【禁室 終幕後編】
重たい目蓋をゆっくりと震わせながら、恐る恐る持ち上げると、よく見知った天井が目に映った。
紅い金魚が優雅に游ぎ回り、時折水面を模した天井から跳ねて、また潜り込んでいく。
昴流はゆっくりと身体を起こした。床に敷かれた布団は、間違いなく昴流のものだ。つまり、この部屋は昴流の――最初に割り当てられた部屋である。
辺りを注意深く見回す。特段、変わったものはなかった。
ただし、記憶を失ってから初めて目覚めた時のように、朱春が居ることはなかった。他の【カンザキスバル】達も同様である。
昴流の側には黒い金魚が揺らめくように泳いでいた。そして更に近い場所で、あの男が、ぴったりとくっついて座っていた。
以前のような、異形の顔立ちでもなければ、子どもの姿でもない。ただ、全身くまなく火傷に冒されており、爛れて腐り落ちていた。
恐らく、これが本来の彼の姿なのだろう。
火傷の男は何も言わぬ昴流を一瞥すると、にこり、と微笑ったような気がした。
その表情は、朱春を、或いは修晴を思い起こさせるものであり、昴流は途端に厭な気持ちになった。
――酷いなあ、俺達、運命共同体なのに。
口と思われる穴から聴こえる音は、雑音に不協和音を重ねた、非常に不愉快になる音階である。
しかし、昴流は男が何と言ったのか、理解した。理解してしまった。
昴流はなるべく時間をかけて、ゆっくりとした動作で蒲団を片付けた。
壁に映る、墨を溶かしたような鯉の群れが、何処かを目指して部屋から出ていくのを、横目で視る。
昴流が出てきた部屋の立札が、視界の端にちらりと映る。【宿】と書かれているのを確認した後、昴流は静かに座敷の襖を閉じた。
そして、傍らで嗤う火傷の男を引き連れて、皆が揃う居間へと向かった。
「おはよう、昴流」
朱春が襖を開けて入室した昴流をみとめて、にっこりと微笑った。――かのように、思われた。
普段通り、昴流以外の【カンザキスバル】達は揃って食卓を囲んでいる。美味しそうな朝食が卓袱台に所狭しと並べられ、四人分のコップと箸、フォークやスプーンが、その隙間に置かれていた。
一方、朱春は、昴流――の背後を、じっと睨みつけていた。それは視線を受けて、けらけらと奇怪な笑い声を上げている。昴流は目を伏せた。朱春は、子どもではなく、火傷の男の姿が見えている。
「おはよう」無味乾燥な挨拶を返すと、他の【カンザキスバル】達は皆、揃って息を呑んだ。
全員、子どもの正体が見えているのだ。知っていたのだ。
昴流は黙って席についた。修晴は何か言いたげな表情で、昴流を見つめている。
栖刃琉とすばるは、瞳を瞬かせた後、お互いを見やって、それから肩をすくめた。
「今日の炊事担当は?」
淡々とした様子で、昴流は問いかけた。朱春が恐る恐る、「修晴だよ」と応えた。
「修晴、俺も朝食を食べて良いかな」
名指しされた修晴は目を見開いた。隣の朱春が、愕然とした顔付きで二人を注視した。
「腹が減ったんだ」
誰も何も言わなかった。昴流は辛抱強く、返答を待つ。暫くすると、誰かの手が狐色に焼けたトーストを差し出し、マーガリンを手に取らせ、しゃきしゃきのサラダにドレッシングを振りかけて、甘酸っぱいオレンジジュースを注いだ。
とても美味しそうだ、と素直に思った。昴流の思いに反応したのか、腹の虫がぐうと鳴る。四対の様々な瞳が、昴流を凝視していた。
それは祈りのようだった。皆、昴流がやはり食べることを止めるよう、すがるような視線を向けている。
昴流はそれらを、一切合切、黙殺した。
もう遅いのだ。真実を知ってしまった。諸悪の根元が、何も知らぬ顔をして、この家族ごっこを続けていくのには耐えられない。
「いただきます」
昴流はマーガリンをたっぷりと塗ったトーストを手に取ると、口に含んだ。
耳の部分はさくさくとしており、きつね色に焼き上がった部分はふわふわと蕩けそうな程、美味しかった。
