第9話 華麗なる証言者
その日の午前中、チーム白峰は、集まって何やら細かいところを相談していた。
鑑識の高円寺がやってきた。
「遅くなりました。あの犯人の通話の発信地点が限定されました。ローズキャッスルと朝露農園を含む、ごく狭い地域のどこかです。」
「やっぱり、そうなのね。状況証拠がまたひとつ加わったわね。でもまだ犯人を引っ張るには二つも三つも足りないわ。」
「先輩の頭の中では、犯人は絞られているんですか?」
「ええ、限りなく灰色の人が一人いるわ。あとは決定的な何かが…。」
柴田が、データをまとめ始めた。
「まず、ネット上で、コクトと呼ばれている真犯人は、パソコンを使って実行犯を集め、自分は室内から指示だけで殺人をおこなう。動機は不明、少なくとも金品目的ではないらしい。逆にトレジャーハンター集めをしているので、数十万から百万程度の出費をしている。」
そこに丸亀が口を出した。
「五年前、ここで起きた五億円強盗事件の時の紙幣が、トレジャーハンターたちに配られている模様。また、その事件も、もともと現金輸送車の通る道が妙な事故で通れなくなったり、変更した道がたまたま工事中だったりと、妙な偶然の上で、起きた事件だった。」
「そして、こちらの捜査が進むと、朝露農園の坂本チーフや、力石萌、白峰刑事まで命を狙われた。奴は自分の正体を知られるのがよほど嫌らしい。その延長線上で、アリジゴクも襲われたと考えてよいと思います。」
流石は、うでを組んで考えてみた。
「どうやったら、しっぽをつかめるのかしら…。」
すると柴田も考え込んだ。
「そうですよね…、だいたい、あの朝田光一さんの失踪自体がまったく未解決ですしね。」
「あ、それだけど、私、大学のフルーツ食べに行って、思ったの。朝田さんが、駅に行くはずがないって…。もしかしたら、真相がわかったかもしれない…。」
すると丸亀が静かに言った。
「今までの状況証拠を、もう一度出し合って確認してみよう…。あと、この犯人が五億円強盗犯人と関係があった場合は要注意だ。あの事件では、本物の拳銃が使われているからな…。」
みんな、顔をを見合わせた。
「ねえ、コクトって、漢字で書いたらどう書くの? 黒砂糖?」
「先輩、それは黒糖!」
「そうだねえ、黒いウサギはどうだい? 黒兎っていうのは?」
「黒いウサギ…? あ、もしかすると!」
明らかに何かひらめいた流石だった。
「あの小屋の中は丸さんたちがきっちり調べてくれたのよね。だとすると…。きっとそうだわ。よし、全員集合作戦よ。みんな、ちょっと聞いてくれる?」
チーム白峰は、ついに最後の作戦へと動き出した。
その頃、ウタポンは、朝露農園の縁側亭で、料理の最終工程に入っていた。そばには、ウェイターの木島が立ち、不正を行わないか見張っている。当日になってから、厨房の使用の条件で思った通りもめて、縁側亭で作る代わりに、見張りが付いたのであった。
自分たちが、オーブンは何分までとか、厨房の三分の二以上の面積を必要とするから、隅っこでやってくれとか、当日になってから瀬川が思った通り、メチャクチャなことを言い出した。いやです、そんなことを言うなら農園の台所を借りるといったら、見張り付きだ。
こっちをジーッとみてプレッシャーをかけてくる。
そっちがむちゃくちゃなのに、逆だろう。本当に失礼なやつらだ。
だが、戦闘モードに入ったウタポンはすべてを超越して、空恐ろしい戦闘マシーンと化している。もちろん、弱気になったり、気後れするなど一切ない。でも、食材や料理に関する愛情だけはより深く、ほほ笑むように料理に向かう…。
紫門夕子が、アシスタントのように手伝い、冷たい井戸水や、無農薬野菜を農園から運んでくる。
今頃ローズキャッスルの厨房の中で、一流のシェフが、腕をふるっているとは、知る由もなかった。
その頃、天山の駅で、曽根崎は、自分たちの用意した審査員を待っていた。
「よう、曽根崎君、待たせたかな。」
「沖蔵会長、まだ五分前ですよ。今日はありがとうございます。」
そう、まさかの、外国から帰ったばかりの裏道グルメ研究会の沖蔵会長であった。
「どうも、すいません、今回の料理勝負はわけありで…。」
「ああ、ぜひ言わんでくれ。先入観は舌を鈍らせる。わしは真っ白な状況でおいしい料理に会いたいんじゃ。」
さすが、頭が下がる。この人なら決してひいきなしに審判してもらえるだろう。曽根崎は、感心しながら、沖蔵会長を車に乗せ走り出した。
「…というわけでね、たちの悪い低レベルなマスコミのゆすりみたいなもんですよ。」
瀬川は、二人の大学教授を前に、深刻な顔をしてみせた。
「それはひどいね。勝手に取材に押しかけて、料理にケチをつけて、お金も払わずにドロンかい。そいつらの狙いは何なんだい?」
「だから、まずいと書かれたくなければ、金を出せってことでしょう? でも、そんなことを言われる前に、なんとか料理勝負に持ち込んだんです。やつらは素人だから、こっちに勝てるはずはないのです。」
「でも、シェフの浜田君、腱鞘炎なんだろう、平気かい。」
「そうなんです。彼もやる気があり過ぎて、頑張り過ぎるのが欠点といえば欠点で…。でも幸運の女神はちゃんといるもんです。彼のお師匠に当たる方が、少しだけ手伝ってくれるということになって…、いや、彼の人望だと思いますよ、実際。これで、彼もきっと、いつもの力を出してくれるはずです。」
「うんうん、私たちもできる限りのことをするからね。」
この二人の天山大学の教授は、バカ高いケーキセットを毎日のように食べにくる、店の常連だった。どちらも自称グルメではあったが、もうこの時点で、瀬川にすっかり取り込まれてしまっていた。
そこに、ウタポンと、紫門夕子、そして力石萌が、大きな荷物を持って入ってきた。
「あとは、オーブンで仕上げの焼きをこちらで入れさせてください。」
すると瀬川は、いやそうな顔をしながら、立ち上がった。
「今、厨房に空きがあるか見てきます。しばらくお待ちください。」
大学教授たちは、洗脳されて黙って視線をそらしている。
とげとげしい雰囲気が、あたりを包んでいる。
「ウタポンさんって、いざとなると、わたしよりずーっと強い。尊敬するわ。」
力石萌も、本番に強いのか、どこ吹く風だ。
ウタポンと力石萌は表情一つ変えず、どっしりと椅子に座った。
落ち着かない紫門夕子はそばの本棚にあった、ガーデンノートと書かれたファイルをパラパラ眺めていた。
「あら?」
