1.来客


 ノッカーは雄牛の頭を象っていた。真鍮製で、鈍い金色の光を帯びている。叩くと、思ったより重い音がした。数秒待つ。返事はない。扉の表面では、ぼくの影がじわじわと滲むように伸びている。夕焼けが背中を這うのが分かった。心細くなって「失礼、セヒスムンド氏はいらっしゃいますか」と声を上げる。また数秒。最初に返ってきたのは鴉の声だった。木々のざわめき。冷たい風が肩を撫でる。


 ──もう、入ってしまおうか。


 扉に手を掛ける。一歩踏み出すと、金具が擦れる音がした。建付けが悪いのだろう。それなりに力を入れる必要があった。まるで来客を拒むかのように、固い。そのくせ閉まるときには勢い良く、晩鐘のような響きと共に閉ざされる。


 屋敷の中はとても暗かった。不意に目が見えなくなったのかと思うほどに。一切の明かりがないのだ。ぼくはしばらく立ち尽くしていた。埃と、何かが腐ったような臭いがする。素直に外で待っているべきだった──ぼくはもう一度声を上げる。


「失礼、セヒスムンド氏はいらっしゃいますか」


 こつ、こつ、と靴の音がする。


「何のご用でしょうか」


 女性の声。年老いていて、か細く震えている。ぼくはポケットからマッチを取り出して、彼女の姿を確かめようとした。


「申し訳ありません。明かりは、つけないでください。目を患っている方がいるのです。医者から、目に光を入れないようにと言われていて」


「はあ、分かりました」マッチ棒を箱に戻す。軽く二回ほどはたいてから上着のポケットに放り込んで「でも、これじゃ何も見えませんよ」


「じきに目が慣れて見えるようになりますから、それまでどうかご辛抱を。……それで、いったいあなたはどちら様なのでしょうか」


 老女はぼくを不審に思っているようだった。


「アフ・ツィバル。セヒスムンドの友人です。彼から手紙を受けて……頼みごとがあるから来て欲しいと。会うのは、三年ぶりになるのですが。勝手に入ってしまったのは謝ります。返事がないもので。それに、日が沈んでしまいそうでしたから」


 自分でも、冷静さを欠いているのが分かった。舌がもつれて上手く喋れない。


 老女は「ああ。あなたが」と呟いた。「セヒスムンド様から話は聞いています。どうぞこちらに。お部屋まで案内します……真っ直ぐ歩いて来てください。階段があるので、お気を付けて」


 無茶なことを言う。探るように突き出した手は空を切った。慎重に一歩、また一歩進んでいく。ぼくは真っ直ぐ歩けているだろうか? どうにも斜めにずれていっているようで、覚束ない。老女はぼくの不安を見透かしたのか「ええ。そのまま。ゆっくりで構いませんから」と助言した。


 やがて朧げながら、周りの物の輪郭が見えるようになってきた気がする。真黒な花瓶、真黒な柱、真黒な手すり、真黒な段差……真黒な人間。まるで影と実態がさかしまになったようだった。ぼくは彼女に声を掛ける。


「ご婦人、あなたはいったい──?」


「この屋敷で働かせていただいております──角を右に曲がってください。ええ、こちらに。この部屋です。ご滞在の間は、ここでお過ごしくださいませ。ご夕食の準備ができたらお呼びしますので。では、ごゆっくり」


 それは曲がり角から二つ目の部屋だった。ドアノブを握って振り返ると、老女はもういなくなっている。愛想のないひとだ。扉を押すと、白い光が溢れ出した。どうやら中は明かりが点いているらしい。眩しかった。顔を顰めながらドアを閉める。しばらくすると目が慣れてきた。椅子の足下に荷物を降ろし、ふかふかとしたベッドに腰掛ける。ほのかに古びた臭いがした。

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