吐き気を催すことはない。昴流はどんどんトーストを食していった。
その間、誰も何も言わなかった。昴流は他のカンザキスバル達が、一体どのような表情で此方を窺っていたのか、とうとう知ることはなかった。
背後で嗤う火傷の男が、ヨモツヘグイ、と呟いたが、食べることに夢中な昴流の耳には届かなかった。
口の中へトーストを、サラダを、オレンジジュースを含み飲み下す度に、体の至るところが作り変わっていく感覚を覚える。どんどん、この屋敷の空気に馴染んでいく。他のスバル達が張っていた壁のような何かが、どろどろに溶けていくような気がした。
ぼろぼろと、大粒の涙が溢れ落ちる。何故か唐突に、他人よりも遠くなった幼馴染みを思い出した。顔も朧気なあの人間は、今、何をしているのだろう。昴流のことなど、とうの昔に忘れただろうか。忘れてくれれば良い、と思った。二度と思い出さないでほしい、とも。
「ごめん」
昴流が泣きじゃくりながらそう言っても、他の【カンザキスバル】達は何も応えない。
「ごめんなさい」
昴流は目を閉じた。口の中に残っていた、最後のトーストの欠片を飲み下す。
昴流は朝食を全て完食した。
そして、行儀よく手を合わせると、未だに溢れる涙をそのままに、にっこりと微笑む。
「ご馳走さまでした」
がっくりと項垂れる朱春、怒った顔つきなのに泣いている修晴、常に浮かべている飄々とした笑顔を引っ込めた栖刃琉、銀の盥の中から頭を覗かせているすばるを一頻り見回した後、昴流は漸く重たい口を開いた。
「俺が式神を召喚する時に唱える言葉の意味を知っているか」
スバル達はお互いの顔を見つめた後、力無く首を横に振った。
それを受けて、昴流は開示する。己の能力の、隠そうとした部分を。
「あれは正しく言えば、召喚魔術の為の呪文ではない。神道の祝詞なんだ」
祝詞、と朱春が呆然と呟いた。その隣で、修晴が目に見えて顔色を変えた。
「お前、嘘をついたのか」
「違う。開示をしなかっただけだ」
「その開示しなかった部分が、重要なんだろうがよ!」
いけしゃあしゃあと宣う昴流に、修晴は背筋が凍るような低い声で恫喝した。
朱春がびくっと体を震わせる。栖刃琉はいち早く彼女を宥めると、「昴流くん、君が本当に使える呪術は一体何なの」と、問いかける。
「あとね、修晴くんは怖いよ。落ち着きなってば」
「……悪かった。朱春を怖がらせるつもりは……本当に、ごめん」
ばつが悪そうに目を伏せて謝罪する修晴に、朱春が弱々しく微笑んだ。
『「天の数歌」。「十種布留部祓」』
すると、今まで周囲を観察するように眺めていたすばるが、唐突にそう言った。「何それ」と首を傾げる朱春と修晴、顔を強張らせて、信じられないものを見てしまったような表情になる栖刃琉をじっと見てとったあと、昴流はにっこりと微笑った。それは相手に安心感を与えるものではなく、真っ先に怖気が走るような、悍しい微笑みだった。
「『天乃火気を汝身に納れ。日呉禮日暮禮。天璽瑞宝十種奇紙宝に。種々物を添て武那麻戸に置て詔く。澳津鏡。辺津鏡。八握剣。蕃息玉。魂反玉。千足玉。道明玉。伊照玉。宇加々赤玉。奇霊玉。死反玉。蛇比礼。蜂比礼。風振比礼。風切比礼。浪振比礼。是乃種々乃物比礼なり。天神祖神神皇産霊御祖神詔白く。若痛処在ば。今此神宝を揃て並て斎まはり。更に此神宝の種を散さず誓船に納て。病る者は。其上に乗て。汝饒速日が子等集て其神宝乃浮宝を其に捧て。一二三四五六七八九十と云て。左より右に廻し。上下とも振部由良由良と布留部。如此為ば。天下乃蒼生。亦毛物。空飛鳥。地這虫の夜加良に至まで身死無とするも。魂返して活なむ。』……流石のすばるだな。その通り。今のが「十種布留部祓」であり、俺が度々唱えていたのは「天の数歌」だ」
「『魂返して活なむ』? まさか、反魂の術か!」