何気なしに、見たページに、あのガーデンのカラクリショーのデータが書いてあった。ふとあの日、そう、朝田が失踪した日をみてみた。すると、ほとんどの日が、瀬川の好きなラベルやドビュッシー、ストラビンスキーなどが繰り返し使われているのだが、
あの日だけ、チャイコフスキーの「大序曲一八一二年」が使われているのである。他には一度も出て来ない。
「なぜだろう。」
紫門夕子は、自分たちの見張りについてきていたウエイターの木島に聞いてみた。
「ああ、確か誰かの強いリクエストがあったんじゃなかったかな、どの曲でも私に任せられているので、なんなら、今日のお昼にその曲、流しましょうか?」
「本当ですか? ぜひ、お願いします。」
すると、木島がそっと近づいて、ささやいた。
「私も見張りなんかしたくなかったんです。でも、厳正な審査のためには仕方ないと思ってずーっとついていたわけで。あなたたちは、実に熱心にきちんと料理に取り組んでいたと思います。」
「ありがとうございます。」
なんだ、木島さんは悪い人じゃないみたい…。
それにしても、きっと瀬川は、厨房からあの実力者の二階堂シェフをほかの部屋に移動させてから、ウタポンさんを呼ぶんだろうな…。
けっこう待たされてから、ウタポンたち三人は厨房に入り、大きな荷物を搬入した。
もちろん、二階堂シェフは影も形もなかった。
「じゃあ、終わったころにまた声をかけてください。また来ます。」
紫門夕子と力石萌は、農園に帰って行った。入れ違いに、曽根崎が会長と入ってきた。ついに、時間だ。
「今日は、ご足労頂きありがとうございます。私、この店のオーナーである瀬川健斗とそこにおられるタウン誌の編集長、曽根崎新さんとの間で、料理に関する行き違いがあり、その溝を埋めるため、ご迷惑をかけることとなりました。勝負のルールや詳細はあらかじめ配っておいた資料に記載しておきました。どちらの料理かわからないようにして、これから、二つの料理と紅茶が出ます。食べ終わってから投票いただき、優劣を決めたいと思います。よろしいでしょうか。」
みんな黙ってうなずいた。
「では、審査員の方々の紹介ですが…。」
すると、沖蔵会長が手を上げた。
「肩書とか、そういう堅苦しいのは後にしましょう。沖蔵と呼んでください。いかがです。」
「そうですね。勝負の前に肩書で優劣がつくのもおもしろくないですから。」
瀬川が、沖蔵会長をちらっとみて、皮肉たっぷりに言った。
こちらが、肩書のない可哀想な老人を連れてきたのだとあざわらっているようだ。
曽根崎はそれを見て、どこまでも救いようのない馬鹿息子だとあきれ返った。
二人の大学教授は、自分たちのことを、酒井と栗林とだけ名乗った。
「では早速、一つ目の料理と紅茶です。」
ウェイターの木島が入ってきて、三人の審査員と瀬川と曽根崎にサービスをはじめた。あとで、それぞれのシェフにも食べてもらいたいと、後二人分が用意してあるという。
「一つ目は、イギリスの定番料理、ローストビーフのグレービーソースがけ、ジャガイモと季節の野菜添えでございます。紅茶は、ダージリンのロイヤルミルクティーでございます。」
大きな肉の塊を木島が丁寧に1枚ずつ切り分け、グレービーソースをかけていく。
なんか、もう出てきた時点で疑う余地はなかった。これは、瀬川が連れてきた、一流シェフの作品に違いなかった。それも、かなりのレベルだ。
曽根崎は、一口食べて驚いた。火の通り加減といい、絶妙なソースといい、最高の仕上がりだ。
ビーフの肉汁を、ボルドーのクラレットでじっくり煮詰め、、そこに良質の野菜のブイヨンをゆっくり伸ばして作った、グレービーソースが本当にうまい。沖蔵会長も、うまいうまいとどんどん食べ、小声で言った。
「曽根崎君、呼んでくれてありがとう。このソースは格別だ、隠し味に、フォアグラとアミガサダケが入ってるぞ。しかも手際が良く、雑味がない。」
この間の冷凍ポテトとは比べ物にならない、かりっとしてホクホクのポテト、もちろん、添えてある彩り鮮やかな野菜で、栄養のバランスもよく考えてある。そして、香りの高いダージリンのミルクティーだ。
「うん? 香りは抜群だが、なんかバランスが悪いような。なぜだ?」
曽根崎は、ちょっと首を傾げ、ティーカップを置いた。
天山大学の酒井と栗林も、無言で食べている。こりゃ、うまい。この間の料理とは月とスッポン、瀬川も張り込んだな、どれだけ高い金出して、凄い替え玉シェフを呼んだものだか。だが、不思議だった。なぜかウタポンが負ける気はまったくしない。なぜだろう。
みんなが一通り食べ終わると、木島が次の料理を持って、入ってきた。
「次は、イギリスの家庭料理、シェパーズパイでございます。紅茶は、天山ミルクティーでございます。」
料理の名前だけ聞いて、瀬川が早くも鼻で笑っている。
きっと、家庭料理なんかをよく作って来たなとか、天山のミルクティーだと、そんなブランドなんかあるわけないとか、せせら笑っているんだろな。
シェパーズパイとは、パイ皮を使わないパイ、つぶしたジャガイモを、パイ生地として使う、ヒツジやビーフで作るシンプルなミートパイだ。
「ウタポンのことだから、複雑なハーブでも調合してるのかな…。おや、これは?」
特に特別な味付けはなかった。ベーシックでシンプルなシェパーズパイだ。
だが、それだけに素材の味が生きている、生かし合っている。
「いやあ、こっちもうまいぞ、曽根崎君。素材が響きあってるな。」
沖蔵会長は、またうまい、うまいとどんどん食べる。朝露農園の無農薬有機野菜、それも旬の夏野菜がたっぷりビーフに絡んでいて、いろんな味、食感が楽しめる。牛肉もしつこくなくて、おなかに持たれるような感じが少しもない。何よりミートを包むポテトがうまい。焼き目もちょうどいい感じだ。
そして、ミルクティーが俄然うまい。香りもなかなかだが、ミルクの味が濃厚なのに、飲み口がさっぱりしていて、後味に雑味がまったくない。そして、さらに言うなら、料理との相性もよく、全体として非常にバランスがいい…。
あっという間に、みんな完食した。
瀬川がゆっくり立ち上がり、三人の審査員に、カードを渡した。
「今、審査員の先生方に、一番と二番の数字を書いたカードを配らせて貰いました。今、二人のシェフを呼びますので、目の前でどちらかのカードを出してもらいましょう。」
右手に包帯を巻いた浜田とウタポンこと有栖川うたが神妙な顔をして入ってきた。
「今回は、まことに残念なことに、どちらの料理が本人のものかわからないようになっておりますのでどんな素材を使って、どのように作ったかは、投票のあとに回します。皆さんの舌だけを信じてカードをお出しください。」
