3.子羊


 セヒスムンドが偽物にすり替わっているかも知れない。


 ──まさか。ぼくが聞いたあの声は確かにセヒスムンドのものだった。だが、この手帳の主は彼の「親戚」なのだ。似ていたっておかしくはない。それに、三年間も会っていなかった人間の声など、正確に覚えていられるものか?


 もしこの屋敷を暗くしている理由が、ぼくやイシャリアナ、使用人たちの目を欺くためだったら、理由が付くのではないか。兎にも角にも、何かの間違いがあってはならない。深呼吸を一つして、読み進めていく。


『死体は地下室に隠した。傷口から血がどくどくと溢れ出して、カーペットに跡が付いてしまった。イシャリアナのためにも、隠さなければならない。いずれは、』


 恐らく。あのセヒスムンドの素顔を拝めれば。もしくは死体を隠した地下室とやらを見つけることができれば。ことは明らかになるはずだ。どちらの手段を取るにせよ、この足元も覚束ない屋敷を自由に歩けなければ、到底果たすことはできないだろう。目を慣らすためにも、さっさと部屋を出た方がいい。


 せめて誰か、助力してくれるような人間に渡りを付けられたら。イシャリアナはどうだろうか──いや、そもそも会えなければ話にならない。屋敷の中はやたらと入り組んでいて、少しでも気を抜いたら帰り道が分からなくなりそうだった。


 光の筋が曲がり角の向こうを照らしている。──誰だ? 感づかれないように覗き込むと、一人の少年がいた。


くそっmierda、なんでこんな面倒くさい構造してるんだよ。どうしよう、畜生joder。この歳になって迷子だとか、冗談にもならないぞ。どうしよう、くそ」


 震える声で、自身を鼓舞するように悪態を吐いている。愉快な子だと思った──この子にしよう。顔も見たことのない住民たちより、この少年の方がずっと信頼できそうだと、そんな気がした。壁際から顔を出して「こんばんは。君は──」と言い掛けたところで、劈くような悲鳴がぼくの鼓膜を殴りつける。人間の喉からこんな笛めいた音が出るのか。投げつけられた懐中電灯を咄嗟に避ける。眩しいな、これ。


「だれっ、だれアンタお前!」


「──アフ・ツィバル。セヒスムンドの友人で、しばらくここに滞在させてもらっている。探し物があるんだ。驚かせて済まなかったね。登場の仕方が宜しくなかった。許してくれ。……で。そう言う君は誰なんだい?」


 助け起こそうとすると、数秒ほど逡巡していたようだが「あんた、ちゃんと人間だな?」と言って、ぼくの手を取った。深く息を吸って、吐いて「アリン・チタ。ここの使用人だよ。と言っても、今日が初日なんだけど」


「迷子になったのかい?」


「……うん」


「ぼくが案内しよう。階段のところまでしか分からないんだけれど、それでも十分かな?」


「ありがとうございます」などと悄然とした様子で答えるので、さあどう話を振ったものかと悩んでしまう。


「アリン・チタ。代わりに一つ頼みごとをしてもいいかな?」


「……どんな?」


「地下室か、セヒスムンドの部屋か。分かる方でいいから、後でそこまで案内してくれるか、案内してもらえるように話を付けてくれるか……頼めるかい?」


「分かった。旦那様の部屋なら連れて行けると思う。階段とか、分かるところまで戻れたら、の話だけど。地下室は……聞いたこともないや。それでもいい?」


「うん、十分だ。よろしく頼むよ」

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