2.記憶
セヒスムンドからの手紙が届いたときは驚いた。あの筆無精な男が? 余程のことでもあったか。それとも三年の孤独が彼を征服してしまったのか。
いや、寂しさですっかり参ってしまっていたのはぼくの方だ──嬉しかったんだ。一人の知己もなく、狭いオフィスで書類整理をしているだけの毎日を送っていたぼくにとっては。誰かに記憶してもらっていたという、ただそれだけのことが。
与えられた部屋はずいぶん居心地が良さそうだった。象牙色の壁紙には、淡い金色で縁取った蔓草が描かれている。照明も、最初は眩しくて仕方がなかったが、慣れてくると落ち着いていて、温かみのある光を放っていることに気付く。肘掛け椅子には、はち切れんばかりの綿が詰められたクッションが置かれている。デスクからはクルミ材の良い香りがした。本棚やバスルームも一通り物色して満足すると、ベッドの上に倒れ込んで目を瞑る。やはりふかふかだ。
来た時はどうなるかと思ったが、案外楽しく過ごせるかも知れないぞ。何より、この屋敷にはぼくの友人がいる。
頬が緩む。身を起こそうとして、何か四角いものが手に当たった。
一冊の手帳が、枕や毛布で隠すように下敷きにされていた。手に取って眺めてみると、所々ほつれが目立つ。あまり丁寧に扱われてきたものではないらしい。表紙には楕円形の染みが連なっている。おもむろに、適当なページを開いて読み始める。
『おれはセヒスムンドとは違う。おれはイシャリアナを一人置いて消え去ったりはしない。おれが、おれだけが、イシャリアナの側にいてやれる。偽物だからこそ、』
そこまで読み始めたところで、部屋の外から声が掛かった。
「ご夕食の準備ができました。一階の食堂までご案内いたします」
きゅっ、と背骨がこわばった。別にやましいことはしていない。数瞬の硬直と思考の後、ぼくは手帳を閉じて元の位置に戻す。二、三度ほど、ちゃんと隠せているか確かめてから返事をした。
「ああ、うん。ありがとう。すぐに行きます」
部屋の中を見られないように、なるべく素早くドアを閉じる。暗闇がまた、ぼくに覆い被さる。視界を取り戻すまでの間だけでも何か誰かと話していたかった。夕食、夕食か、と口の中で転がして「……夕食か。セヒスムンドもそこで?」
「はい。ご一緒にお取りになるようです」
「それはいい。彼とは長らく会っていませんでしたから」
次の言葉を探している内に、ふと、目の前にいるのがさっきの老女ではないことに気がついた。歳の頃は四十か、五十か。落ち着いた、低い声をしている。一方で、彼女もこの屋敷の臭いがどうしようもなく染みついているのは変わりなかった。
「この屋敷には、使用人が何人もいるんですね?」
「ええ。わたしも具体的には把握してはいないのですが、いつも四、五人ほどはいるようですから──ああ、着きました。こちらです。セヒスムンド様も待っていらっしゃるでしょうから、どうぞ」
軽く礼を言って食堂に入るが、やはりこの部屋も暗くて席に着くのもまごついた。肘がぶつかったのか、卓の上のカトラリーが微かな音を立てる。
「セヒスムンド?」
テーブルの向かい側から、問い掛けるように、少女の声がした。こんなに暗いのだ。取り違えられるのも無理はない。
「いいえ。ぼくは──」咄嗟に否定しようとして、
「ああ。待って。まだ言わないで。……アフ・ツィバル、でしょう? セヒスムンドから聞きました。お友達が来る、って」
「──ええ、そうです。あなたは?」
「イシャリアナ。……居候?です。たぶん」
──イシャリアナ。手帳の中にあった名前だ。
「随分煮え切らない説明ですね?」などと混ぜっ返してみるが、正直不気味で仕方なかった。いや、あれは使用人か誰かが仕掛けた悪戯という可能性だってあるだろうに。……この屋敷では、いったい何が起こっているのだろうか。
「わたしはセヒスムンドの何か、と考えたら、そうなるような気がします。恋人、と言うには違いますし、養子と言うほどには歳が離れていないので」
「ともかく」ぼくは言葉を継いだ。「彼とは親しいんですね」
「はい。大事にしてもらっています」
彼女との会話はそれきりだった。セヒスムンドが来てからは、ぼくは彼と話すことを優先したから。暗がりで顔は見えないが、声にはいつかの名残りがあるように感じられて、嬉しかった。寡黙なのは相変わらず「ああ」「うん」と言葉少なに相槌を打つだけだったが、話はしっかり聞こえているようで、時折思い出したかのように訥々と語り始める。
晩餐も片付いて食堂を離れるとき、ぼくはセヒスムンドに声を掛けた。
「セヒスムンド、」
「うん?」
「それで、『頼み事』って何だい? そのためにぼくを呼んだんだろう?」
「いずれ話す。まあ、言えばすぐ終わるような用事だ。だから、今は。まだこの屋敷で寛いでいてくれ。休みも取ってくれたんだろう?」
イシャリアナの方を気にしているようで、妙に歯切れが悪かった。きっと彼にも事情があるのだろう。彼女のこと、あの手帳のこと、この不可解な屋敷のことも。
「うん。分かった。また聞かせてくれるなら、それでいいよ」
辞して部屋に戻ると、手帳が変わらず枕の下にあるか確かめる──大丈夫だ。取り出すのは使用人の足音が遠くなってから。変哲はない。改めて、最初のページから読み始める。
『事の始まりは借り家を追い出されたこと。僕にとって、セヒスムンドが持ちかけてくれた住み込みの家庭教師の話は渡りに船だった。親戚の誼もあっただろう。イシャリアナに中等教育程度までの内容を教えて欲しいというものだった』
この手帳の持ち主はセヒスムンドの元に身を寄せていたらしい。それ以降はこの屋敷での日々が断片的に綴られているに過ぎなかったが、だからこそ、突如現れた文字列には驚かざるを得なかった。顔を顰めて、早鐘を打つ心臓から気を逸らそうとしたが、無駄だった。ぼくは一文字、一文字ずつ、やっとの思いでその文章を噛み砕く。
『セヒスムンドは月に魅入られてしまっていた。殺すしかなかった。彼が、彼の宿痾を抱きつづけるかぎり、イシャリアナを救うことはできない。だから、おれは』
──これは、何だ。これが本当の話なら、あのセヒスムンドは、誰だ。
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