第13話
光の苑に関しては、何も資料が残されていなかった。
ホームページがあるわけでもなく、図書館などでも調べてみたが何も見当たるものがなかった。まるで、秘匿すべき存在であるかのように。
そうなると、光の苑の場所もわからなかった。母に訊いてみればいいことなのかもしれないが、施設の存在をどうやって知ったのか訝しがるだろう。
これ以上、自分の存在を母の中で貶めたくはなかった。
分かっていたことだが、あの日以来、依月はほとんど調に話しかけることはなくなった。朝も、ずっと駅の改札口で待っていてくれたが、それももう何日もない。
調と依月の関係性の変化に、菜月はやはり気がかりのようで何度も話しかけてくれた。でも、調は一人で色々と考える時間が欲しかったので今のような個々の関係性を持続させていてくれた方が心地よかった。
―――と、自分の中でその思想を植え付けるようにしていた。
依月や菜月は昔からお節介だったが、調が放って欲しい時にはそうしてくれていた。それは、彼らなりの優しさであり、最善な接し方だと分かっていたからだ。
だけど、今回の距離感はすべて調が突き付けた行為が起因しているのは間違いない。それは、確実に悪い方向性で。
分かっている。分かっているが、冷静を超えた先の無関心な熱を依月からひしひしと伝わってくるので、今更謝罪の言葉や取り繕うのも無駄に等しいのだと感じていた。
時間が解決してくれるのかは分からないが、今は調も依月との関係性の修復に時間を割くことを要していなかった。
手遅れになってしまったら、それはそれまでだ。
「―――一ノ瀬くん、ここにいたんだね」
調は屋上につながるドアの前に座って江本さんが作ってくれた弁当を食べていた。赤や緑、黄色の色鮮やかなおかずに、調の好きなのり弁だ。だけど、最近何を食べても味気なかった。残して江本さんを不安に思わせたくないので、無理やり流し込んでいた。
声の方向を見ると、そこには赤いチェックの弁当袋を持った加賀見頼が立っていた。
「加賀見さん?菜月と一緒じゃないのか?」
「菜月は体育祭に関しての打ち合わせがあるみたいで生徒会室でお昼を食べるって。一ノ瀬くん、良かったら一緒にお昼食べない?」
「あ、ああ……別にいいが」
「本当?良かった!」
頼はにこっと笑みを浮かべると、そのまま調の横に移動し、スカートの皺を作らないようゆっくりと座った。菜月なら皺など気にしないでどかっと座るだろうなぁと思うと、その違いに面白くも感じる。
「凄いね、一ノ瀬くんのお弁当。色とりどりで、栄養も考えられている。お母さんの手作りなの?」
「いや、母は違うところに住んでいるから、住み込みでご飯を作ってくれている江本さんの手作りだ」
「へぇーでも朝からこんなしっかりとしたお弁当を作ってくれるなんて凄いね。私なんて、卵焼きとかウインナーとか、そんな決まったようなおかずばっかりで、恥ずかしい」
頼が可愛らしいクマのキャラクターのついたお弁当箱を開けると、卵焼きにウインナー、プチトマトやブロッコリー、あとはきんぴらごぼうなどが所狭しと詰め込まれていた。
「……これ、もしかして、加賀見の手作りなのか?」
「う、うん。そうなの。あ、きんぴらは昨夜の残り物なんだけどね」
調は幼い頃から江本さんがきちんと作ってくれていたので、自分がキッチンに立って料理をしようとする観念が全くなかった。何度か江本さんの料理をしている場所を覗き込んだことがあるが、江本さんは「もう少しでできますよ」とか「油がはねたらあぶないですよ」と言って近づけさせなかった。
調は、ご飯を早く食べたくてキッチンを覗き込んでいるわけではなかった。
どのようにあんな美味しいご飯が出来るのか、その工程を純粋に知りたいだけだった。そして、機会があれば、江本さんと並んで料理をしてみたかった。だけど、家事全般は江本さんの仕事の一環であり、調と共にやっていくものではなかった。それは、母にきつく言われていたことなのかもしれない。調がわがままを言って、江本さんを困らせて料理に参加せることによって、規定違反だと江本さんが母に切られてしまうかもしれない。
現に、律人のお付きのマネージャーにあたる人達は何度も何度も入れ替わった。母が無慈悲に手あたり次第解雇を言い渡している印象があり、怖くなった。
江本さんにいなくなってほしくない。そう考えると、調はそれ以上のわがままや関心を向けてはいけないと、自然と心の内にブレーキを掛けていた。
そのため、調と同い年の頼がまるで魔法のように作った弁当の中身を、羨望のまなざしで見つめることは致し方なくなかったとも言える。
「料理できるって、凄いな。お母さんと一緒にいつも作っているのか?」
調の問いに、ふっと頼の表情に一瞬影を落ちたように見えた。
「……加賀見?」
「うん、母はね、作ってくれるよ。料理はとても上手。だけど、私の兄と父の分だけ。私には作ってあげられる時間がないんだって。だから自分の分は自分で作りなさいって、小さい頃から散々仕込まれた」
何と返事をしたらいいのか分からない空気を纏ってしまったのか、頼はちらっと調を見ると、そのまま前を向いて両足をぶらぶらっと揺らした。
「菜月にも、あまり家のことを話したことないんだけど、私の父は総合病院の脳神経外科の部長でね、じきに副院長や院長になるんじゃないかって言われている人で。兄は今医学部の二年生で、父と同じ道を進みたいみたい。父も兄も優秀で、将来を嘱望されている人たちで、平々凡々、もしくはそれ以下の私に掛ける時間はないんだって。母自身も外科医師で毎日忙しいし、家のことは大半私がやるようにしてる。というか、やらないと、更に必要のない人間だと、思われちゃうから」