「その前にいいですか、浜田シェフは右手に包帯を巻いているようですが…。」
曽根崎がしゃべり始めると、それを打ち消すように瀬川がまくしたてた。
「はい、ここに医者の診断書があります。彼は働き過ぎで、腱鞘炎と診断されました。それで、手伝いを一人雇いましたが、それは正当な行為であります。これでよろしいですね。」
まったく思った通りの強引な奴だ。曽根崎は返事もしなかった。
「では、審査員の皆様、カードをお出しください。」
だが、予想もしない結果がそこに出た。大学教授の酒井は一番、沖蔵会長は二番だったが、真ん中に座っている栗林は、カードを出さなかったのだ。
「栗林先生、どうしました、早くお出しください。」
すると、栗林は、一番と二番の両方のカードを出して、静かに言った。
「どちらも、とてもおいしかった。今日は引き分けにしましょう。いかがですか。」
それは、栗林教授なりの思いやりだったかもしれない。そうか、引き分けか、こういう方法もあった。曽根崎は、これでよしとしようと思って、瀬川の方を見た。
だが、瀬川は視線を合わせることもなく、表情は硬かった。
「ありえない、ありえないんです。引き分けになんかなるはずはないんです。」
そりゃそうだろうよ、偽の診断書まで用意して、一流のシェフまで呼んでおいて、勝てなかったとなると、こりゃたいへんだ。でも、下手なことを言うと嘘っぱちがばれるので、瀬川も本音は言えないはず。面白いからもう少しみてやろう。
「栗林教授、その、もう少し説明していただけませんか? 一番の料理のどこが悪かったんですか。」
「いや、料理は完璧でした。こんなおいしいローストビーフは食べたことがない。」
「では、なぜですか?」
「いや、それが、紅茶が…その…さっぱり感がないというか、二番と比べると、、飲んだ後にミルク臭さが残って気になるというか…。」
「そんなはずはありません。いつも皆さんが飲んでいるのと同じ、ミルクの入れ方ですよ。」
瀬川が強く否定したが、今度は酒井教授までが話しはじめた。
「一番の紅茶は、たぶん、いつもよりおいしかったかもしれん。ところが天山ミルクティーの方はミルクの味が濃いのにさっぱりして、初めて飲むような驚きがあった。比べてしまうと、一番は、雑味が気になったような…。」
すると、瀬川が立ち上がり、怒鳴り始めた。二人の教授も目を丸くして驚いた。
「一番の紅茶に使ったミルクは、私が北海道から取寄せた乳脂肪分の高い、最高級の牛乳ですよ。いれ方だって、沸騰するほどの熱いお湯で、ダージリンを入れて、そのあとに冷めないように温めた牛乳を適度に加えた。どこでもやっている方法ですよ。それにケチをつけるんですか、おかしくないですか。」
栗林教授が、なんとかおさめようとしたが、こうなると瀬川は止まらない。
「一番より二番のほうが良いですって? そんなはずはありません。、そんな天山紅茶なんて偽物じゃない、こっちは最高級のダージリンですよ。だれか、理論的に説明できる人がいれば、説明してください。誰でも構いませんよ。」
みんな、静まり返って顔を見合わせた。すると沖蔵会長が、手を上げた。
「二番の紅茶を入れたシェフ、どんなミルクをどんないれ方でいれたのか話してください。」
すると、ウタポンが進み出て、しゃべり出した。
「山の上の源太さんの牧場に行って、味の濃い母牛の初乳を頂いて、それを低温殺菌して、使いました。最初にミルクをティーカップに適量入れて、そこに熱い紅茶を注ぎました。」
「初乳をもらってきて使った? なるほどね、そんな卑怯な手を使ったのか。初乳なんて牧場関係者でもなければ手に入らない。ははは、わかりましたよ、卑怯なその手口がね。」
すると、沖蔵会長がきっぱり言った。
「瀬川さん、そこじゃないよ。いいかい、牛乳というのは、衛生的な問題から、必ず殺菌してから食卓に運ばれる。でも、七十五度以上に加熱すると、タンパク質が変性して、雑味がどうしても出てしまうんだ。普通に売っている牛乳はみな百数十度ですでに殺菌済みだ。わざわざ牧場の牛乳をもらってきても七十五度以上に加熱すると、市販の牛乳と変わらない雑味がでてしまう。だから彼女は味をそこなわない、低温殺菌にこだわった。しかも熱い紅茶にそのまま入れると、やはり七十五度以上に加熱されてしまうので、先にミルクを入れてその上から紅茶を注いだのだ。すると、ミルクが七十五度以上にならず、適温の温度でさっぱりと飲めるわけだ。」
すると、酒井教授もポンと手を打って、納得した。
「なるほどね、沖蔵さんの説明は筋が通っている。そういうわけか。だから、初めて飲むようなさっぱり感があったわけだ。いやあ勉強になりました。」
「だとしても、こっちは由緒正しい、最高級の茶葉だぞ。そんな天山なんて嘘っぱちな茶葉に軍配を上げるなんて、みなさんどうかしていますよ。有栖川君と言ったね、いったいどこでその茶葉を仕込んできたんだい。そんな嘘っぱちの茶葉なんて存在しないよね。」
すると、ウタポンは自信たっぷりに続けた
「朝露農園の入り口にある、お茶の新芽を自分で積んで、紅茶にしました。あそこの茶葉は有機肥料と相性がいいらしくて、とっても生育がいいんです。ここで採れたので天山という名前にしました。」
すると、瀬川は馬鹿にしたように笑い出した。
「ほうら、もう、メッキが剥げてきた。いいかい、今飲んだのは紅茶、農園の入り口にあるのは緑茶、全然別のものだよ。まあよくも、そんなばかげた言い訳ができたもんだ。」
ところが、あきれて顔を見合わせたのは、酒井教授と栗林教授だった。
「瀬川君、言いたくはないんだが、緑茶も、ウーロン茶も紅茶も、すべて、元々は同じ茶の葉からつくっているんだ。細かい品種改良はもちろんあるが、元は同じ茶だよ。だから、農園の茶葉からでも、紅茶は作れる。そんなことは誰でも知っていると思ったが…。」
「わかりました。では、今日はそういうことにしましょう。でもですね、私が言っているのは、イギリスの植民地だったインドのダージリンで栽培されたお茶を言ってるんです。中国や日本の安いお茶とは違うんです。」
すると、ため息をつきながら、沖蔵会長が言った。
「当時、お茶の原産国である中国は、真っ白な磁器や絹の採れる養蚕、そして、加工したお茶の葉が、何を原料にして、どうやって製造するか門外不出として、貿易を有利に進めていた。そこで、困ったイギリスのプラントハンターが、中国に侵入し、奪ってきた苗木がインドのお茶の元じゃ。だから、もう一度言うが、みんなもとは同じで、どっちが、上で、どっちが下だということもないのだ。」
