童貞卒業
銃弾から逃れるために転がり込んだ廃工場らしき建物。
無我夢中で階段を上がって飛び込んだ部屋で、未だ激痛まみれの肩を押さえながらしゃがみ込む。
「あァくそ。いてェ、痛てえなこれェ……」
こんな場所で独り言など愚の骨頂だが、それでも言葉にしていないとやっていられない。
こちとら銃に撃たれるなんて初めてだが、こんなのたうち回りたいくらいにクるとは思ってなかった。
まったく
……まあ実際そんなことを言い始めたら、突っ込むべきは自分の体の方なのだろうが。
「非貫通で穴も開かず、折れてるかは微妙。……ははっ、いよいよ人間辞めてんなこれ」
じんじん、と痛みを滲ませる肩を眺めながら、思わず自分に呆れてしまう。
確かに銃弾は命中した。掠るなんてちゃちなものではなく、痛みの通り肩へと直撃で。
だが手を離してみれば、特別その場所に傷口は確認できず。
放たれた弾が体を貫くこともなければ、押さえていた掌に血の一滴すら付着していないのだ。
「まあいい。それよりあれだ、どっかにあれがあるはず……」
思うことはたくさんあれど、今は自分の体のことなど後回しだと体をまさぐる。
俺の予想通りならばどこかにあるはず。俺とのり子を繋いで離さない、見覚えのない運命の赤い糸とやらが。
体にはなし。後ろも多分なし。腕は……ああみっけ、このクリップが追跡の種ってわけか。
一見普通のクリップだが、恐らくはあの固有で創った特注品。あのババアが都合のいい形でのみ確認できる特殊な発信器。恐らくは追いかけっこ前にでも付けられていたのだろう。
「きひひッ、これさえなきゃ後はどうにでもならァ。ちょうどお誂え向きな場所だしなァ」
影から金槌を取り出し、クリップを手の中で転がしながら考える。
武器の変身に発信器。あいつの言うことを認めるのは癪だが、確かに俺は相手の固有を甘く見積っており、その結果手痛い失敗をしてしまった。
だがもう充分。奴の手札は大方把握したし、後は反撃に出て勝利するだけ。
散々好き勝手に弄んでくれたんだ。銃弾一つとは言わず、たっぷりとお返ししてやらなきゃこっちの気が収まらない。
「さあて終幕の時間だ。あの変態ババアに相応の返答してやらねえとなァ」
人には見せられないであろう、痛みと興奮で歪んだ笑顔を自覚しながら立ち上がる。
さあ行こうか。この愛など皆無な
かつかつ、と小躍りでもしているかのように響く足音。
その軽やかさはまるでかくれんぼで友達でも捜す小さな鬼のよう。ただし鳴らしているのが鬼は鬼でも人殺しの鬼で、明るい公園などではなく暗く人もいない廃墟の中でなければだが。
「もーいーかい? 出てきなよ少年ー?」
子供をあやすみたいな猫なで声でこちらを捜す
女の媚び声を蜂蜜みたいな甘い声とはよく言ったもの。
こんなに甘味が凝縮されたみたいな声色で自分を呼ばれたことはないし、普通のナンパなら少しは揺らぎたくなっちゃうくらい。そもそも耐性付く程度すら女子とおしゃべりしたことないからな。
けれど場面が違えば、そんなハニーボイスもただの挑発としか捉えられない。
本当嫌になっちゃうよ。一方通行な執着ってマジで怖いんだな、ちょっとは参考になったよ。
徐々に大きくなってくる靴の音は、さながら死の神が作り出した終焉までのカウントダウン。
俺の見立てが正しければ恐らく無駄撃ちはない。あの足音が止まったとき、俺を完全に捉えたその瞬間、その引き金は引かれるだろう。
柄にもなく、緊張が体を走り回って止むことはない。
それはまるであのときのよう。初めて命の
張った罠は一つきり。必ず掛かる
随分と遠回りした気がするが結果的にはちょうど良い。泣いても笑っても駆け引きは最後だ。
さあ踊れ。その黒いおもちゃを握りながら、存分に勝ちを確信しろ。
なあに先手は譲ってやるさ。その代わり、お前に有利な狩りだと驕っている限り、俺の勝利は揺るがないぜ。
「……そこかい。それで終わりでいいのかな?」
何かを見つけたらしい少女は足音を止め、落胆を声に乗せながら銃を構える。
