5 知らない名前
イントロンの街は地下に潜って、アリの巣のようにどこまでも続くドーム都市である。アンディが案内したドクター・ジンの屋敷はイントロンの住宅街の一角にあった。広くて部屋数が幾つもある立派な屋敷である。アンディは四人を各部屋に案内した。
ナギは二階の階段を上ってすぐの部屋で、その隣はディヤーヴァ、広いホールを挟んで向かいっ側にメイ、その向こうにユリアーナと皆に個室が用意された。
「お着替えを」
アンディがすぐに着替えを持って現れる。
ナギが着替えて隣のディヤーヴァの部屋に行くと、ディヤーヴァは着替えもせずにごろんとベッドに横になっていた。ナギが入って行くと顔を起こしてベッドに肘を付きニヤリと笑った。
「綺麗になったじゃねえか」
(ケララで拾ったオイル塗れのガキは、いいところの坊ちゃんだったというわけだ)
ナギは不安そうな顔で自分の服を点検した。白いシャツブラウスに濃い紺色の上着とズボンで上着の袖のところからレースが覗いている。履いている黒い靴はピカピカだった。
「自分じゃないみたい…」
ナギはそう呟くとディヤーヴァのベッドに走ってダイブした。ナギの身体をディヤーヴァが受け止める。
「いなくなっちゃ、いやだよ」
上からディヤーヴァを見下ろして言った。ディヤヴァは下から笑ったままでナギを見上げる。
「俺はお前のことをなんて呼んだらいいんだ。ベネディクトって呼ぶのか」
「やだ。ナギって言って」
ナギの心の中で違和感が膨れ上がる。自分は本当にベネディクトなのか。
砂漠の惑星ナジューラのマシュリア空港で死んだクレイグは、メイを自分の手元に置いて育てた。ナギは孤児院に捨てたのだ。
泥に塗れオイルに塗れてナギは育った。いつもひもじかった。いや、誰も皆ひもじかったのだ。皆で寄り添って一杯のスープを分け合って暮らした。
ひとりぽっちになったナギを連れ出してくれたのは、ヴィーの船の人工知能アルだったけれど、アルにはナギを抱き返す腕も、ナギと一緒に行動する足もなかった。
壊れかけたボディで、ナギを生かすために空調を何とか保ってくれたけれど。
自分が何者なのか分からない。ナギはベレスフォードがテラの別荘で口走った言葉を忘れているわけではなかった。怖い。自分は何なのか。
目の前にディヤーヴァがいる。ナギを拾って、ナギを助けて、ここまで来た。いま自分を抱き締めるこの腕より、確かなものがあるだろうか。
ディヤーヴァにしがみ付く。身体を入れ替えられて反対に抱きすくめられた。見上げると黒い瞳が見下ろした。不思議色の瞳だ。黒い瞳の奥に赤や青や紫の星が瞬く。ディヤーヴァの方が大変な過去があるのに。
唇が近付いてきて瞳を閉じた。優しいキスが降ってくる。腕を回してキスを受けた。星の海をたゆたう。流されてどこに行くのか。もう離れたくないとしがみ付く。
コンコンとドアをノックする音がして、ディヤーヴァが身を起こした。入って来たのはドクター・ジンだった。後に数人の男が控えている。
「君に話があるんだ、ディヤーヴァ」
ディヤーヴァが立ち上がる。ナギは不安そうな顔をしてディヤーヴァの腕を離さない。
「すぐに済む。ベネディクト。君はアンディと一緒に街の様子を見ておいで」
後からアンディが現れてどうぞと頭を下げた。躊躇うナギをディヤーヴァが押し出した。
「どうぞ。どちらでも案内いたします」
アンディが車のドアを開けて言う。メイとユリアーナはすでにその車に乗り込んでいた。車の前で立ち止まって、屋敷を振り返り不安そうな顔をしたナギを見て、
「大丈夫ですよ」と頷いた。
それ以上どうすることも出来なくて、不安は不安のままにナギは車に乗り込む。滑るように車は発進した。
「ナギってば見違えたわ。どこのお坊ちゃんかと思った」
そう言ったメイが口を押さえた。
「ああ、ナギじゃなかったわね。ベネディクト」
「ナギでいい」
上着から覗くレースを気にしながらナギが答える。メイの横でユリアーナが遠慮がちに聞いた。
「あの、ヴィーさんは…?」
心得てアンディが「ご案内します」と車のハンドルを切った。
ヴィーはドックで自分のスペースシップの整備をしていた。ナギたち一行が来て、その中に自分の気に障る顔がないのを見ると、特上の笑顔を振り撒いた。ユリアーナの顔が染まる。
「何をしているの?」とメイは遠慮なしにずけずけ聞いた。
「船の整備をしています」
ヴィーは機体を軽く撫でた。ブルンと船が振動した。
「ナギ、整備ヲ手伝エ」
船の人工知能アルが命令する。
「ナギじゃないよ。ベネディクトだ、アル」
ヴィーが訂正したがナギは首を横に振る。
「ナギでいい」
そして上着を脱ぎ捨ててレースの袖を捲り上げた。
「整備を手伝うよ、アル。何でも言って」
「ベネディクト様!!」
慌てて上着を拾ったアンディが制止しようとしたが、ナギはさっさと船の入り口に向かう。
「ナギ、認識完了」
船のドアが開いた。その途端、船の中から獣が飛び出てくる。
「キュルルッ!!」
獣は周りを見回してヴィーを認め、嬉しそうに走り寄ってヴィーに蹴飛ばされた。
「お嬢様方は、後で私が屋敷に送り届けるよ、アンディ」
ヴィーがそう言って、ナギの脱ぎ捨てた上着を受け取る。
「いえ、連絡を下さい。私がお迎えに上がります」
アンディは引き下がらずに頭を下げた。
ヴィーは頷いてメイとユリアーナを促す。ラプター・トランがその後をドッドッと追いかけた。
先に船に入ったナギは、アルに命じられるままに計器類のチェックをしている。
「ヴィーは私たちのお母さんを知っているの? お母さんってどんな人?」
無心にチェックをするナギを横目に見て、メイが聞く。
「君達のお母さんはイントロンの母だ」
ナギとメイを等分に見てヴィーが話し始める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます