【現実 終幕】

 屋敷へ侵入した時は明るかった空は、既に太陽は沈み薄墨をひいたような色合いに変化していた。地平線に近づくほど真っ赤に燃える焰のような色で、首が痛むまで見上げていくと奈落の底のような真っ黒な色に染まっている。

 砕けた宝石の欠片のような星屑が満面に散らばり、丸い月の光が、優しく私を照らしていた。

 今日はこのまま帰ろうと、私はつい先程までそう考えていた。目当てのモノは無かった。それだけで良かった。

 しかし、首筋をちりちりと焼くような厭な視線が纏わりついていることに気がついた私は、そうっと視線を暗澹たる夜空から下ろしていくと、ぴたりとある一点に留めた。

 四方を鬱蒼とした木々と雑草で囲まれた屋敷の外から、誰かが私を覗いている。

「誰ですか」

 私は端的に尋ねた。実のところ、その厭な視線を送る人間の正体に気づいてはいたのだが、それでも

 この屋敷とは何も関係ない人間ならば、懇切丁寧に道案内をして、お帰り頂こうと考えていた。

 しかし、何らかの意思をもって、この屋敷を訪れているのならば――

「俺だよ」

 私はふっとため息を落とす。瞳を閉じると、先日話をした時の姿が、ゆらりと目蓋の裏側に浮かび上がった。

 茶色に染めて少し傷んだ癖毛、日に焼けた小麦色の肌、甘くて柔和な顔立ち、がっしりとした体躯、すらりと伸びた背丈。

 目を開けると、がさがさと伸び放題の草木をかき分けて、私が想像した通りの男が立っていた。

 修三だった。

 何で此処にいるのか等といった質問はしない。私はこの男がこの屋敷に必ず来ることを、知っていた。

 あの日、私の話を聞いた修三には、この屋敷を訪れないという選択肢は、最初から存在しないのだ。

「お久しぶりですね」と私は唇を歪ませながらそう言った。

 すると、修三はあの日と同じような馴れ馴れしさと軽薄さで、「敬語なんて、水臭いな。あのファミレスで話したように、タメ口で良いぜ?」と笑う。

 私は今度こそ、鼻で嗤った。そして、ずっと心の奥底で思っていたことを、口から吐き出す。

「私は貴方を、幼馴染みだとも友人だとも思ったことはない。貴方は知人以下の他人でしかないです」

 修三はぎょっとしたようで、一歩片足を後ろへずらすと、おどけた表情を引っ込めて首をことりと傾げた。

「ひっでえの。俺、お前に何かした?」

 私は目を大きく見開いた。恐らく瞳孔が開ききっているだろうし、歯軋りもしているし、髪も逆立っているだろう。

 今にも飛びかかって殴りつけたくなるほどの強い怒りと憎しみを、何とか押さえつけて、修三を睨む。一方、本当に思い当たる節がないのだろう。修三は私の悪鬼のような表情に顔をひきつらせていた。

「な、何だよ。どうしたんだよ。何かに取り憑かれたのか?」

「取り憑かれた……。そうですね、もうずっと、取り憑かれているんでしょうね」

 私はぎゅう、と片手にあった古びた日記と、小説原稿を握りしめる。

 修三は暫くの間、私を幽霊でも見るような目で眺めていたが、ふう、と息を漏らすと「ところでさ」と前置きをしつつ、問いかけた。

「……お前、何でこんなところに居るんだ?」

 私は自然と俯いていた顔を上げると、じっと男を見つめた。

「前にも話したでしょう。事件の記事を書くための取材の一貫です」

「嘘をつくな」

 修三がぴしゃりと私の言葉をはね除けた。嘘。随分とばっさり否定するものだ。

 まあ、そうなのだが。

「お前、記事なんて書く仕事、してねえだろ」

「……」黙ったまま続きを促すと、修三は一度ごくりと唾を呑み込んで、それから口に油でも注したように滑らかな口調で、捲し立てた。

「興信所で調べたら、一発だったよ。お前は現在不動産業界の営業職で、平日は真面目に勤務して、休み時間や休日にこそこそと事件を個人的に調べていた。記事を書くなんてのは真っ赤な嘘なんだろう?」

 ふぅん、と私は首を少しだけ傾けた。じろじろと頭の先から爪先まで修三を眺め回す。

 想像よりは愚鈍ではないようだった。

「よくご存知で」

 あっさりと私が頷くと、修三は拍子抜けしたように怒らせていた肩をガクンと落とした。

 全身の力を抜いて、そのまま蹲った修三の視線は、私から外れていた。その隙に、私は肩にかけていたショルダーバッグの中へ素早く手を潜り込ませる。一旦、手に持っていた原稿と日記を仕舞い、。そして、修三に気付かれぬように、そうっと慎重な動作でそれを取り出すと、背後に隠すようにして持ち直した。

 修三はまだ俯いている。あまりに無防備で危機感のない所作に、私は一瞬罠だろうか? と疑ったが、次に修三が顔を上げた時に見たその真っ直ぐな瞳に、思い過ごしであったことを確信した。

「まさかとは思ったけど、お前が此処に居たことによって、俺は確信したぜ」

 何を? とは、やはり訊ねなかった。まあ、仕事でも何でもない人間がこのような処でうろうろしている時点で、大方の予想は誰にでも出来るのだ。

「――お前、此処で何を調べている?」

 しかし、修三は決定的な言葉を突きつけるわけでもなく、遠回しな言葉で私を囲うように追い詰めていくつもりであるようだった。

 私は一旦修三から視線を外して、背後で佇む朽ちた屋敷の跡地を眺めた。

 かつて幾度となく訪れた、懐かしくも忌まわしい場所。

 此処には何もない。全て燃えて、崩れて、灰になって、時間とともに風に流れた筈なのだ。

「この屋敷は、夏に亡くなった小説家の生家なんですよ」

 りんさかくずは。自らを火元として、壮絶な死を遂げた小説家。

 彼が書いていた未発表の作品群の中でも特に奇抜だったのは、【同姓同名の五人の人間が、同じ屋敷で暮らしている】という話――。

「知ってるよ。それでもって、此処は――」

 一方、私の横顔を黙って眺めていた修三は静かにそう告げると、一度ぎゅっと目を瞑って、そして大きく見開いた後、唸るような低い声で呟いた。

 ぐるり、と首を回して、修三へピタリと視線を合わせる。

 りんさかくずは、という筆名より、よく聞き慣れた言葉が耳をうつ。

 屋敷を背後にした私と、夜闇を背後にした修三が対峙する。

「聞き方を変えようか?」

 ぎらり、と獰猛な光で瞳を煌々と輝かせた修三が、ねっとりとした声色で囁いた。

「お前、此処で、?」

 私はやはり黙ったまま、ただ微笑んだ。


 ■■■


 修三は探し物と訊ねたが、私は探し物を求めて此処を訪れたわけではなかった。

 正しくは、探しているモノが此処に無いかどうか、を調べていた。

 しかし、それを修三に態々教えてやるほど、私は親切ではない。

「やっぱり、そうなのか……」

 修三は口を開かぬ私をじろじろと眺め回していたが、不意にそう呟くと、両手で顔を覆った。

「お前の探し物は、無かったんだな?」

 うふふふふ、と私は唇を歪ませて、奇妙な笑い声を上げた。

 勿論、修三の言う通り、此処には何もなかった。当たり前だ。十年も前に焼け落ちていることに加えて、本来、特別な状況でなければが自然に保存されることはない。念のための確認だ。そして、私はその必要のない確認作業で、ついでのように露払いを行うことが出来る。

 私は運が良い。そして、眼前の男は、死ぬほど運が無い。

 暗がりで面白くもないことで笑い始めた私を、修三は覆った指の隙間から覗いていたが、やがて力なく顔から手を離すと、静かに私へ問いかけた。

「何で隠ぺいした?」

 修三が真っ直ぐとした視線で、私を射抜いた。

 清廉として疚しいことなど何一つないというような、正義に燃えた瞳だ。反吐が出る。

 私は行儀が悪いことを承知で今にも唾を吐きかけたい気持ちでいっぱいになりながら、実のところ、本当のことを言うかどうかも同時に考えていた。

「――殺したのか」

 男が問う。私は歪んだ笑みを引っ込めて、無表情でそれを見つめる。

 しかし、私の視界には修三と重なるようにして、別の映像――記憶が、眼前で再現されていた。

 転がる肉の塊。

 血飛沫で汚れた壁と床。

 それを見下ろす、青年にはまだ届かぬ年齢の少年の瞳の色。

「神崎スバルが、神崎夫妻を殺害した犯人なんだな? そして、お前はそれを隠ぺいした共犯者だ」

 修三の喚く声が遠くから響く。私の心には何も届かない。 

 私は。

 あの日、血だらけのまま唇を吊り上げて、あの男の首に刃物を当てていたスバルの横顔を思い出しながら――。

 唐突に、吐き気を催した。

「彼の小説、とても面白いんです」

 せり上がってくる胃液を何とか飲み下して耐えながら、私はそう言った。

 案の定、私有は会話の流れを無視して話し出した私を訝しげに見やり、「は?」と疑問の声をあげている。

 私はそれを黙殺した。そして、今にも口から吹き出しそうになる吐瀉物の代わりに、沢山の意味を為さない言葉を、マシンガンのように修三へ浴びせかけた。

「プロになる前から、色々な話を見せてもらってました。どれも本当に面白かった。そう、丁度あの頃も、続きが気になる小説を書いてました。私はそれが楽しみで、楽しみで」

 何を話しているのか、最早どうでも良いことだった。私はこの男に、私の動機を話すつもりは毛頭ない。きっとこの男には、一生、死んでも理解出来ないだろう。それならば、こいつが一番好みそうな動機を用意してやって、噛みつかせてやれば良かったのだ。

 一方、修三は思惑通り私の話を真に受けたようで、蒼白い唇を戦慄かせながら、「まさか」と何処か芝居がかった様子で呟いている。

 餌に獲物が間抜けにも引っ掛かったことに、私は笑いを禁じ得なかった。

「書いてもらえなくなるのは、困るなあと思いました。だから、書けなくなる原因になりそうな事柄を隠滅したのです」

 修三は愕然とした様子で、化物を目撃してしまったような表情を浮かべていた。私は迫りくる吐き気を飲み込んで、そっと指で唇を押さえた。かさついた私のそれは、少しだけ震えていた。

「頭がおかしい」

 漸く考えが纏まったのか、修三がぼつりと呟いた。月並みな言葉、何の意志もないがらんどうのそれ、空虚な思考力。私は、馬鹿みたいに呆ける男へ首を傾げる。

「そうなんですか? でも、途中で終わったら、悲しくないですか?」

 ――だから、私は、とても怒ってます。

 べらべらと自分でも呆れるほど、よく回る口から溢れた最後の言葉だけは、私の本心だ。私は怒っている。神崎スバルに。でも、私の怒りはもう奴には届かない。あいつは満足したまま、私に何も言わずにこの世界から一足先に抜け出してしまったのだから。私を遺して。何もない、つまらない空っぽな世界から。私を。私だけを。

 冷静であろうと心掛けていたのだが、生前に見た彼奴の夢見るような表情と、荒唐無稽な話を思い出して、胸がムカムカしてきた。不快だ。何もかも。自分自身を痛めつけるようにして死んだ癖に幸せそうな彼奴も、彼奴の甘言に惑わされた修三も、何も知らずに暢気に過ごしていた私も。

「どうせ死ぬなら、今執筆中の話を書き終えてからにすれば良かったのに……」

 修三の顔が嫌悪で歪む。道端にぶちまけられた吐瀉物を見るような視線で、私を睨みつける。

 私は嗤った。

 

「あいつはいつも、私への嫌がらせを怠らない」

 再び本心からの言葉が、私の口から飛び出した。

 そう、嫌がらせ。彼奴は私のことが嫌いだったのだろう。だから、こんな役目を押し付けた。私を遺して、考え付く限り最も苦しい自死を選んで死んだ。私が彼奴の傾倒する趣味を否定したから? 彼奴の【才能】を内心羨ましく思っていたから? それとも――全てを引っ括めても、彼奴のことを最期まで嫌いになれなかったから?

 答えは無い。私に出題だけしてとんずらしたあの馬鹿のせいで、私は死んでもこの謎に苦しまなければならないのだ。

「ああ、知ってます? 五人の同姓同名の男女が織り成す話なんですけども――」

「頭おかしい」

 私の言葉を遮った修三が、もう一度、そう言った。私は口をつぐむ。込み上げる吐き気も、行き場のない憎しみも全て呑み込んで、本当のことは何も知らない男へ視線をぴったりと合わせた。

 修三は暗闇の中でも判るほど顔を真っ赤にさせていた。それは怒りから来るものなのだろうか? 私はこの男が何に対してそのように感情を爆発させているのか、全く理解出来なかった。

「頭おかしいよ、お前! 人の心はねえのかよ! 友達だったんだろ!?」

「はあ、まあ、そうですね」と、私は気の抜けた返事をする。

 そう、友達だった。親友だと思っていた。魂を分けた半身のような気持ちで、ずっと共に過ごしていたと、思い込んでいた。

「でも私は彼が創る話以外には然程興味はありませんし、彼はそもそも私のことが嫌いですから」

 しかし、結局、私はスバルにとって親友どころか、友達ですらなかった。魂を分けた半身だなんて、片腹痛い話だろう。あいつは私ではなく、本物の魂の半身――否、魂そのものを選んだのだ。

 教えなければ良かった。スバルを憐れに思って、あの幻影の正体を教えるべきではなかったのだ。

 私は暗澹たる思いのまま、唇を噛み締めた。

 正直、面倒だと思われてることがあったのは理解していたが、まさかあそこまで厭われているとは思っていなかったのだ。

 焼ける肉の臭い。爛れて溶けた黒い皮膚。脂っぽい空気が纏わりつき、肌を舐めるようにして焦がす炎の塊。

 さしもの私も、スバルが炎にくべられて焼き殺されるとは思わなんだ。

 悲しみはない。辛くもない。そう自分に言い聞かせて、生きながら炎に焼かれて、そして肉体が崩れていったであろう彼を思いながら、寂寥が胸によぎったのは、確かであった。

 ――だからと言って、どうなるわけでもないのだが。

 すう、と私は音もなく、此方を睨みつけている修三へ近寄った。何の脈絡もなく、突然動き出した私に驚いた修三が、ずり、と後退るが、私とぴったりと目を合わせた瞬間、蛇に睨まれてた蛙のように動かなくなった。

「ところで」と私は言った。

「ところで、

「え?」

 修三は一瞬、私に言われた言葉の意味を理解出来なかったようだった。しかし、私が更に顔を近づけると、奈落の底を覗いたように虚ろになって、それから冷や汗をだらだらと流し始めた。

 私は続ける。井戸の中でおとなしくしていれば良いものを、身の程知らずにも外の世界を見ようとした愚かな蛙に、そっと囁いてやる。

 先ほど後ろ手に隠した特殊警棒を、ぎゅっと握り締めると、プラスチックの冷たい感触が伝わった。

 修三は私が隠している得物に気づいていない。その、どうしようもなく危機感のないところが己の首を締めていることにも、気づくことはない。

「それは、神崎スバルが犯人だから、お前が証拠を隠滅しようとするのを阻止しようとして、」

 しどろもどろに言い訳をする修三の顔からは、あの溢れ出るような義憤もなければ、身の毛もよだつ正義感も見当たらなかった。私はにんまりと嗤う。化けの皮を、丁寧に少しずつ、いたぶるように剥がしていくのは快感だった。

「ちょっとそれは、怪訝おかしいですねえ」

 私は唇を修三の耳へ寄せて、息を吹き込むように、この男の矛盾した行動を暴いてやる。

「私は言いましたよね? 十年前に隠滅した、と。今更何を隠そうとするのですか? 十年前に警察に突き止められなかった証拠が、捜査すら打ち切られた現在の状態で出てくるわけがないでしょう。万が一、私が何かを隠そうとしていたとして、何故貴方は今まで黙って付きまとっていたんですか? 私がこの屋敷に入った時点で止めなかった理由は? 貴方は私を止めに来たんじゃないんですか?」

 真っ白な顔色の修三が、呆然と私を見ている。時折、はくはくと唇を動かしたが、言葉にならずに空気中に霧散する。

「答えられませんか?」

 答えられるわけがない、と私は確信していた。

 こいつは、そのような偽善に満ちた理由で私の後をつけ回していたわけではない。

「では、僭越ながら、私が答えを述べましょう」

 ぼろぼろと化けの皮が剥がれていく。

 人好きのする顔も、正義感に燃えた顔も、罪を憎む顔も、何もかも全て剥がし終えた後に残るものを、私は知っている。

「お前は、十年前、スバルの家の付近で連続して起きた放火事件の犯人だ」

 古今東西の名探偵にでもなった気分で、私は軽やかな気持ちで淡々と告げる。

「今度こそ、

 おぞましき炎に取り憑かれた悪魔が、ゆっくりと目を据わらせた。


 ■■■


「何の話だ?」

 焔の悪魔は、一切の感情を削ぎ落とした表情でそう言った。

 往生際が悪いとも思うが、恐らく、修三のそれはしらばっくれようとしているのではなく、開き直っているのだ。

 だから、私も淡々と事実を告げる。

「スバルが焼身自殺した日、貴方は彼の家に居たじゃないですか。――そして、十年前、強盗殺人が起きた日も」

 ふん、と修三が鼻を鳴らす。小馬鹿にしたように頭を少し傾けた男は、私を値踏みするようにじろじろ眺め回したあと、犬歯が見えるように笑った。

「随分と口が回るみたいだな。妄想も大概にしろよ。証拠でもあるのか?」

「貴方は現在、表参道に住んでいるでしょう」

 間髪を容れずに私がそう言うと、修三は鼻白んだ。

 私は追撃の手を緩めない。逃がすものか。お前だけは、絶対に逃がさない。

「事件が起きた錦糸町から、真反対のところに住んでるのに、何の用があって、その日錦糸町に居たんですか? 仮に何らかの用事があったとして、どうして火事の現場に居たんですか? 仕事帰りに偶々? それは有り得ないでしょう。貴方の職場は渋谷。更に遠いじゃないですか」

 逃げ道になり得る言い訳は、全て丁寧にしっかりと潰していく。ひとつひとつ、目の前で入口を塞がれていった修三は、ぞっとするような視線で私を射抜くと、憎悪に塗れた声で恫喝した。

「うるせえな、俺がどこにいて、何をしようがお前には関係ないだろ! こじつけも大概にしろよ! それに、お前だって現場に居たんだろ、その口ぶりじゃあな!」

 途中、ずんずんと無遠慮に私へ近寄った修三に、胸ぐらを掴まれる。体全体が宙に浮き、爪先が地面にかする程度まで持ち上げられて、ガクガクと揺さぶられた。顔をしかめる私が修三を見下ろすと、彼は勝ち誇った表情で、私に向かって叫んだ。

 だから、私はまた修三を奈落の底へ突き落とす。這い上がってくるならば、何度でも私はこいつを叩き落としてやる。完膚なきまでに心を折ってやる。

 私は唇の端を吊り上げた。それを見た修三が、顔色を変える。

「ええ。居ましたとも。だから、貴方を目撃しました」

 修三が目を大きく見開く。

 私は襟首を掴む修三の腕に拳を当てると、思いっきり打ち付けた。

 ぎゃっ! と潰れた蛙のような声をあげて、修三が私を突き飛ばした。私は彼からさっと距離をとると、今日まで煮詰め続けた、とっておきの呪詛を吐き出した。

「――その日、私はスバルに会う予定だったので」

「……え?」

 信じられないものを見るような目で、私へ視線を向け続ける修三に笑いかける。

 後ろ手に隠した特殊警棒は、しっかりと握ったまま。

「それなのに、驚愕しました。近隣住民が、火事の起きる前にスバルが『誰かを家に上げていた』ところを見たと証言するのですから。貴方にもそれはお話ししましたよね? 覚えていますか?」

「は……」ため息のような吐息を漏らした修三が、パクパクと口を開閉する。しかし、あまりの衝撃によるものなのか、修三の口から何かしらの言葉が出てくることはなかった。

 それがあんまりにも可笑しくて、私は久方ぶりに声をあげて笑った。あはは、あはは、あははははははは。あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。

 真っ青を通り越して、真っ白な顔色になった修三を散々笑ったあと、私は肩を震わせたまま、呪詛を重ねていく。

「一人なら勘違いかもしれない。しかし、複数の証言が上がっていますし、何より、スバルとあの日会うのは私以外誰もいなかった」

 私はあの日、スバルに招かれて共に食事をする予定だった。

 高校を卒業し、大学へ入学した後もだらだらと続いた関係だったが、就職を機に私たちは疎遠になっていた。

 本当に久しぶりだったのだ。スバルから食事を誘われた時、素直に嬉しかった。普段、定時を三時間過ぎてもまだ早く帰宅できた方であるような仕事を死ぬ気で片付けて、新人以来の定時退社した私は、柄にもなく浮かれていたのだ。スバルの好きな甘い菓子を土産に、話したいことや聞きたいことを考えながら、彼奴の自宅へ向かった。

「十件足らずの放火未遂。スバルの住居の近隣で起こった事件」

 群がる沢山の人間。サイレンの唸る音。重なるようにして停められた消防車とパトカー。投入される消火剤。燃え盛る火の柱。

「ねえ」

 馬鹿みたいじゃないか。

 私は彼奴に会いたかっただけなのに、彼奴は何食わぬ顔で私を誘っておいて、死ぬつもりだったのだ。恐らく、本来ならば、私の目の前で。

 私は――馬鹿だ。

「貴方、何故、煙草の吸殻から小火が起きたのを知っているのですか?」

「……あっ……」

 私は修三へ猫なで声を出しながら、予てより疑問に思っていたことを訊いた。一方、修三は私の意図を正確に理解したようで、唇を戦慄かせたあと、むっつりと黙りこんだ。

「更に、十年前の連続放火は、スバルの家に強盗が入ったとされる日からパタリと止んでいます。最後に、だめ押しでもうひとつだけ、述べましょう。――何故、スバルが生きたまま焼け死んだことを知っている?」

 修三がひゅっと鋭く息をつめた音が、辺りに響き渡る。それ以外は時折風に揺られてさわさわと木々のこすれる音が聴こえてくるだけだ。

 此処には私と修三以外、誰も居ない。

「……お前が言ったんだろう。俺はそれを聞いた。聞いた筈だ」

 暫くすると、修三はぼつりとそう言った。私は背中に隠した手とは反対の方をショルダーバッグに突っ込むと、目当てのものを取り出した。ICレコーダーだ。これには、和田への取材記録の他に、以前ファミレスで修三と会話した記録も残されている。

 カチッとボタンを押す。私と修三の何でもない会話から、十年前の放火の話、そして小説家りんさかくずは――神崎スバルの自殺の話まで、一通り音声を流した。

 そして録音された音声の再生が全て終わり、停止ボタンを押すと、修三は崩れ落ちるようにして膝をついた。

 私はICレコーダーを仕舞うと、今度こそ修三へ止めを指した。

「私は一言も、スバルの死の状況について話してはいません。そもそも、先程の小火の原因も含めて、警察かその関係者しか知り得ない話です」

「嘘だ!」と修三が絶叫する。硝子が砕けて粉々になったような、悲痛な叫びだった。

「いや、それは嘘だ! だとしたら、何故お前も知っている!」

 頭をふって、血走った目で私を睨む男が、尚も言い募る。

 ここで私は首を傾げた。仮にも同じ高校に通い、当時の私やスバルの周囲をうろちょろとつけ回っていたくせに、そのようなことも知らなかったのか、と少し驚いた。

「スバルの後見人だった父から聞きしました」

 私がそう告げると、「え?」と修三が場にそぐわないぽかんとした表情で、私を見つめた。

「父は私がスバルと一番仲良くしていたから、教えてくれました」

 漸く気がついたのだろう、修三は「……あ……」と呟いたきり、言葉を失ったように竦んでいる。

 愚かしい蛙が、蛇に睨まれて縮こまっている。

「だから、本来ならば知らない筈のことを知っている貴方が、怪訝おかしいのです」

 ざく、ざく、ざく、と落ち葉を踏みしめる音を響かせながら、私は蹲る修三へ近寄った。

「部外者である貴方が唯一、スバルの死に際を知るとしたら――それは、目の前で見ていないと辻褄が合わないのです」

 お前は、スバルの死に際を、見たな。

 ぶるぶると震え始めた修三に合わせて、私も腰を屈めると、剥き出しになった耳に唇を寄せて、そっと囁く。

「強請を苦にして小説家が自殺した話、正直、とても面白かったです。でもそれ、貴方のことでしょう」

 ひぐっ、と修三が喉を鳴らす。あの溌剌とした態度が嘘のように、萎れて惨めなほど憐れに震える男を見下ろしたまま、私は容赦なく修三を暴く。

「貴方は誰かに長年、十年前の放火について強請られていました。誰だか皆目分からない人間に金銭の要求もなくただ脅され続けるその強いストレスと疑心暗鬼で、貴方は放火で生き残ったスバルが何らかの方法で犯人にたどり着き、正体を隠して貴方を強請っていた、と考えたのでしょう? 面白い人ですね。そして想像力が貧相だ」

 修三が小さく頭をもたげて、そろそろと私へ視線を合わせた。奴の瞳の中で嗤う私は、歪んで軋んで、まるで鬼のようだった。

「スバルは貴方を強請っていた人間ではありませんよ。そもそも、貴方のことすら認識していたのかも怪しいのに」

 最後の言葉に思い当たる節があったのか、修三は大きく目を見開いて、「じゃあ、俺は、あ、ああ、ああああああああああ……」と、取り乱した。ずりずりと私から後退りながら、自身を抱き締めるように両手を交差した修三は、虚ろな表情でぶつぶつと独り言を呟いている。

「じゃあ、あいつ、何で、そのこと、強請は誰にも言ってない、のに」

 がりがりと頭皮をかきむしりながら、歯茎を剥き出しにして呻く修三を観察する。視線が彼方此方に飛んで、時折私を掠めては、地の底から響くような唸り声をあげている。私はまた可笑しくなって、笑った。

「お前、お前、お前ええええええ! 彼奴から、スバルから、訊いたのかよ! え!?」

 修三はにゅっと腕を突き出すと、私の肩を掴んで揺さぶった。私はまだ、あははははは、と声高らかに笑いながら、手を大きく振り上げて、修三の頬をパァンと張った。

 修三はよろけて地面に尻餅をつく。私はよれてぐしゃぐしゃになったシャツを整えると、魂が抜けたように呆けた修三に跨がるようにして仁王立ちした。

「反論はありませんか? では、もう少し続けましょうか」

 私は項垂れた為に露になった修三のうなじを見つめながら、スバルが死ぬまで隠していたかった、【家の秘密】について話し始めた。

「スバルの家庭が崩壊していたことを、知っていましたか?」

 修三はぴくりとも動くことなく、沈黙を貫いていたが、私を取り巻く空気が不穏になったことを感じ取ったようで、随分と早口で答えを述べた。

「……仲が悪いのは知ってたよ。ニュースで散々、面白おかしく取り上げられてたからな。父親と反りが合わなくて、母親は父親と家庭内別居してたって」

 私はそれに、大きく頷いた。両親の死後、生き残った子どもに対して世間は同情的だった。それと同じくらい、下衆の勘繰りを働かせて、子どもが隠したかった秘密を暴こうとした。

 修三が語った内容は、その一部だ。恐らくワイドショーで取り上げられた話であり、多くの人間が認識している内容でもある。もっとアングラな部分を取り扱う雑誌やインターネットの情報ならば、見るに耐えない、聞くにおぞましい嘘と憶測で塗り固められた、ある一部の人間だけの真実にたどり着くだろう。吐き気がする。

 しかし、事実とは小説よりも奇なり、とはよく言ったものだ。スバルの家族の実態は、どのような嘘や噂よりも浅ましく、異常で、常軌を逸している。

「それは表面上の話です」

 私は淡々と告げる。そうやって自分自身を律しなければ、怒りで我を忘れそうになるほど、私にとっては腹立たしく憎悪するに値する話だ。

「スバルの家は、文字通り崩壊していました。父親は彼と母親に壮絶な身体的暴力、精神的暴力、経済的暴力、その他口に出すのもおぞましい、鬼畜の所業を彼らに与えていました。父親と反りが合わない、家庭内別居なんて生易しい話じゃない。実態は支配者と被支配者の隸属関係です。家族じゃなかった。私たちは個人の罪は家族が罰し、家族の罪は村が罰し、村の罪はカミが罰するのです。しかし、カミも村もないこの世界では、誰もスバルの父親を罰することは出来ません。まあ、彼は所詮私たちとは違うので、罰したところで彼方には行けないのですが」

「何の話だよ」修三が呻く。私は笑う。

「失礼しました。話が逸れましたね。では戻しますが、つまりスバルは――何でしたっけ? たしか貴方たちは、苦しくて辛くて惨い状態のことを、地の下にある世界に準えますよね? 奈落の底みたいな名前の……」

 ふっと顔を上げた修三は、先程の狂態が嘘のように静まり返っていた。

 ただ、私を異世界の人間でも見たような顔で眺めているのが、何故かスバルの表情と被った。

「地獄……のことか?」

 ああ、それだ。よくスバルが言っていた、私たちには馴染みのない世界。人間の罪業が裁かれる場所。私たちの信仰には存在しない空間。

「そうです、その地獄――? とやらで生まれて、育った人間でした」

 スバルはたしかに其処で生きていた。想像を絶する辛苦を味わい、何度も世界を呪ったであろう彼の隣で、私は只見ていることしか出来なかった。

 私は彼の苦しみを、永劫理解できることはないだろう。

 それが私の罪業である。私は最も呪わしい罪を背負って生きていかなければならない。

 いつか、彼方へ行くその瞬間まで。ずっと。

 さあ、と私は芝居がかった仕草で、大きく片腕を広げる。

 修三が私を見上げる。私は修三を見下ろす。

 断絶した世界が、ゆっくりと繋がっていく。

「さあ、その貧相で思慮の足りない頭で想像してください。『崩壊した家庭の行き着く先』を」

 ――ねえ、何で貴方は、スバルの屋敷に居たのですか?


 ■■■


 修三が大きく瞳を見開いていく。ゆらゆらと不安げに揺れる瞳の中に、焔と、スバルを幻視する。

 そして、修三の叫びにも似た悲痛で身勝手な、独り善がりの偽善に満ちた、おぞましい独白が始まった。

「本当に燃やすつもりなんてなかった! 

 むしゃくしゃしてたんだ! 何をやっても上手くいかない。親には何をしてもいつも怒られる。全員馬鹿だ! 死ねよ、親も兄弟も友達面する奴等も何もかも! 死ね、死ね、死ね!

 あいつは、何でも持ってるように見えた! それなのに、家族の愚痴なんて溢して、不幸自慢しやがって、みっともないと思ってた。俺の方が不幸だったんだ! 

 本当に腹が立った。あのすました顔を思いっきり殴ってやりたかった。顔面ぐっちゃぐちゃにして、地面に頭を擦り付けて、二度と生意気な口を利けないようにしてやりたかった!

