結局あいつは蚊帳の外

 主の戻ってこない仮の寝床にて、褐色肌の僧侶シルラは一人ベランダで物思いに耽る。

 思い悩んでしまうのは一人の少女の最後。あの屋上にて目を逸らし、一人どこかへ立ち去ってしまった女の子について。


 その思考に意味なんてないのに、それでもつい考えてしまう。

 あのとき私はなんと言葉をかけてやれば良かったのか。結局彼らと変わりない、この私が。


「……はあっ」

「やあ。随分と大きいため息だね」


 そんな中、突如一人の領域を侵すように耳に届く軽薄な声。

 そんな不意の侵入者にシルラは決してため息すら吐くことすらせず、目を細めて僅かに向けるのみ。


「……自立魔法。何用ですか」

「なーに、最後に少し君と話をね。それとも、ここに僕がいちゃ悪いのかい?」

「……いえ。そもそもここは彼女の、或いは貴方の住処。私が咎める権利はない」


 どこから取り出したのか、イルカはシルラの言葉を待つことなくアイスを取り出し舐め始める。

 摂取した食べ物はその仮初めの器のどこに入るのか。

 シルラはそんな疑問を持ちながら、イルカに渡されたアイスを少し逡巡してから封を開け、ゆっくりと食べ始める。


「何かエロいね。すーちゃんの教育に悪いからいなくて良かったよ。さては経験はおありで?」

「……っ、どうでしょうね。私は恵まれていましたから」


 イルカのからかいに一瞬怒鳴ろうとしたが、シルラは火に水を掛けたかのようにすぐに消沈してしまう。

 自分にはその揶揄へ反論する権利はない。幸運にもそれを強要される地位にいなかっただけの自分が咎めるには、あまりには身勝手で勝手が過ぎるだろうと。昔を思い出しながら。


「不器用だねぇ。そこは素直に反論すれば良いのに。別に恥じることはないさ。どんなに潔白を訴えたところで、欲ある人が成り立たせる組織に完全な白はないんだからさ」

「……それは人が上に立つ際の話です。我らが三女神を掲げるのであれば、その理屈は通ってはいけない」

「それで見て見ぬ振り、か。難儀だねぇ。君みたいに自覚があるやつが多ければ、もう少しましな滅びを迎えられただろうよ」


 イルカは嗤う。悔いるように、迷うように言葉を紡ぐ女に嘲笑しながらアイスを囓る。

 イルカは彼女の過去を完全に知っているわけではない。未来とは違って過去は思いのまま覗けるが、何を覗くかはそのと魔法を持つ者の自由。全ての本が閲覧可能な図書館において、どの本を手に取るか程度のさじ加減なのだ。

 

「実のところ、君の腐った世界はともかく君個人には少し同情の念だって抱いちまってるんだぜ? 箱庭の総意エルメントなんて身勝手に名乗ってる被害者連中と違って、滅び行く最中に託されてしまった怨嗟の代弁者。女神の指としての役目を終え、それでも尚人並みの自由を得ようとせず情に殉じようとした、まごう事なき慈悲のシルラってね?」

「……そこまでお見通し、ですか。はあっ、貴方には何が見えているのでしょうね。の私と違い、貴方はあちらの……箱庭の総意エルメント達の由縁でしょうに」


 シルラの確信に近い推測は割と想定外だったのか、イルカは意外そうに頷きを見せる。

 

「おや、どうしてわかったのかな? 特にそんな根拠をばらまいたつもりはなかったのだけど」

「根拠は色々ですが、あえて挙げるなら語気ですかね。貴方、彼らを語るときだけは想いがこもっていますよ。それこそ気取った魔法らしくなく」

「……なるほど、それは確かに。先のことといい、意外と自分のことは見えなくなるもんだね」


 イルカは頷きながらアイスを食べきると、今度は茶瓶と湯飲みをふわふわと部屋から手繰り寄せる。

 コポコポと注がれ、夜の空に湯気を立ち昇らせる緑の液体。

 イルカに一つ差し出されたシルラは、毒の心配をしながら受け取ってゆっくりと口を付けた。


「……あのは、すーちゃんはその後どうですか? 貴方のことです。どうせ目は離してないのでしょう?」

「それはもちろん。ま、心配しなくてもいいさ。あのは僕と違って甘ちゃんだけど、いちいち世話しなきゃいけないほど幼くはない。当日までにはきちっと仕上げてくるさ」


 心配そうに問うたシルラに、イルカは欠片も悩むことなく適当に返しながらお茶を飲む。

 それが信頼なのか、或いは無関心なのか。シルラには知りようがないことで、深く聞くことでもない。

 自分と彼女はあくまで同盟同士。抜けるというならそれまでで、一喜一憂出来るほど彼女と絆を紡いだわけではないのだから。


「……このまま抜けた方が、きっと彼女のためなのでしょうね」

「おや、それは情かい? 復讐を刻まれた女ともあろうものが、たかが乳臭い小娘の善意如きに絆されてしまったのかい? 君の直感は定めてしまったのだろう? 絶対殺言ゼクトの発動に必要な罪、あのの死を七人目に」


 絶対殺言ゼクトについて何故知っていると、最早いちいち問う気はない。

 けれどそんなことはないと、そう返そうとしたシルラだが、やはりそれも出てきてくれない。

 

 シルラにとってすーちゃんとは、自分を拾ってくれた恩人にして協力者。

 例えあちらが参戦に乗り気でも。こちらがどれほど醜く、恩を仇で返す本音を隠していようとも。

 出来れば死んでほしくない、関わってほしくない気持ちは事実。そう、それだけは偽りない気持ちなのだ。


「……私はどうすれば良いんでしょうね。既に五人に手を掛けたというのに、今更迷ってしまっている。既に人の心は捨てたと思っていたのに、あのの笑顔は私を揺らすのです。これでは、何のために生き残ったのかもわからない……」


 天へ祈るように、それ以上に縋るような弱さで言葉を漏らすシルラ。

 イルカはそれに応えない。掛ける言葉を持たず、掛けてやりたい罵倒も今だけは思いつかない。故に手を差し伸べてくれる人は、どこにもいない。

 そして彼女自身、そんな弱音一つで向けられた救いを望んでなどいない。罪を犯し、戻れない道を進むしかない自分に今更救済など、女神ですら微笑んでくれはしないと知っているから。


「ここまですーちゃんに付き合ってくれた君に一つだけ言ってやるけど、君達の滅びは必然で気に病む必要はないと思うよ。本来君達が決意し、実行しなければならなかったことをたった一人に押しつけたせいで生まれた、個人ではなく世界単位の罪なんだから」

「……それでも、それはあくまで私達の咎。何も知らず、女神を信じ生き抜いた人達の声を捨て置いていい道理はないのです」

「板挟みだね。なら好きにするといいさ。に、わざわざ命を掛ける慈悲ある愚か者よ」


 イルカは呆れるようにお茶を啜る。哀れな女の末路など、どうでも良いと切り捨てるように。

 

 シルラの手は思い出す。最後に握った、名も知らぬ少年の最期の祈りを。

 シルラの耳中では反響している。何も知らず、世界を滅ぼしたであろう女を呪う怨嗟の響きを。

 そしてシルラの脳裏は忘れることはない。託されてしまった人々の断末魔を。一人を世界からはじくほどの、彼らが望んだ願いを。……世界を滅ぼした、アリスへの復讐を。

 

「そういえば、結局すーちゃんには話さないのかい? 標的ターゲットへ語るには厚かましすぎる、言い訳がましい君の過去は」

「……その意志はありましたが、時期を失いました。所詮は一時の同盟相手、最早懺悔の機会は訪れないでしょう。……きっとそれで、それが一番いいのです」


 シルラは残念がるように零すも、その中にはイルカでさえわかる安堵が含まれている。

 罪を吐いて心の内を整理する機会。微かに残る後悔を誰かに語り、自分が楽になるための場など必要ない。それこそ奪った五人の命に対して不誠実だと、自分に言い聞かせるかのように。


 或いは違う現在いまもあったのだろう。手を取り合い、絆を深める可能性もあったのだろう。

 けれどそんな未練がましい想像は無意味でしかなく。

 昼間のカフェなる場所で彼女が聞ききれなかったように。互いが踏み込まずにここまで来たように。

 私達は良き友に、言葉でわかり合う仲になる運命ではなかった。それだけのことなのだ。


「……既に心は落ち着きました。私はもう寝ます。後は当日の成り行きに身を委ねましょう」

「それは彼らのかい? それとも、かい?」

「どちらもです。では失礼します」


 お茶を飲み干し、最後に空を見上げてから部屋へと戻っていくシルラ。

 その背中は背丈の割に小さくか細いもの。まるで導く立場の彼女が迷える子羊になってしまったかのようだと、イルカは適当に考えながら温くなったお茶に口を付ける。


「想いってのは難儀だねぇ。AAも絶対殺言ゼクトも、結局のところアリスには通じない。両者共にわかっていながら、それでも止まれないんだから」


 イルカは呟く。これから起こる必然を思いながら、変わるかもしれない未来を憂いながら。

 それは珍しく、未来を視たから出たものではなく。

 かつて愚と揶揄されようが、賢者であった者としての思慮。可愛らしいぬいぐるみの内側に隠された、数少ない彼女の本音だった。


「……ま、それを言うなら僕も同じか。自分じゃ拝めない彼らの分岐点のために、わざわざ残した僕の欠片を全て費やすのだから」


 そう言いながら空に白色の円を描き、その中に映るどこかで殴り合っている二人の姿を眺める。

 どこかの公園で笑いながら、けれども闘争心を剥き出しで戦う二人。

 その争いに意味はなく、されどきっと意味はある。何とも矛盾しているが、きっと今の彼にはそうなのだろう。


「精々頑張ってくれよ少年。全ては結局君次第、それでも僕は君に賭けたんだからさ」


 懸念はある。不安もある。高嶺たかねアリスという、途方もない爆弾もある。

 けれどそれ以上に確信がある。あの未熟で愚かな変人もどきは、必ずや自分の視たい結末のきざしを示してくれると、らしくもない断定に近い願望でイルカは微笑んだ。

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