朱春は血の気の引いた真っ青な顔で、叫んだ。しかし、修晴はあまりこの手の知識に明るくないためか、「はんごん?」と首を捻っている。
「死者を甦らせる術だよ」
栖刃琉が修晴に説明してやると、修晴はゾッとしたような顔で昴流へ視線を向けた。昴流は依然、不気味な微笑みを浮かべたまま、自身と名前を同じくする少年を真っ向から見返している。
「お前が俺たちを呼んだことは、薄々勘づいていた」
修晴の声は震えている。それが得体の知れぬモノに対する恐怖なのか、はたまた自分達を巻き込んだことに対する怒りなのかは、誰にも分からなかった。
「俺は――俺たちは、取り返しのつかないことをしたよ。どんな理由があれども、絶対に許されないことだ。後悔はしてない。してないけど――。此処は、あれか? あの男がいつも言ってた地獄って奴か。悪いことをした人間が死んだ後に送られる場所だ。俺たちが落ちる場所。お前も知ってるだろう? 俺たちと同じならば。それとも、お前は違うのか。俺たちじゃないのか? 俺たちと同じ名前の振りをして、俺たちを地獄とやらに繋ぎ止める為の何か――違うモノなのか。あのロクデナシは俺たちの罪を清算させ るために見張ってる鬼か? なあ、今話したことが事実じゃないなら、俺たちは何で此処にいるんだ? お前は俺じゃないのか? お前は一体――何なんだ?」
矢継ぎ早にそう言って詰め寄った修晴の、今にも壊れそうな表情を、昴流はそっと覗き込んだ。
「修晴は俺のことが気に入らないのに、親切にしてくれて、いろんなことを教えてくれたから、今度は俺が教えてあげる」
何処もかしこも異なる、名前だけを同じくした、最も近しい他人。昴流と彼の夢の実現に必要不可避な、同一の魂のうちの一人。
「俺は神崎昴流。此処にいる【カンザキスバル】の分岐点の一人。そして、此処は――俺たちの悲願を叶えるための
朱春が、修晴が、栖刃琉が、すばるが、目を見開いて、各々何らかの感情に乱されながら、昴流を凝視する。
「お前……」
修晴が、ごくりと唾を飲み込んだあと、先ほどまでの苛烈な怒りを引っ込めて、静かに言った。
「本当に、何処にも行けなかったんだな……」
昴流は、魂が震えるような歓喜を全身で感じ取りながら、この場にいる全員に向かって、心の底から笑いかけた。
「『ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり ふるへゆらゆら』」
昴流は粛々として朗々と、祝詞を唱えた。あの日、彼と初めて出会った時のように。
すると、天からばらばらと白い欠片が降り注ぐ。それは大きかったり小さかったり、様々な形ではあったものの、一目見ればそれが何なのか、直ぐに判断できるモノであった。
白い大小の欠片は昴流の足元に全て集まると、うぞうぞと動いて並んで形をとっていく。そして、また頭上から落ちてきた蔓と糸が欠片を引き結び、くっ付けて形を整えていった。昴流は欠片の山の前に跪くと、植物の香りのする液体を丁寧に塗りこめてから、ムクゲとサイカシの焼け焦げた葉を並べていった。
それは、ひとの形を象った。
そして昴流は最後に、香木を焚きしめた。清涼で爽やかな香りが、カンザキスバルたちの鼻腔をくすぐるが、誰もその心を沈静することは叶わない。
やがて、白い欠片と植物と高木で構成された集合体は、あの男の姿に成る。
頭の先から爪先に渡る全身を、酷い火傷に冒された、おそらく青年と思われる男。髪も殆ど燃えて、皮膚は腐り落ちた、思わず目を背けてしまいそうな容貌の男は、何とも明るく、場違いなほど爽やかな声で昴流に向かって文句を垂れる。
「漸く俺を完全に甦らせてくれたね。永かったなあ。何でもっと早くしてくれなかったの」