やさしく言って聞かせても、もうだめだ、瀬川は駄々っ子状態だ。
「いいですか? そもそも、イギリスの紅茶の歴史は二百年、紅茶を飲み始めて数十年の日本とは伝統と文化が違うのです。それを一緒にしないで下さい。ばかばかしい。」
沖蔵会長は首を横に振った。
「これで最後にするが…。イギリスでは産業革命の時代に、糖分がとれて仕事の能率が上がるということで、お茶が一般の人々に広まったが、そもそもお茶の文化は、オランダからきたものだった。さらにオランダ人が茶会の文化を学んだのは、さらにずっと昔、十五世紀の長崎の平戸、日本の茶の文化がもとになっておる…つまり…」
「わかりました。もう結構です。どうもあなたと私では、歴史の解釈が異なるようですね。だいたい、あなたはうちの店に難癖をつけてきた曽根崎さんがつれてきた審査員だ。うちの店の悪口を言いに来た、それも肩書も何もないただの老人にすぎない。これでは全く、お話になりません。しばらく黙っていてください。」
まあ、よくも失礼なことを言えたものだ。沖蔵の本当の肩書を知ったら、腰を抜かすぞ。頭にきた曽根崎が、そこでやっと口を開いた。
「では、瀬川さんは、審査員による引き分けの裁定を受け入れないというのですか。」
「当たり前です。栗林先生は先ほど言いましたよね。こんなおいしいローストビーフは食べたことはないと。そうなんです、料理は完璧です。そして、茶葉も最高だ。しかも敵は初乳などという卑怯な手を使ってきた。どこが引き分けです。」
もう、酒井教授も栗林教授も、瀬川を応援しようという気持ちは一かけらもないようだった。こんな男の味方をしていたのかという不信感が、そのまなざしに浮かんでいた。だれもしゃべらず、気まずい沈黙があたりを覆った。
その時、音楽が静かになり始め、庭のガーデニングで水が踊り始めた。
酒井教授がぽつりと言った。
「ほう、今日は珍しい、チャイコフスキーだね?」
瀬川はむすっとして席を離れ、ぼそっと言った。
「興奮してすみませんでした。ちょっと座をはずします。すぐに戻ってきます。」
そして、部屋から不機嫌そうに去って行った。瀬川のいなくなったローズキャッスルで、華やかなショータイムが始まった。
「あら、本当にチャイコフスキーの大序曲一八一二年をかけてくれたみたいね。」
紫門夕子は、何気なしに庭の方からローズキャッスルの方に近付いて行った。
チャイコフスキーの中でも、ナポレオン軍とロシア軍の攻防を扱った勇壮な曲で、大音響、大迫力の交響曲だ。なんであの日だけ、この曲だったのだろう。バラの花は、春の咲き頃を終え、今は白い大きなユリ、カサブランカが咲き誇っていた。ちょうど、朝田がいなくなった半年前、球根を植えていた覚えがあった。もう、半年たつのか、あの球根がもう、こんな見事が花を咲かせた。やがて、曲が終わりに近づき、水が収まってきた。カサブランカに近付き、思いにひたる夕子だった。
「…あら、これは何かしら…。」
カサブランカの茎で、何か小さなものが光っていた。
「まさか…、そ、そんな…。」
それが何かを知った時、その途端、つま先から頭のてっぺんまで熱い思いが、衝撃が走った。最初は、それが何かわかっても、どうしてここにあるのか、理由も何もわからなかった。頭の中が真っ白になった。でも、そのうち、ある可能性が夕子の頭の中を駆け巡った。この、見落としそうな小さなものがすべての真相を物語っているのでは? 震える体、ドキドキと高鳴る心臓、記憶の糸を手繰って、一番の可能性とつなぎ、そして、もう一度カサブランカの茎に光る小さなそのものを見つめた…。一瞬、気が遠くなり、すべてが遠ざかって行った。そして、こみ上げる涙が滝のように押し寄せた。
「もう、泣かない、泣かないって決めたのに…。」
そう言うと、紫門夕子はその場を走って離れ、ローズキャッスルの裏で携帯を取り出した。
「…もしもし、あの、白峰刑事さん? 紫門夕子です。あの…真犯人がわかりました。すぐ来てください。お願いします。」
「え、犯人が分かった? いったい誰です。」
「ええ、今ローズガーデンのカサブランカの花壇の前で、証拠の品を見つけたんです。間違いありません、犯人は…。それは…、あ、ぐ、苦しい、なにをするんです? やめてください…ああ…。」
犯人のことを言おうとした途端、誰かが後ろから口を押え、襲い掛かってきた。
携帯は地面に落ち、通話は途中で切れた。
「夕子さん、夕子さん…。柴田、丸さん、犯人がついに夕子さんを襲ったわ。急いで、朝露農園に行くわ。大至急よ。さっきの打ち合わせ通り、いくわよ。全員集合よ!」
音楽がおわって、少ししてから、瀬川が、急に帰ってきた。見たことのない男を連れている。
「さあ、二階堂さん、こっちです。」
曽根崎が質問した。
「どなたですか、その方は? 何の目的で…。」
「し、黙って…。」
「瀬川さん!」
「うるさい、黙ってろというのがわからないのか。…すぐに理由がわかるから、黙って見ていろ!」
みんな、あきれてものも言えない。瀬川は、むりやりその男を座らせると、一番と二番の料理をその前に並べた。
「少し冷めましたが、ぜひ、お召し上がりください。」
男はみんなの冷たい視線を感じながら、自己紹介をした。
「突然お邪魔してすみません。腱鞘炎の浜田シェフの手伝いに来ております、老いぼれの料理人で二階堂と申します。」
「さ、どうぞ、早く二つの料理の味見をしてください。…いいですか、みなさん、この二階堂シェフは、イギリス、フランス、両国の食文化に造詣が深く、特にビクトリア王朝時代の料理ではほかに並ぶものがいないという、凄い方なんだ。」
曽根崎が追求した。
「そんな重鎮が、あの浜田シェフのお手伝いですか…。」
「だから、黙ってくださいと言ってるだろう。あんたもしつこいね。」
へたなことを言うと、墓穴を掘りそうになるから、今度は黙ってろか? 子どもじゃないんだから…。
二階堂シェフは、ローストビーフとダージリンの味見をすると、今度は二番の料理と、紅茶にかかった。
「ほう、これは…?」
「どうです。わかりましたか。」
「わかりました。」
二階堂シェフは笑いながら答えた。
すると、瀬川は突然勝ち誇ったようにほくそ笑み、立ち上がってみんなを見渡した。
「先ほどは失礼いたしました。実は、このような引き分け裁定になることは、十分私は予想していたのです。」
この男は、また、何を言い出すのだろう?
