Who am I?

 私が彼を初めて認識したのは、中学一年の頃だった。

 泳ぎが好きだからと入部した水泳部。自業自得な煩わしい人間関係、そして猿のように盛った男の先輩達に不埒な視線が疎ましかった私は、その好きだったものさえ嫌いになりかけていた。

 相談できる人もおらず、家にも帰りたくない。そんな学校生活の中で唯一楽しみだったのは、夏の夜に誰もいないプールで泳ぐことだった。

 

 一度目は偶然の事故。けれどそのたった一度が、真面目だと思っていた自分を変えてしまった。

 部員も帰り、誰もいないはず学内プール。無人で無料で使えて、もしバレても怒られるだけで済むであろう遊び場。

 あるべき静けさを取り戻した場所でがむしゃらに、好きな物をストレス発散に使うそれはある種の自傷行為のようで、まるで己に見えない刃を突き立てるようで快感だった。



 ──けれどある日、そんな私のたった一つの逃避しゅみに割り込んできたやつがいた。



 誰もいるわけがない、夜のプール。そもそも学内にだって生徒がいるわけがない遅い時間。

 けれどいる。誰かが一人、私だけの場所で泳いでいる。嘲りたくなるほど下手くそで、馬鹿にしたくなるくらい不格好に泳ぎながら、それでも自分とは違って心の底から喜色に満ちた泳ぎ方をしているそいつ。

 水着の形から多分男。帽子の色から恐らく同学年。見てわかるのは、多分それくらい。

 

 自分が入りに来たはずだったのに、不思議とサイドに座ってそいつの泳ぐ様を眺めてしまう。

 邪魔者がいたなら踵を返して立ち去ればいいものを。別に悪くはない頭でそう理解はしながらも、無我夢中で泳ぎ続けるそいつから目が離せない。

 まるで童心の擬人化。こちらに気付くこともなく、苦痛など何も知らない子供のように、ただひたすらに泳ぐその姿を見ていたいと、珍しく誤魔化すことなくそう思ってしまったのだ。


「ぷはぁ! うーんさっぱりー。誰もいないプールってのは乙だよなー。……およっ?」


 そんな自分の内心に動じていると、型もくそもない犬かきでこちらに戻ってきていた男はゴーグルを取り、こちらをきょとんと見つめてきていた。

 あどけない瞳。世の汚れを知らず、ただひたすらに我欲を満たす無色の輝きを秘めた水晶。

 本当に同い年かと疑ってしまう少年。そこに不快な性欲を孕んだ視線など、どこにもなかった。


「えっと……。誰かは知らないけどさ、そんなに見つめられちゃうと照れちゃうぜ?」

「……何それ。この場合、動揺して叫ぶのはこっちじゃないの?」


 困惑をそのまま言葉にしてきたので言い返してやると、そいつは一本取られたと言わんばかりに頬を掻いて露骨に顔を逸らしてくる。

 それがなんだか面白くて、からかいたくなってしまうくらいに純情で。先ほどまで抱えていた、自分の時間を邪魔されたという苛立ちは、プールの水にでも溶けてしまったかのようだった。


「ま、いいや。美少女に見られながら犬かきってのも乙なもの。一人っきりの夜間水泳も楽しいけど、共犯ありのナイトプールだって大人っぽくて悪くないしね」

「……何なの一人で。ねえあんた──」

「ねえ名も知らぬ美少女ちゃん。この場を穏便に収めるため、一つ提案があるんだけどさ?」


 こちらの疑問などまるで意に介した様子はなく。

 少し悩む素振りを見せたそいつはプールから上がってくるのではなく、何故か誘うように手を伸ばしてくる。


「暇なら俺に泳ぎを教えてくれない? 共にルールを破ったよしみでさ?」


 そいつは捻れた私に向かって真っ直ぐに、幼児が砂場へ誘うみたいに笑いかけてくる。

 振り返れば、きっとあの頃からその瞳と笑顔にやられていたのだろう。

 そんな私にお似合いの不真面目な邂逅こそが、私と彼──上野進うえのすすむの一年ぽっちで終わる関係の始まりであった。






 おはよーございます。ここがどこかも定かではない上野進うえのすすむです。

 ……俺、最近誘拐されること増えたよね。自分がうら若き乙女の類じゃなくて心から良かったと思うよ。

 

 さて。この薄暗い部屋に閉じ込められてしまった俺だが、気になることはそれだけじゃなかったりする。

 何故か指されたはずのお腹にまったくの負傷がないこの体。風邪引いたときみたいな多少のだるさはあるので健康とは言いがたいが、それでもまあ戦闘だってこなせる程度には問題ないはず。

 

 名称 上野進うえのすすむ

 レベル 50

 生命力 350/500

 魔力  390/400

 肉体力 大体200

 固有 閲覧 表裏一体の片思い 影収納 影生成 影操作 影通過

 称号 不可能に挑む愚者 死から帰った者 厄災殺し

 備考 進め少年。その先には、きっと君に必要なものが待っているから。


 ほらっ、ステータスさんも問題ないって言ってる。備考がいつもよりもポエミーだけどさ。

 しかしここは何処なんだろう。さっきまであった磯の香りはまるでしないし、さては結構遠くまで拉致されたりしちゃったのかな。

 時間を確認しようにも、生憎スマホはうんともすんとも言ってくれない。電池は結構残っていたはずなのだが、さては何か細工でもされたか沈没中に魅惑のマイボディで踏んづけてちまったか。


