をかけてしまったようだね。でも、この年になれば困難な状況の抜け道もたくさん知っているから問題ない。今回のことも、すでに処理済みだ」
「……それは、良かったですけれど、そういうことではなくて」
どこかズレた会話は、私がジェラルド様に子ども扱いされている証拠に違いない。
そう思ったとき、頭を撫でてくれていた心地よい手のひらが、スルリと頬に滑り降りてきた。
「では、こう言ったら伝わるのか? ……君のために傷つくなら、本望だ」
そう言って、優しく笑ったジェラルド様は、本当に素敵すぎて、息が止まってしまいそう。
でも、私の気持ちはきっと伝わっていない。
「ジェラルド様が、傷つくのは嫌です」
「私は強いから、心配しなくても大丈夫だ。……だから君は、私に守られて、ここで幸せに過ごしていてほしい」
完全にジェラルド様にとって、私は庇護対象なのだろう。
でも、私はいつだって、ジェラルド様の力になりたいし、喜ぶことをしてあげたいし、できることなら守りたい。欲を言えば、私のことを好きになってほしい。
「……ずっと、好きだったから」
ぽつりと口元からこぼれ落ちた小さな呟きは、婚約破棄の直後に勢い余って告げた言葉だ。
けれど、そういった対象に見てもらえてないことを理解していて、今ここでもう一度告げるなんて、私にはできそうにない。
「え? 何か言ったか、ステラ」
ジェラルド様が、好きだって言いました。
いつかきっと、振り向いてもらえるように頑張りますから。
そう心の中で決意する。結婚しても、今はまだきっと私の片思いだから。
まずは、大人の女性として認めてもらいたい。
ジェラルド様は、いつも一人で抱え込んでしまうから、せめて私のそばにいるとき、幸せだと思ってもらえるように頑張りたい。
「……とりあえず、私の運命にジェラルド様を巻き込んでしまった責任を取ります」
「……責任?」
「私、早く頼ってもらえるようになって、絶対にジェラルド様を幸せにしますから!!」
「……幸せ?」
急な私の決意をどう思ったのだろう。少しぼんやりと私を見下ろしているジェラルド様の肩に手を置く。
この身長差は、なんとかならないのだろうか。かがんでくれなければ、まったく届かないではないか。
私は、不思議そうにこちらを見つめているジェラルド様の横に、食堂の椅子を運ぶ。
「ステラ……。何をしようとしているんだ?」
「そのまま動かないでくださいね?」
「ん? ……わかった」
いつも履いていた物より、用意されていた靴のかかとは低い。
やはり可愛らしいリボンがあしらわれた靴を脱いで、お行儀悪いけれど椅子にのる。
心臓が口から飛び出しそうだ。でも、少しでも私の気持ち、わかってほしいから。
もう一度、ジェラルド様よりも高い位置から、その肩に手を置く。
いつも、私のことを撫でてばかりのジェラルド様の髪は、思ったよりも柔らかくてさらさらしている。
そっと、その髪を撫でて、膝を曲げ、頬に口づけを落とす。
ぴょんっ、と椅子から飛び降りて見上げれば、ジェラルド様は、頬を押さえて呆然と私を見下ろしていた。その頬が、いつもと違って心なしか赤いことに溜飲を下げる。
「絶対に、振り向いてもらいますからね!」
ビシリ! とそれだけ宣言した私は、あまりの羞恥にジェラルド様を置いて廊下に飛び出したのだった。
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