「それで、引き分けになった時のために、この日本を代表するイギリス料理の重鎮にお手伝いに来ていただいたのです。」
ああん? 言うに困ってとんでもない理屈を考え出したもんだ。
曽根崎は、一応確認してみた。
「その重鎮が、先ほどのローストビーフを作ったんですか?」
すると瀬川は顔を真っ赤にしていった。
「うるさい、なんて失礼なことをいうんだ。浜田シェフに謝りたまえ。礼儀を知らぬ馬鹿者が!」
浜田シェフは黙ってうつむいていた。やっぱりそういうことらしい。
「つまり、二階堂シェフは言っててみれば、こういう時のために用意された4番目の審査員なのです。そして、彼にはそれだけの実力と見識があるのだ、。では二階堂シェフ、裁定をお願いします。」
おいおい、なんて強引な、そりゃ、自分の料理を悪く裁定するはずがないだろうに…。酒井、栗林の両教授もざわざわし始めた。曽根崎が、手を挙げた。
「料理に関係していた人が審査員ではおかしいでしょう。」
でもまたそれを遮るように瀬川は吠えた。
「ローストビーフは浜田の料理です。曽根崎さん、静かにできないなら、この部屋を出て行ってもらいますよ。さあ、二階堂シェフ、裁定をお願いします。」
「わかりました。」
二階堂は立ち上がって大きくうなずいた。
「私は、ローストビーフの手伝いをやらせていただいて、なかなか今日はうまくできたと思いました。この料理に互角以上に立ち向かうう料理とはどのようなものか疑問もありました。でも今、はっきりいたしました。」
みんなごくりと唾を飲んだ。
「この勝負、二番のシェパーズパイと天山ミルクティーの勝ちです。」
自分の勝利を信じてほくそ笑んでいた瀬川の顔が引きつった。
「え、ありえない…、あ、そうか、もしかして、この女がかわいそうだと、情にほだされたんじゃないでしょうね。あなたほどの方が、つまらない感情に押し流されたりしたんじゃ…。」
すると二階堂シェフは困った顔で話しはじめた。
「でも、瀬川君、味にうそはつけない…。私は、瀬川さんのお父さんの古い知り合いで、このお店がたちの悪いマスコミやくざにゆすられていると聞いて、駆け付けた次第です。隠していてもしょうがありません。ローストビーフを作ったのは私です。浜田シェフは、それこそ紅茶を入れたに過ぎない。本当のことは話しました。その上でもう一度言います。私の負けです。」
すると、それを聞いた途端、ガタンと音がしてウタポンがよろめいた。二階堂シェフのやさしい言葉に、緊張の糸がほぐれたのか。
「さて、今日のローストビーフは、皆さんもご存じのとおり、肉を焼いて、肉汁を赤ワインで煮詰め、野菜のブイヨンで、煮詰め、私が店から持ってきた隠し味のフォアグラとアミガサダケを使い仕上げたもので、運よくほぼ完ぺきな仕上がりになりました。なぜ運よくかというと、出来上がるまでどんな味になるかわからなかったからです。
「あなたほどの人が何を言い出すんです。」
「有栖川さんとやら、それを解くカギは、あなたの食材に在ります。ご説明いただけますか?」
すると、ウタポンは、静かに話しはじめた。
「実は、源太さんの山の牧場に行った時、源太さんからお話を聞いたんです。いなくなった朝田さんが、酪農や肉牛もやろうって進めてくれたって。この天山の付近だけで、主な食材が一通りそろえば、それこそ、地産地消でエコだし、それらの食材を組み合わせて付加価値を付ければ、農業でもきっと利益が上がって、みんなのためになるって…。朝田さんは本当に大きな人でずーっと先の先まで考えていたんだなあって。だから、野菜はすべて朝露農園の無農薬有機野菜、乳製品や肉牛は源太さんの牧場で用意しました。特に肉牛は、山の牧草だけで育てられた、赤身の肉のおいしい牛です。その流れで、紅茶も茶畑で摘んで作ってみたんです。」
「それだけじゃないだろう。ウタポン君。」
沖蔵会長が指摘すると、二階堂シェフも沖蔵会長を、にこっと見つめて言った。
「…そうなんだ、ここの紅茶は水道水で入れてあったが、君の使っていた水はいったいなんだね?」
「朝露農園の深井戸の水です。そこで飲んだ麦茶があまりにおいしかったので、紅茶はもちろん、料理のあらゆる水は、深井戸の水を使いました。」
「私のために、瀬川君が用意した食材は、肉は、和牛の最上級のもの、野菜はヨーロッパから空輸されて来たもの、牛乳は北海道産、ワインはボルドーの一級、そして、水は水道水だ。もちろん私がいつも使っている食材と違うし、しかも一回勝負である程度のところまでまとめなければならない。つまり私は、それぞれのまったく性格の違う食材の機嫌をうかがいながら、料理をし、運よく、あるレベルまで行けたに過ぎない。だから紅茶とのバランスも悪く、全体としてのまとまりに欠ける味だった。それぞれの素材の味を十二分に生かした彼女の料理に、百パーセント地元の味に、私は負けたのだ。」
なるほど、そういうことだったのか…。
それを聞いていた瀬川は、唖然として、椅子に座りこんだ。浜田が作ったという自分の嘘っぱちもバレバレになり、用意した最高の食材のはずが裏目に出てしまったのだ。
彼の自信もプライドも、すべて木端微塵だった。
「ところが、彼女は、その朝田さんの考えに基づいて、すべてを水のレベルからこの土地の人々の思いを、料理という一つの形にまとめあげたんじゃ。だから、素材の個性が響きあい、癖がなく、豊かな気持ちになる料理ができた。紅茶とのバランスもいいはずだ。同じ、大地の送りものなのだから…。」
すると、二階堂シェフは、ウタポンに近付いて、やさしく肩に手をおいた。
「材料選びから、料理対決まで、休む間もなかったろう。でも、君の頑張りは、本当においしかった。君の素材に対するこだわりが、人々の思いを結び付けたんだね。私は料理に関する仕事についていて本当に良かったと、今、また、思った。だからあなたにもお礼を言いたい。ありがとう。」
「…こちらこそ、ありがとうございました。」
大学教授からいつの間にか、拍手がなりだした。木島も浜田も、拍手していた。曽根崎がみんなに言った。
「瀬川さんには、いろいろ誤解もあって、料理勝負となりましたが、もちろんこの店に対する中傷の事実も全くないし、記事自体書いてないし、お金を要求した事実もございません。私どもといたしましては、もちろん、これからもこのお店に迷惑をかける気もさらさらありません。これで、すべてなかったことにして、終わりにしたいのですが、いかがでしょうか。」
すると瀬川は言った。
