第11話
調と西窪くんとの間にしばし沈黙が流れていた。
西窪くんは思い出したくもない過去の惨状を思い出された反動なのか、唇をかみしめてテーブルに置いた両の拳をぶるぶると震わせている。
弟の信じがたい凶行を聞いた調は、聞いた後でもしばらく信じられずにいた。長きに渡り、交流が最小限にされていたたった一人の弟とはいえ、先日は共に出掛けて笑顔で過ごしていた。律人のピアノの超絶技巧をこの目で確認し、一緒に映画を観て、ハンバーガーにスイーツブッフェにも行った。
まだまだ自分に対してぎこちないところはあるが、見せてくれたあの姿は取り繕った仮の姿ではないと思う。ないと思いたい。
だけど、まだ明らかにされていないが、美月の不可解な死に方に律人が関与しているかもしれないという可能性も、払拭されてはいない。
美月の死の真相に近づかないようにしながらも、大きくなるにつれて、それはけして真実ではないと否応がなく気づくようになってしまう。橋の欄干に寄りかかりながら必死に心情を吐露した菜月。それ以上、調を踏み込ませないように妹を制止、激高する依月。
あの二人は周りの人たちに気付かれないように少しずつ少しずつ疑心を募らせ、その思いはついには心を侵食させていった。
菜月の明るさも、依月のおどけた感じも、すべての感情に蓋をしたからだ。
何故、そのことに気付いてあげられなかったのだろうか。
「……手に大怪我を負った同級生は、命に別状はありませんでしたが、指を動かす神経を損傷したのか、以前のように指が動かせなくなってしまいました。ピアノ科で学ぶ者にとっては、致命的です。ピアノで生きていく道を、閉ざされたのと同じことですから」
「その同級生は、その後どうなったんだ……?」
おそるおそる口にすると、西窪くんは少し非難するような視線を向けた。
「篠が原を辞めましたよ。ただ、一ノ瀬律人を非難することはしませんでした。巻き込まれた他の同級生たちの親は慰謝料とか色々訴えていましたけど、当の本人はもうこれ以上一ノ瀬律人に関わりたくないというだけで、何を言ったのかも一切話さずに去っていきました。その後、一ノ瀬律人は少しずつ学校に来るようになりましたが、同級生たちは遠巻きにしていました。ひたすらに、彼が恐ろしかったんです。その雰囲気を感じ取ってか、一ノ瀬律人も敢えて関わろうとはしませんでした。そのままいつの間にか中学を卒業し、高校に進級するという時に、一ノ瀬律人が篠が原を辞めたと聞いたんです」
『でも、ある時に周りの視線が羨望から畏怖に変わった時期があったんだ。僕に覚えはなかったけどね。母も急に僕に固執するのを止めた。ふっと肩の力が抜けたよ。でも、それを契機と思って篠が原の高等部の進学を辞退したよ。ああ、これで普通の人生を歩めると思って飛び上がるように嬉しかったね』
(―――そんなことをしたのに、律人本人はその記憶がなかった)
「そこまでのことをして、校長とか大人たちはもっと色々と律人に訊いたりしなかったんだろうか……」
「訊いたらしいですよ。何人も怪我させていますし。だけど、単に同級生から言われたことを言いたくなくて、はぐらかしていたのだと思っていました。記憶にないだなんて、そんな、あの時の残虐性をむき出していたのは、一ノ瀬律人であって別の人格であったと評されるしかないじゃないですか」
「別の人格……二重人格ってことか?」
「二重人格っていうのか、僕には分らないですけど」
はたっと西窪くんが腕時計を見ると、慌てたように席を立った。
「すみません!そろそろレッスンが始まるから、帰らないと」
「あ、ああ、そうか。もうそんな時間か。西窪くん、今日はわざわざ話してくれてありがとう」
調は深々と頭を下げた。
「いえ、僕は、当時あったことだけを話しただけですから。でも、そんな大きな問題なことをしでかしても、やはり一ノ瀬律人の威光は消えないんです。同級生の間でも、教員たちの間でも。僕がどう頑張ったって、一ノ瀬律人はやはり天才だった、って皆感じていることなんです、悔しいけど。どう足掻いても、僕は彼と同じレベルに達することは出来ない」
西窪くんは悔しそうにそう呟いた。
「だから、一ノ瀬律人に伝えてください。学園は、いまだに君の幻影に惑わされている。だから、生身の君がまた素晴らしい音楽を篠が原で奏でて欲しい、と」
「……ああ、分かった」
西窪くんは、少し苦しそうに笑みを浮かべた。
(二重人格、か……小説や漫画などにはそういうキャラが出てくることはあるが、現実で、しかも身近な人間にその傾向があるなんて)
調は最寄駅から家へと続く道をゆっくりと歩いていた。辺りはどっぷりと日が落ちて暗くなっている。駅から十五分くらい離れているが、大通りを過ぎると、細い道が多くなり人通りも一気にまばらになってくる。街灯も所狭しと林立しているわけではないので、全体的にあたりは薄暗い。
でも、今は闇に包まれているこの感覚が、どこか心地よかった。
(律人も、もしその別人格に意識を乗っ取られているとしたら、その時の律人はこんな闇に覆われている感覚なんだろうか……?)
