第12話

「―――それは」

「ストップ。詳しいことは僕からは言わないよ。そうだな、そこで江本さんに慰められているあわれな女にでも直接訊いてみたらいいんじゃない?」

「……おまえは、何か知っているのか?むしろ、何故律人はその事実を知っていた?」

人の言うことを聞いてた?とばかりに目の前の男は片眉を不愉快そうにひそめた。

「律人は、ほんの小さい頃から目に映ったものは記憶として残っているんだよ。そこには、自分が産まれ育った場所までもきちんと残されている。自分が、貰われてきた子だということもね」

「だけど、俺が一歳の頃にはすでに隣に律人が一緒にいたはずだ。その頃の写真はアルバムに残っていることも知っている!」

「そうだよ。0歳の頃から律人はこの家にいる。両親が出資している児童養護施設から音楽の才がありそうな子を選出してきたのだから」

調が聞いたことのない話ばかりで、呆然と立ち尽くしていた。あまりのショックに余程情けない面持ちだったのか、目の前の男はくっと滑稽そうに口元を歪めた。

「言わない、と宣言したはずなのにぺらぺらと色々話しすぎたな。詳しいことを知りたかったら路香のクローゼットの奥を探してみなよ。多分、いいものが見つかると思うよ」

調が何かを口にしようとした時、目の前の男はがくっと項垂れた。そして、そのまま後ろのソファーに体を預けるように座った。

「律人!」

調の声に廊下から母と江本さんも姿を現した。そして、項垂れる律人を見ると、母はそのまま調の方を見ずに律人に駆け寄った。

「律人!どうしたの?大丈夫?」

母は両肩を掴み、必死に訴えかけた。

「……母さん、律人は大丈夫だよ。ちょっと具合が悪くなって気絶しているだけで―――」

「気絶って……!大事じゃないの!」

「路香さん、落ち着いてください。律人さんの呼吸は正常ですし、本当に眠っているだけですから。大事ありませんよ」

後ろから江本さんがそっと近づき、そう優しく話しかけると、母はふっと体の力が抜けたようにその場に座り込んだ。そして、ううっと小さく嗚咽をあげた。そんなあからさまな弱さを見せる母を見るのは初めてのことだった。偉大な音楽の女王である母は、いつも気丈に振舞い続けていた。音楽の神を作り上げた母は偉大で、常に光を帯びていた。そんな母はとても眩しかった。

だけど、律人と共に歩み続ける母は、いつしか調の母たる存在からは遠ざかるようになっていた。調の母でもあるはずなのに、常に律人と行動を共にする彼女の視線の先に調はいなかった。寂しかった。とても寂しかったし辛かった。だけど、律人という弟の才能を世間に世界に知らしめるために母は頑張っているのだと思っていた。思うようにしていた。

律人が篠が原を辞めて、清真高校に通うことになったと聞いた時、調の心にはわずかな希望の光がともった。母の意識が律人から離れたなら、今度こそ自分の存在に目を向けてくれるだろうと。これでやっと、母と真正面から向かい合うことが出来るのだと歓喜していた。

だけど、それは違っていた。

目の前の母はまだ嗚咽を上げながら、律人の手を握りしめながらその体をやさしくさすっている。そんな仕草、調にはしてもらったことがない。

律人の中の存在がいうように、律人が調の本当の弟ではなく貰われてきた存在だったとしても、血のつながりがなくても、やはり大切なのは大事なのは律人なのだ。

調は、ただの才のない凡人でしかないからだ。

その事実をあらためて感じ、すうっと体の中のともっていたわずかな光が消えていくような感覚を感じていた。

戻ってきた律人と、埋められない兄弟の時間を取り戻そうと奮闘していたのも、すべてはままならない母の愛情や興味を調にまた向けて欲しかったから。最初から分かっていたはずなのに、その事実から目を背けていただけだった。

調はひそかに下唇を噛みしめた。


取り乱した母はその日は律人の傍にいたいと主張していたが、調が口を開く前に江本さんがしっかり体を休めるようホテルに戻るよう説得してくれた。荷物の大半はホテルに置いていたままだったし、目が覚めた律人が母の姿にまた動転してもう一人の彼に戻るとも限らないからだ。

母は名残惜しそうに家を出ていった。

調はほっと胸を撫で下ろしつつも、もし、父と母がこの家に戻ってきて四人で過ごすことがあってももう家族のかたちには戻れないんじゃないかと思っている。一ノ瀬家は、長きに渡り多様な家族のかたちを取りすぎていて、すでに分離していることこそが本来の家族としての形態をなしている。それを、無理やりにくっつけようとしたとしても、けしてうまくいかないだろう。

それに、今更子供たちとの絆を深めようとする両親の言い分も何か不可解だ。母も父も以前のような形に戻りたいとは言っていたが、父に至っては調があまり記憶に残っていないぐらいの頃に海外へ拠点を移し、今やその姿もたまに送られてくるハガキでくらいしか確認が出来ない。

父という存在を無理やりに記憶に残しておくよう強制されているかのよう。

調はかぶりをふって、そのまま自分の部屋へ向かった。

隣の部屋で、律人は昏々と眠っている。目覚めたとしても、母が来たことさえも覚えていないのかもしれない。調はどっと体に伸し掛かってきた疲れを享受しながらも、彼の言葉が頭の片隅から離れなかった。

(児童養護施設、か……)

調は今にも眠りに落ちそうな体を起き上がらせて、部屋の外に出た。隣の部屋のドアに耳を当てると、すーすーという規則正しい寝息が聞こえてくる。律人にも彼にもあまり気づかれないようにしたい。