「みなさんは、私を常識知らず、礼儀知らずのうそつき野郎と思っているんでしょうね。」
「…瀬川さん…。」
曽根崎が声をかけたが、瀬川にさっきまでの勢いはまったくなかった。
「味に嘘はつけない…。その通りですよね。私は、何を勘違いしていたんだかね。ええ、もう終わりにしましょ。今日は、どうもお騒がせいたしました。」
瀬川が抜け殻のようになって部屋を出て行こうとしたとき、店の玄関が開いて、一人の紳士が入ってきた。
「瀬川さん、お聞きしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか。」
「あなたは、いったいどなたですか?」
「失礼いたしました。天山署の捜査一係の丸亀と申します。刑事です。」
外に出ると、丸亀は携帯を取り出した。
「瀬川を確保しました。事務所の従業員を事務所から連れてきてください。」
ほどなく、朝露農園の従業員、力石萌、坂本チーフ、そして源太さんが白峰流石刑事に連れられて、やってきた。
丸亀は、瀬川を引き渡すと、
「じゃあ、若いの連れて、行ってきます。」
そういって、農園の奥へと走って行った。
「それじゃあ、すみません。みなさんしばらくの間、そこにお座りください。」
そこはローズキャッスルの中庭、イギリス風のよく手入れされた庭園だ。
咲き誇る美しい花々、その前に設置された二つのベンチに、みんなは云われるままに座った。噴水が優雅にすいてきをきらめかせ、すずやかな風が吹いてくる。こんな場所でいったい何をしようというのだ。
「私は天山署の捜査一係、白峰流石刑事です。先ほど、犯人が分かったと電話をくれた紫門夕子さんが、電話の向こうで誰かに襲われ、姿を消しました。そこで、すぐにこちらに電話をかけ、力石萌さんに頼んで、誰も逃げたりしないように、集合をかけたわけです。」
それで、みんなここに全員集合となったらしい。
「最後に夕子さんに会っていたのは、力石さんですよね。」
「はい、木島さんというウェイターの方が、朝田さんが失踪する日にかかっていたチャイコフスキーの曲を、ガーデニングショーの時にかけてくれるって言っていたんです。とても派手な曲で、クライマックスで大砲が鳴ったりするんですが、今日、本当にかかったんです。夕子さんは、その曲が聞こえると、ちょっと行ってくると言って、ローズキャッスルに出かけ、そこで襲われたらしいんです。」
「なるほどねえ、そういうわけか。」
流石は今度は、坂本チーフに向かって、質問をした。
「つかぬことを聞きますが、この美しいガーデニングの世話をしてらしたのは、坂本チーフなんですか?」
「実は、ローズキャッスルをここに招聘したのがぼくだった関係で、まあ、大した知識は無いんですが、いろいろ調べて、球根植えたり、バラの世話をしたり、堆肥を巻いたり、ガーデニングの世話は、私が一人でやらしてもらってます。」
「へえ、ひとりでねえ。凄いですね。」
流石は、美しく咲き誇る花を眺めて感心した。
でも、坂本チーフはブツブツ言いだした。
「姿を消した紫門さんをみんなで探しに行ったほうがいいんじゃないですか。こんなところにみんなを集めている時間がもったいないんじゃないですか。こうしている間にも、夕子さんの命が危ないような気がして…。」
すると力石萌も、同調した。
「突然電話が入って、全員事務所で待機って言っていましたけど。それより、早く夕子さんを探した方が。」
すると、流石はきっぱり言った。
「それがね、今度の犯人は頭のいい人でね、へたに自由時間を与えると、簡単に証拠隠滅や逃亡を行いそうだから、動けないように集まってもらったわけ。探すのは警察に任せてね。今、腕利きがちゃんと捜索しているから。」
すると坂本チーフが目を丸くした。
「ええ、するとここに集まった中に真犯人がいるんですか?」
「さあ、それはどうかしら? もうすぐわかるわ。」
「さあ、どうかしらって、じゃあ逆に、まさか、紫門夕子さんが真犯人の可能性があるってことですか。まあ、この場にいないんだから…なんとも言えませんけれど…。」
流石は、それには答えないで、みんなを見て、ニヤッと笑った。
息の詰まるような沈黙が続き、しばらくして丸亀から連絡が入った。
「こちらの推測通りでした。あの物置小屋から、夕子さんが見つかりました。ただ、薬品か何かで眠らされていて、犯人のことは聞けない状態だそうです。」
「本当ですか。よかった。すぐ行きましょう。」
駆けつけようとする坂本を流石が止めた。
「だから、ここから離れてはいけないんです。犯人は逃げたくて、うずうずしているんですから。」
すると瀬川が不機嫌そうに言った。
「刑事さん、それはおかしいんじゃないですか。私はもちろん違うけど、犯人が夕子さんを襲ったなら、まじめに事務所やここに集まったりしないで、とっくに逃げていると思うけど…。」
すると源太も
「そうだよな、俺が犯人だったら、集まれって言われて、のこのこここに集まったりしないよな。どういうことなんだ。」
すると、流石は、ニヤッと笑った。
「犯人には、逃げられない理由があるのよ。とっとと逃げないで、この土地に執着するわけがね。もうすぐわかるわ。」
逃げられない理由とはなんなのだろう。バラのツルが茂り、美しい花が咲き誇るこのガーデニングの前になぜみんな座らされているのだろう。
やがて、柴田から電話が入った。
「先輩の推理の通りでした。犯人の動きをおさえているうちに、やっと裏が取れました。」
「了解しました。じゃあ、朝田さんから来ていただいて。」
え、朝田さん? みんなは顔を見合わせた。すると朝露農園の方から、聞きなれた音が聞こえてきた。誰かが自転車に乗って、近付いてきた。それは、着古したオーガニックコットンのつなぎの作業服、ゴーグルとヘルメット、朝田か? みんな鳥肌が立ったのだった。、
朝田はガーデニングの隅で自転車を停めた。みんな息を止めて見守っていた。
朝田は、あの音のする自転車を降りると、ゴーグルとヘルメットを取った。
「け、刑事さん!」
それは、柴田刑事だった。
「あの日、大学の親友に会いに行こうとしていた朝田さんは、もちろん自転車に乗るつもりも、駅方向に向かうつもりもなかった。でもそれを知らない犯人は、朝田が失踪したように見せかけるため、自分でつなぎを着て、ゴーグルとヘルメットを付けて駅まで走って見せた。衣装やヘルメットを同じにして自転車に乗って走っていたら、誰も見破れないでしょうね。」