「ちょっとまずいな。早く帰らんと心配かけちゃうからなぁ……」

 

 お家に残してきた家族の顔が浮かんできてしまい、多少の焦りから乱雑に髪を触ってしまう。

 話したその日の夜に行方不明とは、ばっちゃまが相当気に病んじゃうかもしれないからな。ここがどこかは一旦置いておいて、ひとまず外に出て安否の連絡をするのが先だろう。

 でもなぁ。どうやって脱出しおうかなぁ。この部屋にあるのは如何にも正規ルートですよって階段と後ろの文字、後は全部壁以外何もない空間だからなぁ。


「……あっ、じゃあ壊せばいいじゃん。俺ってば冴えてるぅ!」


 明晰すぎる我が頭脳を恐ろしく思いながら、影から金槌を取り出して壁の前へ立つ。

 壁的に明らかな人工物。ならばどんな場所であろうと、レベル50の俺が本気で殴れば壊れないわけがない。よって相手の思惑なんぞ乗らず、最強最大の一撃で台無しにしてやるのが最適解ってわけよ。

 いやー流石は俺。犯人にどんな狙いがあったのかは知らんけど、誘拐したのが俺だったのが運の尽きだよなぁ?


「魔力充填じゅうてーん。影を纏わせー? 準備完了かんりょー!」


 魔力を回し、馴染みの金槌に影を被せ、バラエティで使われてそうな大槌へと拡大していく。

 ちゃんと仕上げに百tトンと書くのを忘れずに。うーん、我ながら完璧っちゃね!


「それじゃ行くよぉ! 全身全霊ッ!! チェストーッ!!」


 これ以上ないくらい最高のスイングで壁を叩き付けた大槌。

 当たりさえすれば屍鬼かばねおににも通用するんじゃないかなって自信のある隙だらけの大技。流石にコンクリや煉瓦の壁如きじゃ張り合うことすら出来ずに粉砕出来るだろう一撃。


「……ありゃ?」


 だというのに。別に手応えを感じなかったというわけでもなかったのに。

 壁に穴が開くことはなく。それどころか、罅の一つすら入ることなく未だ健在であられるのだ。

 

 まじ……まじ? 自信無くすなぁ。これでも俺、結構強くなったと思ったのになぁ。

 どうやら道は一つしかないらしい。進むか朽ちるか、まあ分かりやすくていいってことにしよう。


 こんなに頑丈なら連打しても結果は変わらなそうだと、とっとと切り替えて進む方針に切り替える。

 さて。それじゃあまずは降りる前に、壁に朱文字でべったりと書いてあるこれから考えよう。


Who am Iふーあむあい。私は誰……知らん、終わりっ!」


 何のヒントにもならんわ。解かせる気あるんかぁ? 舐めてんのかぁ亡霊少女(仮))こと誘拐犯さんよぉ?

 ま、今は考えるだけ無駄だろうと文字に背を向け、いよいよとばかりに階段へと寄っていく。

 壁に架けられた蝋燭に照らされた薄暗い階段は、まるでどっかの探索ゲームからそのまま取り出したみたいなお馴染み感のある雰囲気を放っている。

 

 ……建物といい、絶対普通の建築じゃないよな。もしやこれ、本当にダンジョンだったりする? 


「ま、進んじゃおーっと。すすむのすすむは進むで出来ているわけだしね」


 まあ降りると決めた以上、ひとまず考えなくても良い問題だとは思うので。

 とりあえずは思考を放棄し、一段ずつなんて野暮なことは考えず、自由気ままにホップステップジャンピングとひたすらに階段を跳ね降りていく。

 ま、ちょっと暗いし転けるかもしれないけど、そこはステータスのごり押しで問題ないでしょ。せっかくだし、段数飛ばしの最高記録にチャレンジしちゃおうっと。


「ごだーん。ななだーん。じゅうにだーん。それに加えて二十……おっとと、多分二十七段でゴールイーンっと」


 ちょっとだけふらつきながら、足の一つを捻ることなく着地した自分に満足しながら前を向く。

 階段の先にあったのは扉。まるで都会のビルにでも付いてそうな普通のドアだった。

 

「んー。んー?」


 どこにでもありそうなドア。どこにでもあるが故、こんなところにあると違和感ましましなドア。

 君との出会いは初見のはず。こんなところに来たことなんてないのだから、このドア自体とは出会ったことがないはずなのに。

 

 ──何故だろう。このドア、俺はどこかで見たことも通り抜けたこともある気がしてならない。


「ま、いいか。れっつらごー!」


 重要なのは扉ではなくこの先だと、気を取り直してノブを回し、勢いよくドアを開けて入室する。

 

「……あ?」


 肌で感じる空気。そして目によって認識した光景に、思わず困惑が漏れてしまう。

 何故なら部屋の中に広がっていたのは、おおよそこんなところにあるべきではないもの。

 立ちこめる湿気。鼻を劈くこの匂い。無数のマネキンが気味の悪さを演出する、五つのコースに分けられた大きな水溜まり。つまりはどこか既視感のあるプールが、この部屋にはあったのだから。

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