 兄貴のライターをパクって、煙草を吸い始めたのもその頃だったよ。最初は煙草で満足してたけど、だんだん、ライターに灯る火を見てたら心がざわざわするようになった。手近なものに火を着けたら、すうっと靄が晴れるような感覚になった。止められなかった。火を、炎を見ると不思議と落ち着いて――そう、だから、魔が差した。

 そんなに厭なら、俺が燃やしてやろうかなって。

 全部失くなったら、あいつも、家族の有り難みだとか、自分がいかに小さいことで悩んでるのかとか、分かるんじゃないかって……知らなかった……知らなかっただけで……俺は……。

 あいつが家族も家も、何もかも失って、初めて同情出来た。優しくしてやろうと思った。だから、沢山話しかけたし、色々面倒を見てやろうとした。あいつは全部断ったけど。何だよ。俺たち、友達じゃねえのかよ。馬鹿じゃねえの。

 それなのに。

 あいつ、また成功してた。汗水流して働いてようやく小金が入る俺とは違って、金持ちになった筈だ。在りもしない法螺話を書くだけで、富も名誉も手に入れた。俺は塵みたいな人生なのに。挙げ句の果てに、あいつは俺を脅しやがった! 底辺で生きてたどうしようもない人間のくせに。全部失ったくせに。何でだよ。あいつばっかり、あいつばっかり! ずるい、不公平だ。俺が何でこんな目に合う? 火だって、偶々大事になっただけだろうが! あいつだって、ろくでなしの親が死んでせいせいしただろう? 感謝しろよ、俺にさあ! だから、俺は――。

 また火を着ければ、また全部失ってくれれば、俺と同じ不幸になってくれると思った。俺を脅すのも止めてくれると思った……」

 ガックリと項垂れて、体の全ての力を抜いて、そう締め括った男を見下ろしながら、私は自分でも不気味に思うほど、とても優しい声で訊ねた。

「……そう。では、貴方は当初、スバルを殺すつもりはなかったのですか?」

「そうだよ」と、修三は投げ遣りな様子で吐き捨てた。

「家を燃やして、何もかも焼いてしまうだけで良かった。そのつもりだったのに――」

 私は修三の髪をわし掴むと、ぐいっと俯いていた顔を持ち上げた。私と目があった修三の瞳には、嫌悪と不審、そして隠しようもない畏怖が現れていた。

「あいつが言ったんだ」

 修三の声は震えていた。

「『燃やしてくれて、ありがとう』って」

 ぱっと修三から手を離すと、彼は地面に頭を伏せて、ガタガタと震えながら、奇声を発した。明らかに気が触れているように見えたが、その奇声の合間に、ぶつぶつと、聞き取りにくい音量で呟いている。

「『君には恩義がある』だから、『君がそんなに燃やしたいならば、俺ごと燃やせば良い』って」

「『元凶が居なくなるよ』って、あいつ、笑いながら、あ、あ、あ、あはは、ははは、はははは、あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、ひひひひひひ、きひっ、きひひひひひひひひひひひひひ、あは、あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」

「殺すつもりはなかった。なかったのに、俺は、あいつの瞳を見たら、訳が分からなくなって、それで、」

 記憶の中のスバルに怯える男を睨下しながら、私はくっと唇の端をつり上げて、冷たく言い捨てた。

「自分の手を汚したくなかったから、生きたまま火を着けたのですか?」

 修三がぎゃあああああっ! と、獣の咆哮にも似た悲鳴を上げる。

 頭を振り振り、髪を振り乱し、錯乱しながら、修三は何度も事実を否定しようとする。

「う、うう、うあああああああ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! 違う違う違う、違うううううううううううううううううう! 俺は殺してない! あいつが勝手にそう言っただけだ! 俺の意思じゃない! スバルは焼身自殺したんだ! 俺は人殺しじゃない!」

 私は男の狂態を眺めながら、嗤った。

「ふふふ」

 どうしようもなく面白くて仕方がなかった。

「うふふふふふふ」

 それと同じくらい、どうしようもなく腹が立って仕方がなかった。

「お前の矮小な嫉妬心とねじ曲がった正義感と歪んだ記憶の話は、どうでもいい」

 修三は私の言葉にピタリと叫ぶのを止めた。それから、恐る恐る、私を見上げる。

 私はにっこりと笑った。この場にそぐわぬ明るい笑顔に、修三はぽかんと口を開けて間抜け面を晒しながら、ぼんやりとしていた。

「お前の功績は、唯一。

 何を言われたのか理解出来なかったのか、透き通るような真っ直ぐな瞳で私を見ていた修三は、随分と時間を置いた後、一言、「え?」と言った。

 私は混乱する修三を気にかけず、淡々と話し続ける。

「そのおかげで、遺体も屋敷も見事に燃え尽きたから、私達は疑われることなくできました」

 何も映していなかった男の眼が、じわじわと何らかの感情に染まっていくのを、私は真正面から観察する。それは、驚愕、納得、憤怒、絶望、嫌悪、恐怖、そして――歓喜の色とりどりの感情で、ぐちゃぐちゃと雑ざり合っていく。

 私は今、人間の深淵を覗いている。

「やっぱり」修三の声が震えている。私は直観した。これは、恐怖による震えではない。

「やっぱり、お前らが殺してんじゃねえか!」

 男が吠える。あまりの勢いに、私は不覚にも一瞬気圧されて一歩後退りするが、寸でのところで踏み留まる。修三はフーッ、フーッ、と唸りながら、瞳孔を開き切り、歯茎を剥き出しにしていた。その表情は悪鬼に勝るとも劣らぬ、おぞましき獣性を具現化したものであった。

 修三が吠える。私に噛みつかんばかりに声を張り上げて、糾弾するその滑稽な姿を、私は見下ろし続ける。

 そして、私はぐっと後ろ手に握り締めた特殊警棒に、力を込めた。

「あいつ、親を殺したのか! 殺したんだな! あっはははは、なぁんだ、虫すら殺せねえような顔しておいて、結局塵屑じゃねえか! お前もだよ! 取り澄ました顔しておいて、恐ろしいことを平気でできる、悪魔じゃねえか! 社会の塵め、お前らなんか死んじまえ! 死んで当然だ! 俺が鉄槌を下してやったんだ! どの面下げて、俺を糾弾しようとしてるんだよ、人殺しどもが! 俺が正しかったんだ、俺は世間の為になることをしたんだ! あは、あはは、あはははは、人殺し、人殺し、人殺しめ! 地獄に――」