源太が聞いた。
「ってことはどういうことなんだ?」
「あの日、朝田さんは農園を出ていなかったんです。」
力石萌が驚いた。
「だってあれだけ探して見つからなかったのに、どういうこと。」
「犯人は、巧妙な方法で、朝田さんを殺して、死体を隠したのよ。」
すると、坂本チーフが不思議がった。
「だって、あの日はみんな持ち場で働いていたから、死体を埋めたりしたら、気づかれますよ。僕は水車小屋で堆肥の処理をしていたし、みんなだって、天気が良かったから畑作業をしていた。じゃあ、なんですか、朝田は畑に埋められていたとでも…。」
「ある意味その通りです。」
「ま、まさか…。」
力石萌が顔を押さえた。
すると、遠くから、丸亀が叫んだ。
「見つかりましたよ。あの黒いウサギの印の下にやはり埋まっていました。」
力石が真っ青な顔になった。
「まさか…死体が…。」
「よくみて下さい、死体じゃありませんよ。」
丸亀が運んできたのは、古い大きなトランクだった。汚れないようビニールに包んで、埋まっていたという。
「これが、犯人が、簡単に逃げ出せなかった理由です。さあ、これでこちらの捜査もひと段落しました。それではここに皆さんに集まってもらった理由を教えましょう。ここには、もう一人の証言者がいるからです。」
「証言者?」
みんな顔をを見合わせた。他に誰もいるはずもなかった。
そこで流石は、咲き誇るカサブランカの前に立ち、瀬川を呼んだ。
「瀬川さん、このカサブランカの茎にはまっている物に心当たりがありますか。」
「え、なんですか、金属のワッカみたいなものがはまってますね。え? ありえない。こんな小さなワッカは、どうやっても、茎にはめようとしたら、花や根っこ、もちろん葉っぱも引っかかりますから、はめられませんよ。あ、そうか、この花が球根のうちにはめれば…こうなりますね。もちろん心当たりなどないですよ。誰かのたちの悪いいたずらですか。」
「では、もう一度瀬川さんに確認します。瀬川さんはこの金属の輪が、何なのか、自分のところの花壇にある理由も、その意図もわからない、それでまちがいないですね。」
「まちがいない。私は全く見覚えもありません。」
すると、流石が、身長に話し出した。
「この銀のワッカは指輪です。それも、失踪の日の前日に朝田さんと紫門夕子さんが取り交わした、結婚指輪なんです。よく見ると、ちゃんとイニシャルも確認できます。朝田の名前も読み取れます…。」
みんなの顔が驚きに変わった。
瀬川がつぶやいた。
「でも、もちろん、本人がこんなところに交換したばかりの指輪を落とすとも思えないし、犯人がわざとこんなことするわけないし、なんでこんな場所に指輪が…。」
「犯人は指輪を見落としたんです。失踪の後、ここにまかれた堆肥の中に、この指輪が混じっていたら、こんなカサブランカができたと考えられませんか?」
「堆肥って、まさか…朝田さんは、堆肥にされてしまったんですか」
力石萌が大きく首を振った。
「朝田さんを水車小屋に呼び出し、生ごみも分解してしまう堆肥製造装置に突き落としましたね。坂本チーフ!」
「その指輪、偶然ここで落としたかもしれないじゃないですか。そんな推測だけで変なことをいわないでくださいよ。」
「なぜか、あなたは堆肥作りや水車小屋の仕事をいつも一人で独占していたんですよね。さっきも、ここの堆肥は自分がやったと自慢していましたよね。」
「ええっと、私ばかりじゃないんですよ、例えば…。」
坂本チーフは言い訳をいいながら、、突然つなぎのポケットに手を突っ込んだ。そして、隣にいた力石萌を自分の方に引き寄せた。ポケットから出てきたのは、まさかのピストルだった。
「みなさん、動かないで。大きな声を出したら、引き金を引きますよ。」
坂本は、ピストルを見えないように力石萌の脇の下に突き付けた。そして自分と人質はベンチの向かい側の噴水に腰かけた。
「動かないで全員ベンチに座ってください。いやあ、助かりましたよ。そのトランク大きすぎて、すぐ掘り出せないし、どうしたもんかと思っていたら、、掘り出してもらえて、助かりましたよ。すぐ、逃亡用の車を用意してください。あのトランクをもって、姿を消しますから。言っておくけど、このピストルは、朝田を殺したピストルですよ。本物です。彼女が危ないと思ったら、すぐにこちらの指示に従ってください。」
柴田が、携帯で連絡を取った。
「あと、七、八分で、車が用意できます。」
「みなさん、一ミリも動かないでください。怪しいことをすると、すぐ撃ちます。なあに七、八分の我慢です。すぐおさらばですよ。」
源太が聞いた。
「朝田さんはピストルで殺されたって、誰も銃声を聞いてないだろう。その拳銃は本物なのか?」
「その日は、頼んでローズキャッスルでショーの時にかけてもらう曲を変更してもらったのさ。大砲の鳴るチャイコフスキーの曲、大序曲一八一二年のクライマックス部分にね。そして、私は大砲のなる瞬間を狙い、曲に合わせてピストルを撃った。それだけだ。朝田は、俺がトレジャーカイザーを利用して、殺人を計画していることをきづいて、密告しようとしなければよかったのにな。だいたい、作業服も自然に戻る素材だから、携帯だけ取り外して、そのまま堆肥製造マシーンにかけたのさ。数日間で、きれいな堆肥に変わったよ。それが、指輪をはめていたなんて思わなかった。ましてや、こんなかたちで発見されるなんてね。あの日俺が頼んだチャイコフスキーが突然鳴りだすからあわててここに来てみたら、携帯で紫門が犯人を言おうとしていたわけさ。こんな指輪の一つで、五年間も我慢していた、俺の計画がすべてダメになるところだった。」
柴田が、坂本に尋ねた。
「ネットを使って殺害された高橋と、たぶんハイキングコースで去年殺された三石は、なぜ殺されなければならなかったんだ。」
「…実は俺たちネットのトレジャー協議で意気投合してね。この三人がそろえば、なんでもできるって思ってさ、ためしにピストルをネットで手に入れて、現金強盗を計画したら、面白いように五億円手に入っちまってさ。でも、下手に使うと捕まっちまう、番号が控えられているお札だとわかり、五年間寝かせて、その後、香港ルートで、マネーロンダリングすることになった。俺は五年間目立たないように、身分を隠してこの朝露農園に転がり込んだわけだ。ここはトランクを隠すのも都合がよくてね。ところが、もうすぐ五年という時に、分け前のことで言い争いになってね。そこでトランクを埋める前に少し拝借しておいた金を使って、、自分がスポンサーになり、トレジャーカイザーを利用して、二人を事故死させた。」
柴田が言葉をつづけた。
「金のために仲間を殺すなんて…。じゃあ、おまえがコクトで間違えないんだな。」
「ああ、そうさ。コクトはその時のトレジャーネームだ。喫茶店の名前から取ったんだがね。おとなしそうなウサギだけど、闇を秘めているという意味さ黒兎さ。ハハハハ。」
すると、今度は流石が問いかけた。
「あんなにまじめな朝田さんをなんで巻き込んで殺したの?」
「あいつは、悪い奴じゃなかったけど、理想が高すぎてね。やつは自然農法とか、地産地消とか言って、楽な道を歩こうとしないのさ。だからこのあたりの土地を朝露農園のものにできた三年前ごろからは意見の食い違いも多くてね。だからおれが昔の遊び仲間の関係で瀬川の店を紹介した時も、奴は反対だった。俺は土地代が入って収入が安定するからって言ったのに、奴はずーっと反対でね。結局俺が押し切ったんだけど、それからはちぐはぐした関係になったんだ。しかも、奴はかしこくて、トレジャーカイザーの前後の日に俺がどこかに出かけるのを見逃さなかった。どうしても仕掛けや後始末があるんでね。」
「そんなことで殺したの? あなたが出ていけば、すむことじゃなかったの?」
「トランクを埋めたままじゃ出られないしね。ここまで、正体を隠してがまんしてきたのに、この状況で急に動き出してもすぐ目を付けられるから、チャンスをうかがっていたんだ。でも、どうやらあんたは俺が怪しいとうすうす気が付いていたようだな。警察が俺が犯人だと疑い出したのはいつなんだ。」
すると、流石がひとこと言った
「だってあなた、水車小屋でおぼれて死にかけたけど、もしも本当に川の柵に向かって通話していたらおかしいことがあったのよ。後ろから押されたって言ってたけど、そしたら、なんで、携帯が水にぬれたり、川に落ちたりしてないの? 凄く不自然だなって、あの時思ったのよ。」
「しまった、あのあたりから狙われていたのか? アリジゴクのおかげで、自分が疑われるかもしれないと思って、自分が襲われたように見せただけだったが。逆効果だったか…。苦労して、脅迫文書を書いたり、フォークが飛ぶ仕掛けを作ったり、捜査から逃れるために結構頑張ったんだけれどな。」
車が来るまでの間、坂本は今までの偽りの生活の憂さを晴らすようにしゃべりまくった。それからも、三井氏のハイキング殺人や高橋のビルの落下殺人のカラクリ、どうせわかることだろうからと、水車小屋の堆肥の山に隠された秘密などを明かしていった。
そのころローズキャッスルでは、みんな、帰り支度を始めていた。
中から外を見ると、みんなガーデニングのベンチに座り、日なたぼっこしているようにしか見えなかった。みんな集中して、坂本チーフの話を聞いているようだった。だが一人だけ、よそ見をして、きょろきょろしている人間がいた。そう、人の話をちゃんと聞けない、白峰流石だ。もう、自分と関係ないハイキング殺人事件のことなど、興味が続かないのだ。
「はい? 何か…。」
部屋の中にいるウェイターの木島と一瞬目があった。でも、下手に動くと力石が危ない。どうしたらいいのだろうか。とりあえず流石はウインクをしてみた。
「ええ? どういう?」
そして、噴水の方を指差して、指を振って見せた。
「ああ、噴水を何とかしろと?」
木島なりに考えてはみた。
ああ、わかってくれない? もう一度訳もなくウインクした。噴水のところにいるのが犯人だと知らせたかったが、どうしたらいいのか。これ以上動いたら、坂本が見逃さないだろう。でも、その動きは、限りなく怪しく、わけがわからなかった。
一番驚いたのは柴田だ。この死ぬか、生きるかの場面で、あやしい指の動きをしながらウインクしている人がいる…。柴田の理解を大きく超えていた。
「なるほど、わかりました。お待ちください。」
木島は、白峰の動きを見て、単に誤解したようだった。
「あの人も、結構いたずら好きなんだな。」
木島は、噴水のカラクリスイッチに手を伸ばした。
駐車場で自動車の音がした。逃亡用の車が到着したようだ。坂本は、勝ち誇り、トランクを受け取ると、噴水のへりから立ち上がった。その時だった。あの大迫力のチャイコフスキーの第序曲一八一二年が流れだした。
「え? な、なんだ?」
そして、間をおかず、オート噴水が、突然踊りだし、ものすごい勢いで噴き出したのだ。
坂本の、立ち上がって方向転換した横っ面に、思い切り噴水が直撃した。曲はどんどん盛り上がる。
「ぶわぁ!は」
一瞬視覚を失った坂本は力石萌をつかんでいた手を放してしまった。そこを柴田が見逃さなかった。音楽に合わせ、。体当たりを試みた。凄い勢いだ。ガタンと音がして、大きなトランクが、一人で敷石の上を走り出した。
「あ、五億円が!」
柴田ともみ合いになった坂本の手から、拳銃が下に落ちた。音楽に合わせて、力石が拳銃を拾われないように蹴っ飛ばした。くるくる回りながら石畳を滑って行く拳銃。その拳銃を取りに行こうと、柴田を突き放し走り出す坂本、そこに足を突き出して転ばせる流石!
「どけ、どくんだ。」
はいつくばりながらも、拳銃をつかもうとする右手を、瀬川が、ためらいもせず踏んずけた。その瞬間に大砲の音が鳴り響いた。
そして、後ろからやって来た丸亀が得意の合気柔術で取り押さえた。
みんな、気が付くと、降り注ぐ日差しと、鳴り響く音楽の中、びしょ濡れだった。
瀬川がみんなを見て大笑いをした。みんなも大笑いだった。
「でも、なんでタイミングよく、噴水が噴き出したんだ?」
柴田が辺りを見回した。流石が答えた。
「まあ、私が実力を発揮すれば、こんなもんね。」
柴田はまるっきりわからなかったが、だからこそ叫んだ。
「さすがです。先輩。」
坂本はそのまま天山署に連行された。
トランクの中には、、札束と、大粒のダイヤが五億円分詰まっていた。
水車小屋の堆肥の山の中に、アタッシュケースが埋めてあり、そこから盗まれたパソコンやトレジャーハントに使った携帯やグッズが出てきた。彼はしょっちゅうこの水車小屋に一人で来て、犯行計画をねったり、指令を出したりしていたらしい。
さらに、数日後、スタジアムの事件に関わったウェイターや謎の女も判明した。みんな芸人の大ファンで、本当に善意をうまく利用されたようだった…。
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