第2話 名もなき豆のスープ

 その日の夜、流石は裏道グルメ研究会の曽根崎に呼び出された。場所はいつもの無国籍料理の「地球屋」だったが、特別な例会なのだという。

 もうアイドル料理研究家のウタポンこと有栖川うたが店に来ていて楽しそうに話をしていた。

 今日はニュージーランド産のいい牡蠣が入ったということで、牡蠣のミルキーババロワ添え、牡蠣のコンソメ茶わん蒸し、五色のタレの特大牡蠣フライなどを囲み、爽やかな白ワインで盛り上がっていた。

「あら、流石ちゃん、素敵なバッグね。見せて見せて!」

「かわいいでしょ。でもね、ウタポン、このバッグのおかげで今日は大変だったのよ。」

 流石は、新しいバッグに変えたおかげで、忘れ物が多くてんてこ舞いしたことや、地図がうまく読めなくて迷子になったけど、笑う豚を見つけてお手柄だと言われたことを話し出した。タウン誌の編集長もしている曽根崎は、深くうなずいた。

「そりゃ、後輩の柴田君も大変だったな。この白峰流石に地図を読ませることは、事実上不可能だ。私も長い修行の末、やっと会得したのだ。」

 するとウタポンが興味深そうに聞いてきた。

「会得したって、どういうことですの。」

「もともと白峰は、刑事のくせに道に迷い、おいしそうな匂いに誘われて、この地球屋に迷いこんだ。それが腐れ縁の始まりだ。そこから、もうとんでもなかった。そして私が困ったのは、裏道グルメ研究会の例会の度に、こいつがとんでもない天然ぶりを発揮し、目的の店にたどり着けないという現実だった。」

「ああ、そういえば、最初の頃はそんなことが…。でも今は間違いなくちゃんと来てるよね。あのメールのおかげでね。」

 するとウタポンが意外な顔をした。

「え、メール? 私はいつも、曽根崎さんから略図のような地図を頂いて例会に来てるんですけれど、流石さんは違うんですの?」

「ふふ、ウタポンも天然だけれど、また方向性が異なるのだ。だから、君は普通の略図で目的地に行けるわけだ。ところが、流石は違う。行ってみれば、情報過多タイプだ。」

「情報過多タイプ?」

「もともと流石は、異常な暗記力や細かい観察力を持っているだろう、そこは刑事に向いているのさ。でも、その辺が鋭すぎて、地図や風景を見るだけで、俺らの何倍もの情報が流れ込んでくる。情報が多すぎて処理しきれないのさ。だから俺は、情報量の少ないメールを使うことを会得したわけだ。」

 するとウタポンは意外な顔をした。

「じゃあ、たとえば前回のナッツバーナツコで例会やったときは、どんなメールを送ったんですか? あの店、何十種類ものナッツを目の前で炒って出してくれていい店だったけれど、かなりわかりにくい場所にあったと思うんですけど。」

「ふふ、でも前回も流石はきちんと時間通りに来ただろ。こいつは、方角や距離は全く把握できない。いくつめの角を曲がるというのも、だいたい適当だ。第一、右と左をわかっていて間違うくらいだからな。ふふ、長年の私の苦労の末のメールをウタポンに見せてやってくれ。」

 すると流石が、前回のメールをウタポンに見せた。

「こ、これは…。」

 それはこんなメールだった。

「…駅前のタコヤキ屋の前を通ってまっすぐ行く。ワインの瓶が飾ってあるレストランの手前を右に曲がり一本目の電柱で左に入り、突き当りに在るハゲの親父のいるタバコ屋を見つけたら、その右に三軒目…。」

 なるほど、方角も、距離も、時間さえもない。

「流石の場合、目印のワインの瓶やハゲ頭などは、百パーセント見逃さない。それだけの観察力がある。だからこれだけの情報で来られるのだ。今回、笑う豚のイラストを見つけたのも偶然ではないだろう。でも、こいつと長年付き合うのは骨が折れることこの上ない。」

 すると白峰流石はトンカツのような特大のカキフライをほおばりながら頭を下げた。

「曽根崎師匠、そこまで修行を積まれていたとは。流石、感激いたしました。」

「うむ、くるしゅうない。気にすることはないぞよ。わしの修行の苦労をわかってくれればそれでよい。」

 ウタポンがハッと思い出したように言い出した。

「あれ、そういえば、今日は特別な例会だって言っていたけれど、いったい?」

 すると意味ありげに曽根崎がほほ笑んだ。

「実は、わが裏道グルメ研究会の創設者にして、会長の沖蔵さんが、久しぶりに日本に帰国したんだ。みんなに会いたいと、今日、この店に来ているのさ。」

 流石もウタポンも驚いた。今の今まで曽根崎が会長だと思っていた。本当の会長がいたとは? 曽根崎が合図すると、厨房から、地球屋のマスターとともに、ふっくらした、やさしそうなおじさんが出てきた。

「会長の沖蔵です。海外にいっている間にこんな美人の会員ができていたなんてまったく驚きです。どこといって取り柄のない、小太りの老人ですが、どうぞよろしくお願いします。」

 ほっそりした地球屋のマスターも、いつもの気合の入った怖い顔でなく、ニコニコ顔だ。二人は古くからの親友で、今回も海外の珍しい食材をドッサリ持ってきてくれたそうだ

「この間帰国した時は、救急車で搬送される騒ぎがあったんで、心配していたんだが、すっかり元気になって帰ってきたからわしも安心したよ。ハハハハ。今日は腕によりをかけて例のスープを用意していたんだ。待っていてくれ。」

 地球屋のマスターはやる気オーラを輝かせ、厨房に消えて行った。

 会長を囲んで自己紹介。なんか話の上手なやさしいおじさんで、すぐにみんなも打ち解けた。でも曽根崎が、沖蔵会長の紹介を始めると、

「…曽根崎君。堅苦しい肩書はやめてくれ。ただの食いしん坊の親父でけっこうだよ。」

「はは、そうですか、じゃ、その件はおいおいってことで…。」

 すると流石が質問した。

「あのう、救急車で運ばれたってマスターが言っていたけれど…お体、平気なんですか…。」

「はは、よい食べ物を、きちんと食べてるから、どこも悪いところはないよ。」

 そう言われれば、老人のくせにやたら顔色や肌のつやがいい。曽根崎が呆れた顔で説明しだした。

「毒キノコを食べたのさ、しかも、三回も食べて三回入院したのさ。」

 ウタポンが大きな瞳をウルウルさせながら声をかけた。

「なんて、運の悪いことなんでしょうね。」

 すると曽根崎が笑った。

「とんでもない! 自分でわかっていて食べたんだから自業自得だよ。」

「え?」

 そうなのだ、この親父は、マツタケよりおいしいキノコがあると言われ、それが毒キノコとわかっていて食べてしまったのだ。

「いやあ、嘘だと思って最初食べたら、想像以上においしくてな。食べるか死ぬかの瀬戸際で悩んだ結果じゃ…。」

 しかも懲りずに二度三度と繰り返し、周りの人や家族を心配させたのだった。

 いくら旨かったとはいえ、とんでもないお親父であった。さすがにもう反省して、食べるのをやめたという。

「いやあ、あの時は、曽根崎君にも迷惑をかけたな。ふふ、そのかわり、今夜はわしが、この地球屋でベスト3にはいる特別料理を紹介するよ。」

 みんなの瞳が輝いた。どんな料理が出て来るのかと、わくわくどきどきだ。マスターのやる気も凄かったし、期待が膨らんでいく。

 すると二メートルの大男、大吾が小さな器を持って静かにやってきた。

「どうぞ、マスター特製の、名もなき豆のスープです。」

「名もなき豆のスープ?」

 それ以上の料理の解説は何もなかった。

 みんな一瞬きょとんとして見つめるばかりであった。それは実にシンプルなスープだった。とろりとして、中にも何粒か豆が入っていた。

 みんな意外な料理だったため、言葉も少なく、静かにスープを口に運んだ。味も実にシンプルで、豆と塩だけのピュアな味だった。もちろん、みずみずしい豆を、ほほえむように気長に煮込み、そしてこれ以上ない素材の味を引き立たせる絶妙の塩加減、すごく丁寧に作られているのが伝わってくる。でも、なんだろう。初めて食べるのに、なぜか懐かしい。忘れていたものを思い出させるような不思議な味だった。

 きっとこんな豆のスープは、数千年前の古代の国でも、西洋でもアジアの片田舎でも、もしかしたら王族から農民までいろんな人が食べていたような、そんなスープなのにちがいない。

 沖蔵会長が静かにつぶやいた。

「どうだね、豆のスープは…?」

 最初は、誰も一言も答えられなかった。流石が、はじめに口を開いた。

「心のこもった味がします。おいしいです、おいしいです…でも、なんというのか…。」

 なんだかわからないけれど、マスターが心をこめて煮込んでいるところが思い浮かんでくる。さやから一つひとつ取り出して、ほほ笑みながらよく煮込んで、このピュアな味にするためには何回も味見をしたのだろうか。

 なぜだろう、感受性の強いウタポンは、涙を流しながらスープを味わっている。

「おいしい、おいしいんです。でもそれ以上に熱い何かが湧き上がってきて…。」

 曽根崎もホロッと来ているようだ。

「おいしいもの、変わった味、新しい味を求めて、俺らはときどき見失っているものがある…。それは口では言えないけれど、大事なものだ。師匠、また勉強させていただきました。」

 本当に不思議なスープだった。食べ終わった時には、涙でぐしゃぐしゃになった顔でウタポンが笑っていた。みんなもそれを見て笑っていた。

 沖蔵会長は満足そうに微笑むと、最後にみんなにお土産を渡した。小さな缶に入った外国の紅茶だった。

 曽根崎が聞いた。

「これは、どこの紅茶なんですか。見たことのないラベルだな。高そうだなあ。」

 すると沖蔵会長は、ニヤッと笑った。

「はは、値段はただみたいなものじゃ。もちろん有名な茶葉ではない。今度の旅行中、ジャワ島に行ったときに、小さな農園で飲んだ紅茶が気に入ってのう。無理言って、お土産を作ってもらったんじゃ。はは、もちろんマスターにはすでに頼んである。今ここで味見といこうじゃないか。」

 やがていい香りが漂い、ティーポットを持った大吾がやってくる。みんな、さっそく紅茶を飲んで驚いた。

「へえ、小さな農園の紅茶? なんという力強い、野性味あふれる味なんだ。」

 曽根崎がささやいた。上品さとか、ほろ苦さとか、そういうレベルではなく、もう圧倒的な押し寄せるような強い味だった。おいしいのかまずいのかと聞かれれば、すんごくおいしいのだ。

「この年になるとおいしいとは、どういうことか、考えるようになってのう。」

 お土産の紅茶も、みんなに大きなインパクトと満足感を残した。しかし、この紅茶が、あとであの争いのもととなるとは、誰も考えもしなかった。

 会長は、また海外に出て数か月後帰ってくるという。再会を約束して、その日の例会は幕を閉じた。

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