通常ならば動くこともままらならない筈の大怪我を負った男は、瞼が溶け落ちたために剥き出しになったガラス玉のような眼球をぐるりと動かすと、呆然とこちらを見遣る昴流以外のカンザキスバル達へ、ヒラヒラと手を振った。
ハッと息を呑み、金縛りから解けた修晴が、朱春とすばるを守るようにして立ち塞がる。栖刃琉も剣呑な目つきで修晴の隣に立ち、威嚇する様子を目にした男は、よよよ、とヘタクソな嘘泣きをした後、昴流へ「昴流ぅ。あいつらが俺をいじめるよぉ」と気味の悪い猫撫で声を出しながら、もたれかかった。
しかし昴流は冷たくそれを押し返すと、男の泣き真似を無視して、途中になっていた男への返答を行う。
「他の【カンザキスバル】にリソースを割いてたからな。あんたのことは、最初に不完全な状態で蘇生させてしまったままだった。余裕がなかったんだよ」
「ふうん。黙殺ってわけね。久しぶりにまともに会話できたのに、冷てえの。……そういえば、君はその代わりに記憶に随分とダメージが入ったもんね。まあいいや。ところで、何で火傷状態のままなの? どうせ甦るなら、生前の綺麗な体が良かったんだけど」
男の訴えに、昴流は首をちょこりと傾げた。
「俺はあんたの生前の姿を知らない」
「それはそうだ」男は快活に笑う。火傷で爛れた皮膚が引き攣って、その容貌は更に凄惨を増した。
「昴流……」修晴の背後に庇われた朱春が、銀の盤に入れられたすばるを抱えながら、恐る恐る声をかける…
「何だ、朱春? ああ、こいつの火傷が怖いか? 見た目はどうにもならなかったけど、治癒はしているから、中身に関しては問題ないよ」
「あっ、いや、それは大丈夫……元々私たちはこの姿で視えていたから、そこはどうでもいいんだけど」
「どうでもよくはないんだけど?」とむくれる男を再度無視して、昴流は朱春に続きを促す。朱春は少しだけ言葉に詰まった後、おずおずと、「この人、本当は誰なんだ?」と訊ねた。
昴流はきょとんと虚を疲れた表情を浮かべたあと、「気が回らなくてごめんな」と、申し訳なさそうに謝罪した。
そして、一人一人、きちんと相手の目を視ると「栖刃琉さんは知ってると思うけど」と前置きしてから、全身火傷男の肩を叩いた。
「皆に紹介が遅れたな。今まで俺が紹介されている側だったから、変な感じだけど……。紹介しよう。こいつは――『神崎スバル』」
火傷の男――神崎スバルが唇付近を歪ませた、笑みのような何かの表情を浮かべる。
「俺の次にこの【屋敷】に来た、【カンザキスバル】だよ」
誰も何も言わなかった。ただ、幽霊を視たような表情で、昴流とスバルを交互に見続けている。
すると、昴流の周囲をくるくると泳いでいた小さな金魚が、不意に此方を見つめたような気がした。
はっと息を呑む。その無機質な視線に、何故か懐かしさと慕わしい気持ちを抱く。
「……む……」
金魚の口がパクパクと動く。昴流が顔を寄せる。他の【カンザキスバル】達は、昴流の奇妙な行動を固唾を飲んで見守っていた。
一方、スバルだけが、昴流と同じように金魚を見下ろしていた。
金魚が昴流と、スバルにしか聞こえぬ奇妙な声で、何かを呟いている。
「■■■」
昴流は暫しの間、金魚を――金魚が泳ぐ水面の、奥深くを見つめていた。
灼熱の光と、薄墨の闇が、視界に拡がる。炎の柱を上げて、崩れゆく木造の建物に背を向けて、黒い影がスバルに向かって笑いかけている。
昴流は静かに瞳を閉じた。
再び瞳を開くと、幻視したおぞましくも美しい光景は夢のように消えていて、代わりに他のスバル達が、能面のような表情で此方を窺っていた。
昴流の足元で、一匹の小さな金魚が笑うようにぱくりと口を開いた後、引きずり込まれるようにして沈んでいった。
それを、神崎スバルだけが、火傷で爛れた顔を下に向けて眺めて続けている。
「視 た な」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます