上から下へ
現在朝四時。空はまだ絶妙に昏く、まだそこまでの活気はないので閑散としている時間帯。
そんな朝っぱらにどこにいると思います。答えはなんと、お家から出てお外なんですよ。
「……眠い。ひたすらに眠い。昨日とは違う意味で、目を瞑ってしまいたい」
「何を言っているんだい? ほらほらっ、もっと気張って気張って! そんなことじゃあやるべきことすら果たせないゾ?」
フードの中からうるせえぞくそイルカ。こちとら深夜までお前の講義を受けてて眠いんじゃボケ。
「で、俺に何させる気なん? 朝のランニングなんて日課にないし、こちとら学校の準備しなきゃ行けないんだけど? 魔力制御のお稽古なら放課後に──」
「ああ、言い忘れてたけど学校は休むことを勧めるよ? 苦労が好きなら
「……はい?」
あまりに急すぎる登校不明に、流石に脳も驚きで覚醒してしまう。
なーに言ってくれちゃってんのこの駄イルカは? お前を消す方法でググったろか?
「一応聞いてやるけど、何故?」
「学び舎や訓練なんかよりも大事な理由があるからだよ。ほらっ、前方をご覧よ少年君?」
フードの裏に手を突っ込み、勝手気ままなイルカの首根っこを掴むが無意味。
所詮は仮初めの体だと笑いながら、手から器用に抜けて前方を見るように指示してきやがる。
こんな街中になにがあるというのか。さては並ばなきゃいけないお菓子でも食べたくなったのか。
能力はともかく、言動や態度はこれっぽちも信用出来ないのだが。
それでもこんなところまで連れてきたのだから、そこまで意味がないわけじゃないのだろうと一応従って前方に目を凝らしてみる。
えーっと人、猫、人、猫、人、人、猫、人、猫……って猫多いな。本当に人の街か?
というか何も可笑しいところはなくね? 倒れている酔っぱらいと、男に捨てられたのか路上で泣き叫びながら警官に慰められている女の人と、ダンボール敷いて正座している聖職の方……おっ?
「う、うそぉ。あれってまさか……?」
「その通り。見たことあるだろう? 忘れもしないだろう? 何たって半日ぶりなんだからね?」
耳元でけたけたと笑ってくるイルカ。だがこちらとしては、いちいち気にしている余裕はない。
何故ならそいつは、捨てられた犬みたいな哀愁を振りまいてくるその女は。
視界に入っただけで俺の胃を非情にキリキリさせ、殴られた腹の奥からないはずの痛みを呼び起こしてくる存在。命を狙ってくる仇敵にして、まだ絶対に勝ち目のない格上なのだから。
「な、なんで連れてきたのさぁ? あいつ、こわい、かてない。お分かりぃ?」
「うんうん分かるよ。トラウマなんだね? 今はまだ見かけただけでちびっちゃうんだね?」
思わず直近の路地裏に隠れ、ドッキリ大成功みたいに頭をぺシペシしてくるイルカを問い詰める。
そこまでは言ってねえよ。……あ、あんまし否定はしないけどさ。
「で、真面目に何あれ? 闇討ちしてくださいって意思表示? 俺的には倒してトラウマ消したいだけで、後ろから首絞めたいってわけじゃねえんだけどなぁ」
「わお残虐。だが違うんだなぁ~? なんとつい半日前、君に戦闘という無慈悲な現実を教えた異界の修道女ことシルラ。何と彼女は現在家なし、路上に迷うその日暮らしの流浪人だったというわけさ。さあ拍手!」
フードを抜け出して空を泳いで目の前にやってきたイルカは、水族館で芸している本物みたいに胸びれで拍手してきやがる。……一応ここ街中で、お前はぬいぐるみやぞ?
