かつて神は言いました ー2024/7/24 Wed 15:45


「――ころ、す?」

 誠也は目の前にいる男にそう問いかける。その風貌は子どもの時に親に連れられたパーティで見かけたことがあるような、背筋を凛と伸ばし親となにか難しいことを話していた紳士であったから。


「……聞き間違い、ですか? 申し訳ありません、それならばもう一度……」

 震える指で名刺を受け取り、それを見る。仰々しい会社名やメールアドレスではなく、そこにはたった一文字だけ。

 ――神。


「は、はぁ」

「私は神様です。藤ヶ谷誠也様。貴方には榊優奈を殺して欲しいのです。榊優奈はこの世界の規律を乱しました。本来なら、私が鉄槌を下さなければならないのですが、それはできない決まり。なので、この世に生きている藤ヶ谷誠也様が榊優奈を殺すほかありません」


 もしかしてヤバい宗教団体の教祖なのでは。自分の財産を狙い巧妙に近づいてお金を奪うつもりなのでは……。誠也は訝しげに男の顔を見る。


「俺に、殺人を?」

「はい。彼女を殺さなければ貴方に未来はありません。できないはずがありませんよね? 貴方は夢の中で赤の他人を殺した。あっさりと、躊躇わず。貴方は皆殺しにした」


 淡々と穏やかな声。けれどどこか自分は逆らえない、逆らってはいけない。逆らうなんて思考をさせない、そんな緊迫感があった。

「――私は貴方に合法的に人を殺す権利を与えましょう。貴方が彼女を殺しても罪にはなりません。例え、現実の世界で殺したとしても、です」

 殺す、しかも。


「現実で殺しても、罪にならない……?」

「私は神様です。神様の命令に人間は従う。当たり前のことです」

「ちょっと待ってください。ゆうな、榊優奈を殺すなんて、そんなこと……」

「できないはずが、ないですよね?」


 言葉が詰まる。

 なにを言っているんだ、と男に言おうとした言葉を思わず飲み込んだ。男の言っていることは本当なのだろうか。現実の世界で榊優奈を殺しても、俺は罪にならない……?


「さぁ、貴方は殺しますか?」

 ヒヤリと汗が頬を伝う。目の前にいる男は嘘を言っているようには思えない。榊優奈を殺す。

 けれどそれは。

 ――榊優奈の支配から逃れられる……。


「殺しますか?」

 実際のところ、躊躇ったのは一瞬だけだった。榊優奈を殺せば自分は自由になる。大和にもう一度会うことができる。あの女さえいなくなれば、自分は元通りの日常に戻れる。

 そうだよそう。ずっと榊優奈に従わなければと思っていたけれど、榊優奈を殺してしまえば元の生活に戻れるのだ。


「……や、やる。殺ります」

「ではこのナイフを渡します。これは神が罪人を裁くもの。これで人間を突き刺せばその人間は死にますが、貴方は罪に問われません。なぜならば、これは神からの勅命であり、使命だから」


 するすると耳に入り込む言葉はどこか神々しく、飲み込むように脳の中枢を犯していく。

 渡されたナイフはずっしりと手に重い。が、それ以外は何の変哲もないただのナイフだった。


「貴方は選ばれました。貴方は人を殺しますが、その罪は神の勅命のために罰せられない」


 かつて神は言いました。人間は生まれながらに原罪を持ちその罪を一生をかけて償うのだと。しかし神は言いました。その罪はこの免罪符によって許され、哀れな子羊は神の命によって生かされる。これが神の命だというのならば、この罪は放免しましょう。

 これは世界を守るために、蚊の悪虐を葬り去るがために。必要のある犠牲なのだと。

 ――かつて神は言いました。


「藤ヶ谷誠也様。このナイフで榊優奈の心臓を突きなさい」

 誰もいない図書館は妙に静かに、鳴き始めたばかりの蝉の声さえも一切聞こえなかった。じっとりと暑い七月。来週からは夏休みになる。


 誠也はずっしりと手に重たいナイフをカバンにしまった。自分がなぜ選ばれたのかは分からない。でもこれは必ず成し遂げなければならない使命なのだと。それだけは分かる。


「どうして俺なんです?」

 神と名乗る男に問う。

「貴方がここで死ぬわけにはいかないからです」

「……それは、なぜですか」


 息が上がっているのが分かる。

 自分は興奮しているのだ。どうしてか? 我ながら最低だと思うけど。


「俺は本当に人を殺して良いんですか」

「はい。許可します」


 人を殺す。夢の中ではなく。現実で。

 人を殺す。この手で。


「藤ヶ谷誠也様。貴方がこの先の人生で得るものは膨大であり人類にとっても損ではないでしょう。貴方が直接手を下さなくとも、貴方のお陰でたくさんの人の命が助かる。それは貴方が会社の経営者になるからです。貴方が命令しなくても貴方の部下が、この先の人類のためになるようなことをする。貴方が例えなにもしなくても、貴方が会社の社長になるだけで功績になるのです」


 誠也の耳には入っていなかった。耳に入るはずがなかった。

「例え貴方が、他人を簡単に切り離すサイコパスな素質を持っていたとしても、貴方は生まれながらにその運命から逃れられず受け入れる」

「ころす、ころす、榊優奈を殺す」

 誠也はもうなにも聞いていなかった。


「上の人間が必ずしも良い人間とは限らない。他人を簡単に切り離すことができるゆえに、経営という取捨選択を常に行い最善を選び続けるゲームに向いているのです」


 神は目の前の青年を憐れんだ。渡されたナイフを大事そうにしまい、自分の奥深くに眠った高揚を隠しきれない男の姿を。周りの人間を狂わせるほどの美貌を歪め、今まさに天から堕ちようとする堕天使のように。


「ゆえに、私は貴方を選びました。貴方なら、命令のためにどんなことでもする」




「例え、それが殺人だとしても」

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