奥の部屋は両親の寝室だ。今はほとんど使われていないが、江本さんがシーツを洗ったり、布団を干したり、空気を入れ替えたりなど定期的に掃除をしてくれているようだ。

きい、というきしむ音と共にドアが開いた。

ボルドーの厚手のカーテンが引かれており、裸足で中に入ってもざらざら感はなかった。拭き掃除も施されているのだろう。電気をつけて、右側にある幅広のクローゼットに近づいた。ゆっくりと左右に開くと、母の服が少し残されているだけで、閑散としていた。クローゼットの左端の方に小さな天然木のチェストが置かれていた。ごくっと生唾を飲み込むと、上の段から引き出しを開けてみた。何か白い袋のようなものに包まれている紙のようなものがあった。中から取り出してみると、父と母と調と律人が並んで写っている写真があった。ただ、後方には白い教会のような建物があり、見覚えのないものだった。

何枚か見てみると、若い頃の母がおくるみに包まれた赤ちゃんを笑顔で抱いていた。写真の隅に〈律人を迎えた日〉と記載されている。

(やっぱり……律人は父と母の子供ではないのか……)

さらに次の写真を見ると、二階建ての建物をバックに父と母、あとは白の白衣を着た男性やエプロンのようなものを着た女性たちなどたくさんの大人たちがずらっと並んで立っていた。その建物の入口のところに何か文字が書いてあった。

「―――光の苑」


「兄さん、おはよう」

あくびを噛み殺し、いつもの調子で律人がリビングに姿を見せた。余程驚いた表情だったのか、律人は怪訝そうに首をかしげた。

「兄さん、どうしたの?何か幽霊でも見たいような顔してるよ」

「……別に、毎日同じ屋根の下で生活している弟なんだから、そんな顔するわけないだろう」

「まぁ、そうだよねーあ!今日は江本さんのスクランブルエッグだ!僕にはベーコン、たくさん入れてくれた?」

「もちろんですよ。今日はホットサンドでたくさんチーズも挟んであります」

キッチンから江本さんが顔を見せた。彼女も昨日のことがあったが、一切口にしなかった。

「ホットサンド!珍しいね。だけど、僕の大好物だ」

律人は席に座ると、大口を開けてホットサンドに齧り付いた。美味しそうに咀嚼している。そんないつもの子供のような無邪気さを見せる律人の様子に、調は自然と笑みがこぼれてきた。

ゆっくりと朝御飯を味わっていたせいか、お互いせっつくように駅まで走った。駅にはいつものように依月が手を振って待っていてくれた。最近、電車内でも律人も依月にくだけたように話すようになった。もともと誰とでも楽しそうに話すことのできる話術にたけた依月は、そんな律人の調子に合わせながら会話をしている。調は基本的に二人が話しているのを無言で聞いているだけだ。

清真高校の玄関につくと、一年生のところに乾が待っているようになった。ここ最近の話だ。だけど、律人は彼に挨拶をすることもなく、そこに誰もいないかのように調や依月に手を振って歩いて行った。

「あれは、無下に扱ってるとこじゃなくて?素の関係性ってことなのかねぇ」

「……さあな」

朝から調に向かって以前のような視線を向けるようなことはなくなったので、あまり気にしなくていいのかもしれない。乾は踵を返して律人の背中を追っていった。

「あーもう少しで体育祭かぁ。調は何に出んの?」

一時間目の教科の見直しをしている時に、依月に話しかけられて片眉をあげた。

「……俺は残り物のでいい」

「まーたそういうこと言う。今年から障害物競走、ペアでも参加オッケーらしいよ。俺と出る?」

依月はにこにこと笑顔で指を指している。

「俺と出たって、好成績は望めないぞ」

「いいんだよ。俺は仏頂面の一ノ瀬調とこんなに仲がいいのは俺だけだぜって、まわりに意思表示をしたいわけよ」

「してどうするんだ?」

「少しでも、とっつきにくさを解消したいんだよ。幼馴染として。調と話したくてうずうずしている女子が多数いるの、知らないだろ?色々な部活の人たちから表舞台に出すように頼まれているんだよね」

「―――くだらない」

「くだらない、はないだろう。調は自分の世界に閉じこもりすぎてるんだよ」

「俺は、俺はそんなことに構っている時間はないんだよ!」

調の大声に、教室内はしん、と静まり返った。

「調、どうしたの?」

菜月の心配そうな声に、調は俯いた。そして、小さな声で

「……いきなり大声上げて悪かった。とりあえず、俺を放っておいてくれ」

と呟いた。その後、依月は話しかけてこなかった。

依月や菜月がいつも気にかけてくれているのはよく分かっていた。だけど、調は体育祭とか学生が協力し合って何かを成し遂げていくイベントが苦手だった。依月ほど、スポーツが得意じゃないこともあるが、人は所詮、一人で生きていかなければならない生き物なのに人は一人じゃない方がより達成感を味わえるよという曲がった観念を無理に植え付けようとするからだ。

(そんなの詭弁だ)

家族が家族のかたちを成していないように、人との関りや繋がりも所詮紛い物なのだ。

そして、今はあの写真に写っていた〈光の苑〉という場所を突き止めて、律人がどうして一ノ瀬家に引き取られたのかを知りたい。調が一歳にもならないくらいの頃に将来性を見いだせず、他方から受け入れざるを得なかった理由を知らなければならなかった。


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