「ちなみにあれは一見無防備のようだけど、実際にはそうじゃあないし、むしろ隙なんてほとんどない。認識阻害やら隔離結界やらでそこにいるけどそこにはいない、けれど自分はここにある的な状態なんだ。だから職質や
「へー。……え、じゃあ何で俺には認識できてるの?」
「よっぽど心に刻みつけられたんだろうねぇ、彼女という存在が。不思議だねぇ」
多分それだけじゃないんだろうと、それしか分からない雲を掴ませるみたいなイルカの曖昧さ。
どうやら話す気はないらしい。知ってるならはぐらかさず、かいつまんで説明してくれる方が遙かに楽なんだけどなぁ。
「──さて。それでは話を戻すとして、どうしてこんな朝早くにここまで連れてきて、次に会ったら殺すとまで言ってきた女と君を鉢合わせたかって問いだったね? 答えは簡単だよ。君にはこれから彼女の懐に潜り込み、交友を深めてもらうためってわけさ」
イルカは腹の底から愉しげに、なのにまったく意味の分からないことを俺へと告げてくる。
「察しの通り、あの
へー、ほーん、ふーん。……駄目だ、寝起きの頭には欠片も入ってこねえや──。
「──いって!」
「ほら起きろー。眠気吸ってやるから聞けなー? こっからはテストに出てくる範囲だぞー?」
早々に理解を放棄して聞き流していると、問答無用でイルカの尾に
痛いな……ってあれ、すっげー意識が冴えてる。まるで昼寝した後の五時限目みたいな気分だ。
「で、ここからなんだけど。先の言葉通り、君には彼女に接触してもらう。そして彼女の好感度を稼ぎ、彼女と行動を共にしてもらうってわけさ。出来るかい?」
「いやいや、出来るか? じゃなくてさ? 聞きたいのはなぜそんなことをって話なんだけど──」
「出来るかい?」
まったく説明になってない説明に苦言を呈したかったが、先ほどとは打って変わって真剣に尋ねてくるイルカについ言葉を呑み込んでしまう。
……こいつ、話す分には適当なくせして聞くときだけ真面目になるよな。一問一答で間違えちゃいけないギャルゲやらされている気分だわ。
「難しいんじゃないか? あの人にとって俺は獲物でしかないんだし、そのまま近づいても殺されるのがオチだろ。付け焼き刃の魔力制御だけじゃどうにもならんぞ」
「……そうだね。普通ならば無理だろうさ。でも君には
少し考えてから問題点を挙げてみると、イルカは待ってましたと言わんばかりに、表情を動かさずともわかるほど愉しげに案を出してくる。
まあ、確かに秘技である
「ちっちっちぃ。甘い、甘すぎるぞ少年。そんな生温い思考じゃあこの前お茶会で出した砂糖漬けもおったまげちまうってくらい、デロデロでベタベタの糖分塗れで飲み込めないぜー?」
「知らんがな、後思考を読むな。……で、何が違うんだよ?」
「仕方ないから駄目駄目な少年君にこの僕が教えて進ぜよう。あーあ、本当は君自身が身を以て気付いてほしかったんだけどなー。学びを生かしてほしかったんだけどなー」
喧しい。はよ説明しやがれ。
「まあいいや、このせっかちさんめ。じゃあネタバレしちゃうけど、君の女体化は少し特殊でね? なんと魔力の質まで変わっちゃってるんだ。アリス風に言うなら、色が違うって感じだね」
「それはその……凄いことなの?」
「うん。そもそもの話、君のは変身じゃなくて可能性の受肉なんだ。既存の変身魔法やアリスの七変化ともまったく異なる魔法ですらない現象。だから魔力の色も別物となるわけなんだ。凄いんだよ? これは僕が観測した中でも極めて異例、恐らく唯一無二の固有魔法を謳っていいレベルなんだからさ。もしもこの世界が不可思議という神秘を科学で消し去っていなければ、きっと君は百年の研究を進めるであろう素晴らしいサンプルに……嗚呼、この話はいいや。いちいち脱線しちゃうのは僕の良くない癖だね」
え、ええ……。そんな凄まじく特別感があって不穏なワード吐かれると逆に気になるんだけど……。
「ま、大事なのは力の質でバレる心配は不要ってことさ! もちろん昨日見られちゃった黒系の魔法を使ったら怪しまれるどころかアウト一直線だろうけどね?」
……じゃあ駄目じゃん。影のない俺なんて、砂糖のないケーキに等しい味なしの子供騙しよ?
「じゃあ変身して? ほら早くー。結構スケジュールが押してるんだよー。巻いて巻いてー?」
「ああもう! わかった、わかったから! ……ごほんっ、
急かすイルカの勢いに負け、流されるがままにメタモルってしまう。
体を包む光の中で体が作り変わる。背は縮み、胸が膨らみ、馴染みの相棒が消えていく。
……ついノリでやっちゃったけど、こんな往来でTSしちゃって大丈夫なんかな。職質されたりしないからな?
「ん、んーおっけー……ってやばっ! 服どうしよう……」
「仕方ないなー。くるるんぱぴるんちょちょいのちょい~。今日から君も女の子~」
だぼった服にちょっと危機感を覚えていると、ぽんっ、と音を立てて服が変化する。
そこいらのガラスで全貌を確認してみれば、何とそこには可愛い系の服を着こなしている女の子がいるではないか。
ふむふむ、中々に悪くない。というか良い。実は女の子用の服にはまだ手を出したことなかったんだよね。当然中に装着されてしまった布きれ共にも。
「これで一端の雌の出来上がりっと。うんうん、我ながら上出来だねぇ。後はこうして交尾みたいにぴったりと額を合わせれば──」
急に下品なこと言い出したイルカは、柔らかなタッチで俺に額を合わせてくる。
瞬間、急激に流れ込んできたのは情報の波。まるで映画一本を圧縮して、脳へと移して解凍したかのよう。
数秒の後、少しふらつきながらも贈り物は整理されていき、知らない記憶が俺の知識へと定着した。
……あー頭痛っ、っていうかなんだこれ。知らないはずのことを知っちゃってるんだけどさ。
「なんだよ、これ……」
「記憶の共有だね。ほらっ、やるべきことがわかっただろう?」
「……ああなるほど。お前、こんなことまでやってたのかよ」
この自信満々でむかつく態度も、知ってしまっては苦言を言う気にはなれない。
何せ知ってしまったから。これから俺が取るべき行動も、こいつが俺の中から抜け出してから何をしていたかも流し込まれてしまったのだから。
しかしこやつめ。こんな便利手段があるなら最初からやれよな。これじゃ話した時間がまるまる損じゃないか。
「さあ行きたまえ! 君の冒険は始まったばかりさ! 大丈夫! 今日が上手くいったらまた連絡するからさ!」
「あっ、ちょっとぉ──!」
俺が文句を言ってやろうと口を開く前に閃光が奔り、イルカは瞬きの最中に姿を消してしまう。
早朝に、残された俺、呆然と。
「……あいつ、自分ことを残滓とか言ってたよな。それにしちゃ自由に動きすぎじゃね?」
果たしてどこまでが真実なのやら。その答えは、あいつの胸の中のみぞ知るってか?
……まあいいや。どうせやることは決まっているんだし、おれもそろそろ気張っていくとしよう。あいつにどう得があるのかは知らないけど、俺にとってはやる意味のある行動だからな。
あー、あー、あー。俺は、僕は、私はー。……うん、やっぱりこのなりには私が一番だね!
気持ちを男から女へと変え、それっぽい足取りで目的の人物まで近づいていく。
俺が彼女と出会ったことのない前提なら、結界の条件を通過できる善人でなければならない。
意識しろ。想像しろ。理想を演じて役を被り、己自身を染め上げろ。
そしてあいつの、
騙すことに多少の抵抗はあるが、所詮は我欲に負けた程度の良心だし捨て去ってしまえ。
大丈夫。演じるための要素は揃っている。自分を偽ることには慣れている。
俺の脳内に刻まれた数多の魅力溢れる女性達が、俺が生み出すものの隙間をしっかりと埋めてくれるはずだ。
この身は平凡ながらに心の優しい生娘。このしみったれて薄汚れた現代には相応しくない、人並みの常識を持ちながら慈愛を捨てきれない少女。
固まっていく。形作られていく。この皮でしかなかった女の姿にあるべき
──ほらっ、目を瞑らなきゃ。次に開けたときにはきっと、俺は彼女であるはずだ。
「俺は
名前を唱え、目を開ける。たったそれだけで、世界はまるで異なる景色へ切り替わる。
それはまるで、産声を上げた新しい命のよう。さりとて最初からそこにいたかのように自然。
気配、佇まい、表情、歩き方。どれをとっても俺ではない、この体に相応しい新たな
私の名前は
女としての自覚しながら、迷いなく真っ直ぐに、目的の女を見ずにそこまで歩いていく。
肝心なのは第一印象。路上の悲劇を見つけたのは偶然で、私と貴女は初めて出会うのだと意識からそう自覚しろ。
「大丈夫……ですか?」
そして私はあのデカ女へ──シルラさんへ手を差し伸べる。
優しく、健気で、けれども芯を持って。その行為が、例えお節介の偽善だったとしても。
迷いはあれど手を差し伸べられる、幸福に満ちたお伽噺の始まりのように。
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