寂しそうに笑いながら、頼はご飯を口に放り込んだ。
目にはうっすらと涙がにじんでいる。咀嚼しているご飯は、多分何の味もしていないのだろう。
調は黙って頼の隣で食べ続けた。
「加賀見は凄いよ。俺は、父からも母からも愛情らしいものは小さい頃からあまり貰っていなかったけど、自分が一ノ瀬調としているために、何かを努力しようとしてこなかった。むしろ、両親も弟さえもいなくなればいいのにとか、そんなことを思ってた。自分のことばっかりだ。自分の感情を優先して、依月に酷い言葉を掛けたし、菜月の優しさにも背を向けてた」
手遅れになってしまったら、それはそれまでだ―――そんなこと、思っていない。むしろ、依月からも菜月からもそっぽを向かれてしまったら、一人になってしまったらどうしようと毎日毎日恐怖の感情ばかりが襲ってくる。
ただでさえ、一人でいることが好き。それは変わらない。だけど、それは周りに依月たちが自分を見守ってくれていることを知っていたから、思えたことだ。
「―――後悔してるんだね、一ノ瀬くん。本当は、きちんと謝って仲直りをしたいんだよね」
「……後悔、そうか、俺は、後悔していたのか」
「菜月も、ずっと一ノ瀬くんと依月くんが喧嘩しているようだからどうしようって、悩んでいたよ。最初は絶対に自分が仲直りさせるって意気込んでいたけど、依月くんにも一ノ瀬くんにも拒まれているようだって、落ち込んでたし。菜月、普段は凄く明るいしポジティブだけど、本当はとても繊細だから。その明るさに、私も大分助けられてるけど、菜月一人で辛いようだったら、私が何とかしてあげなきゃって思ってたの」
「―――なるほど、だから今日ここに来たわけか」
調の言葉に頼は無邪気ににこっと笑みを浮かべた。
「親友のためだもの。何かしてあげなきゃって、思うでしょう?」
教室に戻ると、依月の姿が見えなかった。
依月とよくつるんでいる後藤の周辺にもいないようだった。
調は後藤に近づくと、「依月を知らないか?」と訊いた。急に話しかけられたことに驚いたのか、後藤は体をびくっとさせたが、そのまま親指でくいっと依月の机のあたりを指さした。机の脇に掛かってるはずの依月のカーキのリュックがなくなっていた。
「何か頭痛がするから早退するってさ。一ノ瀬、最近あいつと話してないみたいだけど、喧嘩でもしたの?」
後藤の問いに調は何も言わず、自分の黒のリュックを手に取ると教室を出た。
急いで階段を下りて、下駄箱あたりを見たが依月の靴はすでになくなっていた。調も急いで脱ぎ変えると、そのまま外に出た。
その姿を見られたのか、誰かに後ろから調の名前を呼ばれたが、そのまま校門の方まで走った。
もう駅の方まで行ってしまったかもしれない。走りながら調はそう考えていた。そもそも頭痛とかも嘘じゃないかと思う。長年の付き合いの勘みたいなものがあった。
肺が痛いくらいに苦しい。こんなに全速力で走ったのはかなり久々で、普段から運動らしい運動もしていないから高校生なのにえらく体力が落ちているのをひしひしと感じる。
顎に滴る汗を手の甲で拭い、改札口に向かった。家の最寄り駅へ向かう電車が出た後だった。間に合わなかった。調はがっくりと肩を落とすと、そのまま改札口の横にあるベンチに腰を下ろした。
(―――話したい時に、俺は、いつも間に合わない)
別に今日でなくても、実家の美容室に向かえばいつでも依月には会えるだろう。でも、頼に言われたことが魚の小骨のように喉に引っかかっていて、今日中に彼と話して取り除きたかった。
「―――あれ、調?」
聞き覚えのある声に、ゆっくりと横を見やると、そこには棒アイスを片手に依月が立っていた。
「学校、どうしたのさ?もしかしてサボり?」
「……それは、そっちもだろう」
「ははっバレてたか」
依月は少し調から間を空けて、ベンチに座ってアイスが食べ始めた。
「何だか、こうして話すのも久しぶりだねぇ」
「……そうだな」
「俺と何か話したいことがあったから、こうして来てくれたんじゃないの?」
何もかもお見通しの口ぶりに、調はじとっと恨みがましそうに視線を向けた。
「―――悪かった。あんな、言い方して」
「んんーまぁ、調も思うところがあったんだろうしね。触れられたくないことの一つや二つ、あるでしょうよ。幼馴染だからと言って」
「触れられたくない、というか。あの時、色々と重なって、気持ちに余裕がなくなってたんだ。だけど、それを言ったところで言い訳にしかならないから。きちんと自分の非を謝りたくて。菜月や加賀見にも心配かけたし」
「あ、そっちが本音でしょう」
「何がだ?」
「女性陣に焚きつけられたから、俺に謝ろうと思った」
「……そういうわけじゃない」
「まぁ、理由はなんであれ、調くんの謝罪はきちんと受け取りますよ。さてと、俺、ちょっと行きたいところがあるんだよね」
「そこに行くために、嘘ついて早退したのか?」
「そうだよ。こういう時間帯じゃないと、菜月にも怪しまれるじゃん」
「菜月にも、内緒でか……?」
依月はにやっと不吉な笑みを浮かべた。
「調には大いに関係があるところだよ。りっくん……律人くんの、産まれた場所、【光の苑】。加賀見の両親も調たちの両親も関与している、優生思想を掲げ、優れた者を増産させる施設。そこの居所をね、突き止めたんだよ」
依月の言葉に、調を目を見張った。
「……依月、何故、【光の苑】のことを?」
依月は何も言わず、調をまっすぐに見つめた。
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