「お前も人殺しだろうが。同じ穴の狢だろう。善人面した蛆虫以下のヘドロ野郎」

 今まで隠し持っていた特殊警棒をすらりと背後から抜き出し、ジャキンッ! と振り払って本来の長さに戻した。

 すると、げらげらと腹を抱えて醜く笑っていた修三が、口をつぐむ。どうやら、私が武器を持参していたとは夢にも思っていなかったようで、頻りに私と特殊警棒へ視線を彷徨かせていた。

 大きく振りかぶって、私は特殊警棒を修三目掛けて叩きつけた。しかし、火事場の馬鹿力なのか、修三は俊敏な身のこなしでそれを避ける。

「俺は違う」

 私の攻撃を避けながら、修三が叫ぶ。

「俺は人殺しじゃない!」

 私はこの期に及んで尚面白くない冗談を言う修三に、嫌気がさしていた。

 本当にどうでも良いのだ。こいつが、スバルを自殺に見せかけて殺害したのか、はたまたスバルの甘言に乗って、自殺の幇助をさせられたのか、そのようなことは、今更、何を言っても遅いのだ。

 だから、私が許せないことは、ただひとつ。

 林の中に紛れて逃げようとした修三の襟首を掴み、引きずり倒す。悲鳴を上げて、めちゃくちゃに腕を振り回すから私は何度も殴られたが、不思議と痛みは感じなかった。何度か攻守が逆転しつつ、暗闇の中、縺れ合いながら、私達は殴る蹴るの応酬を繰り広げていた。

 頬骨を強く打ちつけられて、鼻の骨が折れた感触がする。ぷっと口内に溜まった血の混じった唾を吐き捨てて、私は修三の首筋目掛けて警棒を振り下ろす。しかしそれは奴の腕に塞がれたが、代わりに腕を使い物にならなくした。

 頭から、鼻から、口から血を吐き出しながら、私は何度も殴ったし、蹴ったし、叩いて抉って引っ掻いて、奴の戦意を失わせるべく暴力を奮ったが、それ以上の暴力をもってして、私は殴られて、蹴られて、叩かれて抉られて引っ掻かれた。視界がぐらついて、少しずつ暗く澱んでいった。修三がどのような表情で私を見ているのか、暗くてもう分からなかった。

 しかし、たとえどんなに殴られても、蹴られても、頬を張られても、私は決して武器を手放さなかった。

 ――目の前の男の頭蓋を、有らん限りの力で打ち砕くために。

 ――仕様もない、惨めったらしい嫉妬と、どうしようもない気持ちの悪い正義感を振りかざすくせに、スバルをこいつを。

 ――私は、生かして帰すつもりはない。

 そして、私が修三に馬乗りになられて、ボコボコに殴られ、息も絶え絶えといった状態で反撃の機会をうかがっていた時だった。

 パチパチという音ともに、何かが焼ける臭いが、私の鼻をツンとついた。ハッとして修三の背後を見ると、スバルの生家である廃屋が、どんどん炎に包まれて、メラメラと燃えていたのだった。

 夜なのに昼のような明るさで私達を照らす炎の柱が、ごうごうと音を立てている。

「お前がごそごそ家捜ししてる時に、ガソリンを撒いて、火を着ける準備をしたんだ」

 がくん、と私の視界が揺れる。ずり、ずり、ずり、と土が削られる感触とともに、頭上から修三が壊れた笑い声を上げて放った言葉を理解した瞬間、私は奴に髪を掴まれて引きずられていることに気がついた。

「あはは、これで漸く、目障りなものが全て燃える。なあ、そんなに気持ち悪いぐらいスバルが好きならさあ、お揃いにしてやろうか」

 ぶつぶつ独り言を呟く修三の顔を見上げると、煌々と炎の光に照らされたその顔は血塗れの上に痣や腫れがひどく、元の甘い顔立ちが嘘のように鬼気迫り、狂気を帯びて輝いている。

 前方には、炎に囲まれて燃え盛り、がらがらと砕け落ちるスバルの屋敷。

 そして、私は修三に引きずられ、今まさに、そこへ向かおうとしている。

「お前を燃やせば、全て終わりだ」

 ――ああ、なるほどね。

 私は自嘲の笑みを薄く唇に引いた。もう笑うしかなかったからだ。

 修三は、私をあの炎の中に突っ込んで、焼き殺すつもりだ。


 ■■■


 生命の危機に瀕しているというのに、殴られ蹴られてぼろぼろになって、更に頭のネジが弛んだ私が思ったのは、スバルとお揃いかあ、それも良いなあ、という感想だった。

 私のすました顔が嫌いだったのか、よく「スカシ野郎!」と悪態をついていたスバルが、彼奴と同じように火傷に冒された私を見たら、少しは笑ってくれるだろうか?

 そのような、考えても仕方がないことばかりが、ぐるぐると頭の中を渦巻きながら、私の意識は未だに固く握られた特殊警棒に向いていた。良かった、まだきちんと手の中にある。

 私はずるずると荷物のように引きずられたまま、修三の腕――私の髪を鷲掴みにするそれに、そっと掌を当てた。修三は私が抵抗すると思ったのか、舌打ちをすると、煩わしげに二三回乱暴に頭を揺すった。髪の毛がぶちぶちと音を立てて、抜け落ちる。痛みも酷い上に、ぐわんぐわんと視界が揺れて、気持ちが悪くなる。胃がひっくり返って、もどしそうになるのを懸命に堪えながら、私は奴の腕を離さなかった。そして、修三の腕を固定すると、私は自身の添えた手ごと、勢いよく振り下ろした警棒に打ち当てた。

 プラスチック製とはいえ、特殊警棒の殺傷能力は折り紙付きで、通常、特別な理由や届け出がない限り所持していれば軽犯罪法に抵触する恐れがある。相手が危険物を所持していた場合、それを手から叩き落とすために手首に打ち込んだりするのだが、それでも当たりどころが悪ければ大怪我を負うことは必須だ。