何もしゃべれず、体も動かせず、意識の底でもがいているのだろうか。
(いや、本人は何も覚えていないと話していたから、もしかしたら律人の意識そのものを寸断させられているのかもしれない)
律人が、繭のように体を丸くして暗闇の中臥せている姿が浮かんでくる。
(でも、それは、律人本人の感情や意識を無視した、冒涜そのものなんじゃないか)
調の眉間に、知らず知らずのうちに力が入る。
「だったら、もう一人の律人を引きずり出して、対話しなければならないな」
家に着くと、リビングで言い争っているそうな声が聞こえてきた。江本さんと律人、ということはないだろう。だとしたら―――
調は急いでリビングのドアを開けると、そこには泣きそうな表情の母と眉を吊り上げた律人が対峙していた。
「調」
「母さん、来ていたのか……?」
「兄さん、その人を早くここから追い出そうよ。せっかく江本さんが僕たちのために美味しいご飯を作ってくれているのに、食べられないんだよね」
吐き捨てるように呟く律人に、調はおそるおそる視線を向けた。
「律人、母さんがこうして来てくれているなら、皆でご飯を食べればいいんじゃないのか?」
「―――は?僕は嫌だよ、兄さんにも、音楽の使い道を無くした僕にも、一切構わなくなったくせに、こうしてちょっと時間が出来た時にふらっと来て母親面してさ、都合が良すぎるんだよ!」
こんな体全体で怒りを噴出させる律人を初めて見た。調はふうふうと肩で息をしていた。
「僕はもう篠が原を辞めたんだ。父さんや母さんの駒はもう辞めた。もう、兄さんと僕を切り離すのはやめてくれないかな?あんたたちのために、僕も兄さんも散々に振り回されて、たくさん傷ついて苦しめて、まだ足りないってこと?」
「律人、聞いてちょうだい。母さんは、あなたとの関係をやり直したいの。もちろん、調とも。ずっと律人を音楽家のレールの上を歩かせていたことは分かっているの。あなたたちのことも、ずっと江本さんに任せっきりで、目を背けていた。父さんも、きちんと向き合いたいって、日本に帰ってきてくれることになっているの。母さんも、これからはこの家であなたたちと生活して、コンサートもやれる時だけやろうと―――」
「ふざけるなよ、もう、遅いんだよ―――!」
律人は急に額を押さえて、体をくの字に曲げた。苦しそうに胸を搔きむしっている。
「―――律人、どうしたの律人」
「来るな!」
母が近づこうとすると、律人は片眼を押さえながら母を睨みつけた。調は、その目に映るいつもの黒い光とは違う光を感じた。
「ごめん、母さん、ちょっと廊下に出ていてくれないか。江本さんも!」
母はびくっと体を震わせると、そのまま廊下に出ていった。
「調さん、律人さんは大丈夫なんですか?」
キッチンから出てきた江本さんは心配そうに見つめているが、調はこくっと頷いた。
二人がリビングから出ていくのを確認すると、調は気持ちを落ち着けて目の前の律人と向き合った。律人は苦しむことなく、そのまま微動だにせず立ち尽くしていた。
だけど、口元には歪んだ笑みを浮かべている。
調が何も言わず見つめていると、律人はぱちっと瞬きをした。
「……へぇ、もしかして僕が何者か分かってる?」
声色は律人と同じなのに、どこか地獄の底から響く断末魔のような恐怖を感じさせた。
「いや、よく分かっていない。だけど、俺がいつも一緒にご飯を食べたり、学校に通ったりしている律人とは違う人物だっていうのは、分かる」
「ふーん、今日遅かったのは、篠が原のあのチビと会って色々訊いたから?」
律人の言葉に、調は目を大きく見開いた。
「あんた、分かりやすいなぁ。こいつはとっくに気づいているよ。気づいていないようにしているだけで。ピアノを弾いた時に連絡先を訊いたことも知っているし、まわりに悟られないように色々と探っていることも。僕のこと、何だって言ってた?」
「……弟の、律人とは違う人格じゃないか、と」
「まぁ、間違っていないかなぁ。でも、誰もが別の人格を自身に抱えているんだよ。それが表出するかしないかだけの違い。で、僕は律人の苦しみや怒りから割と小さい頃から表出するようになってしまったというだけ。君よりも僕は、律人の小さい頃からずっと一緒にこの体を共有してきた。あ、でも、共有というよりは共生かな」
「……あんたが、篠が原で騒ぎを起こした張本人なんだろう?」
「あ、そのことを訊きに行ってたのか。そうだよ、あれは僕だ。でも、あいつはそれだけをことをしたんだよ。どこからか嗅ぎつけたのか、デリケートな話題を吹き込んだ。一ノ瀬調と一ノ瀬律人は、血がつながっていないって」
「―――え?」
調の声に、律人はにいっと大きく口元を上げた。
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