 つまり、ゴキン、と固い何かが折れる音がしたのは必然であり、それは直撃した修三の腕の骨と、私の手の甲の骨だった。

 私は地面に投げ出された。修三は痛みにのたうち回りながら、餓えた獣のような唸り声をあげている。

 恐らくひびの入った片手をぶらりと垂れ下げながら、私は素早く修三へ忍び寄る。

 修三は背中を丸めて、踞っている。私が直ぐ側で見下ろしているのには気がついていないようだった。

 今度は肩目掛けて、特殊警棒を振り下ろす。肉を打ち付ける感触は不愉快極まりなかった。それでも私は、何度も何度も振りかぶっては、渾身の力を込めて修三を殴り続けた。

「昔から、貴方が大嫌いでした」

 骨が折れて、肉が腫れて、全身の痛みに耐えられずとうとうすすり泣き始めた修三に向かって、私は言い捨てた。

 学生の頃からずっと、目の前の男に抱いていた、心に巣食っている私の獣性が牙をむく。

「スバルの周りをうろちょろと鬱陶しく粘着している、私と同じく珍しい名前ーー名字のお前が」

「ああ、やめろ、やめ、厭だ」

「ねえ、清浄院せいじょういんくん?」

 修三は私の言葉が聞こえてないのか、譫言のように何度もそのようなことを呟いている。

 特に傑作だったのは、私が顔を狙って警棒を振り下ろそうと構えた瞬間、「人を殺したら、罪に問われるんだぞ」と息も切れ切れにそう叫んだことだった。

「お前に俺を裁く権利が、あるのか? 人殺しの、お前が!」

 私はそれを耳にして、ゆっくりと持ち上げていた警棒を下ろした。修三がそれを見て、ほっと安堵の息を漏らしたのが分かった。

 その一連の流れを見つめた後、私は修三に向かって、優しく微笑んだ。

「そう言えば、貴方たちの信仰の概念の中に、死後、罪を裁かれる場所があるんですよね。それが、『地獄』でしたか? 私たちが代々信じている信仰には、そういう場所はないんです。生前の罪は、全て生前に裁かれるのが、私たちに伝わる信仰です。生きた人間――家族、村、オニに裁かれ、罪を削ぎ落とし、まっさらな状態の魂になってはじめて、に行けるので――」 

 きっと修三は、私が何を話しているのか、理解できないだろう。

 しかし、異様な雰囲気が今尚続いていることに気がついているようで、私が一歩踏み出すごとに、修三は倒れ伏したままずりずりと後ずさった。

「嫌だ、殺さないで」

 修三はとうとう、形振り構わず私に懇願した。スバルを殺したくせに、私を殺そうとしようとしたくせに、鼻血や涙でぐちゃぐちゃになった顔が恐怖に歪み、風前の灯である己の生命を何とか維持せん為に、必死で額付いている。

 私はまた一歩近づいた。修三もまた一歩後退る。

 ――故意であろうと、事故であろうと、教唆されたであろうと、それは私には関係のないことである。

 こいつは、どのような理由があれど、スバルを生きたまま焼き殺した。

 ならば、こいつも、私の家に伝わる魂の浄化の方法に則って、生きたまま焼かれるべきであろう。

「ごめん、謝るから、スバルに謝るから、殺さないで。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。なあ、む、」

「煩い」

 修三の懇願を遮った私は、再び特殊警棒を振り上げた。修三は私から逃げ出そうと背後を振り返り、そしてハッと絶望の息を漏らした。

 背後は炎の海だ。前方には凶器を所持した私がいる。逃げ場はない。何処にも。

 逃がすものか。

「貴方は私の家族でも何でもないけれど、私の家族であるスバルを送ってくれたから、特別にカミの作法で送ってあげる」

 ――そう、本来私が送る筈だったスバルの代わりに、お前を、鬼の流儀で殺してやる。

鬼咲きさき、やめてくれ。――!」

「私の名前を――呼ぶな」

 そして、私は警棒を炎の海に放り投げると、驚く修三を思いっきり突き飛ばした。

 地の底から響くような、或いは硝子が粉々に砕け散ったような断末魔の声が、長く永く、響き渡る。

 修三はあっという間に炎に包まれた。文字通り火だるまとなった男が、助けを求めるように炎に飲まれた腕を私に向かって伸ばすが、私は素早く退いてそれから距離をとる。

 皮膚の焼ける脂っぽい臭いが鼻をつく。べたべたした空気が私を取り巻き、嫌でもあの日――運命が変わった、十年前の火事と、スバルの焼身自殺を思い出した。

 やがて悲鳴は壊れたラジオのような雑音に変わり、そして静かになった。修三だったモノがばらばらと崩れ落ち、更に炎は空気中の酸素を取り込んで勢いを増していく。

 スバルの屋敷は、今度こそ形も残らず燃え朽ちることだろう。

 太陽の陽を浴びるように私は光に照らされる。私の後ろに伸びる、黒々とした影は更にその背後にある奈落の底のような闇に繋がっていた。

 そして、ふと思い立って、今まで大切に保管して読んできた原稿――スバルが生前に完成させ、日の目を浴びることがなかった幻の小説『カンザキスバルの永い一日』と、彼が遺した日記を、うねり燃え盛る焔の中にくべた。

 それは瞬く間に火が付き、パチパチと音を立てて、あっという間に燃え尽きてこの世から姿を消した。

 私はそれを見届けた後、動かなくなった黒炭の塊に向かって呼び掛ける。

「聞こえてないと思いますから、もう一度言いますね」

 私は笑う。嗤う。嘲笑う。

「私の名前を――六連むつらと呼んで良いのは、スバルだけです」

 あの男の代わりに、炎の柱が、ごう、と唸り、そして家屋が崩れて黒炭はその下敷きになった。

 ――ふと視線を感じた私は、ゆっくりと背後を振り返った。

 前方にある焔の明るく赤い光と、後方の林の漆黒の闇が混じる中、私はそこに光を見つけたような気がした。

 そして、私は。

 ――光と。

 ――光と、目が合った。

 自然と唇が綻ぶのがわかった。懐かしくも慕わしい、憎しみよりも深く愛した、親愛なる同朋の瞳。

 今すぐにでも駆け寄って抱き締めたい衝動と、渾身の力で叩きのめして詰りたい衝動が、私を襲って体を支配した。

 光は此方をじっと覗いている。沢山の光。見たことのない顔。涙に濡れる大きな瞳。能面のような表情。――それら全てが、私の光。

 その中でも一際目立つ、焼け爛れてくすんだ光が、私を深淵の虚のような暗い視線で、睨みつけていた。

 見つけた。其処に居たのか。会いたかった、ずっと。

 だから、私は虚ろの光に向かって微笑みかけながら、間延びした口調で呟くのだ。




「見 た な 」




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