月明かりが差し込むだけの暗闇の中、廃墟を支える数本の柱の先から僅かに漏れ出す人の影。
最早隠れる場所などどこにもない。少女に化けた鬼はきっと、それが自らが狙う獲物だと確信していることだろう。
「諦めるとは残念だよ。君ならば、私の想像を超えてくれると期待していたんだがね」
「…………」
「言葉もなし、か。だがその健闘は記憶に残るだろう。一つ惜しむべきは、讃えるべき君の名を骸から掘り出さなくてはならないことだがね」
小さく吐かれた失望の後、乾いた破裂音の連続が言葉の名残を容易く消し飛ばす。
銃口を向けられた先で撃たれたそれは、声も上げずに小さく跳ね、力を失ったように横へと倒れた。
「……たわいもない。幕切れはあっさり──」
ここだ。この一瞬を待っていた。
少女が失意の言葉を並べ、警戒を解き銃を持つ手を下ろそうとしたその瞬間。仕留めたと安堵する唯一の油断こそ、俺が欲しかった最高の
少女の頭上。屋根の鉄骨にしがみついていた俺は、手を放して落下していく。
地に落ちる数秒の間。咥えていた金槌を持ち直し、狙うべき場所をしっかりと見据える。
優先すべきは手。より正確に言えば、あいつの手にある厄介極まりない鉛を飛ばす黒い筒だ。
直接命を潰すのが理想だが、それではもしもの可能性を捨てきれない。
だがあの銃さえなければ後はどうにでもなる。何せ俺の見立てが正しければ、そのご大層な
鈍い着地音に大きく目を見開くも、すぐさま振り向きこちらへ銃口を向けようとするのり子。
完全な油断の中、それでも反応するのは流石の一言。
だがもう遅い。そんな苦し紛れの速度じゃ、ジャンケン一回分くらいは手遅れだぜ。
素早く振るった金槌の先は、寸分違わず忌まわしき武器を遠くに弾き飛ばす。
そのまま返しで頭を狙うが、流石にそこまで届くほど甘くはなく。
顔を歪ませながらも紙一重で躱し、そのままの勢いで金槌の届かない後方へと飛び退かれてしまう。
「ふうぅ……。危ない危ない、まさか
「最初からだっつーのクソババア。逆に聞いてやるけど、兎扱いしてた若造如きに遊ばれてたことに気付かなかったのかよ?」
苛立ち全詰めのこちらの罵声などどこ吹く風と。
のり子はちらりと柱の陰に視線を向け、どこまでも上から目線を崩さず拍手してくる。
発信器であろうクリップを付け、だめ押しに一張羅を着せて置いておいた
「それにしても、脱いでみれば中々に好い体しているじゃないか。能力相応に引き締まっているわけでもないというのに、妙に私の心を擽ってたまらないね」
「……そらどうも。お褒めにあずかり恐悦至極、なんて言ってやれば満足かよ?」
学生服に身を包んだ女がしちゃいけない、情欲塗れな変態の表情で舌を出すのり子。
うわきっしょ。何かめっちゃ寒気してきた。興味ない奴からの性欲ってマジで心に来るんだな。
「──さて。戯れはここまでにしよう。発砲してしまった以上通報は免れない。私も現行犯で捕まるのは面倒なのでね」
「……随分余裕じゃねえか。まさかもう勝ったつもりかよ。小石一つすら碌に変えられない
「やはり目が良い。……いや、もしかしたらそういう異能でも持っているのかな?」
気楽に問いかける口調だが、こちらを刺すような視線には確信が乗っている。
流石にこれだけ声に出してヒントを積み上げたら察するわな。立場が逆だったとして、多分俺でも答えの切れ端くらいには辿り着けそうだわ。
……ま、どうでもいい。別にバレようがバレまいが、それ自体はどうでもいいことだからな。
「確かに当分は使えないだろう。君ほど正確ではないが、そのための力が枯渇しているのが何となく理解出来るからね」
「…………」
「だが、それ以上に滾って仕方ないんだよ。まるであの日のよう! 最初に感じた情動に支配される感覚の嵐のようにッ!! 君を殺せと、君の死に顔が見たいと心が躍っているのさッ!!」
……とても正気じゃない。変態ここに極まれり、目の前の女にはそんな罵倒がお似合いだ。
けれどその剥き出しの想いで動く様は、同時に人の輝きそのものなのだろう。少なくとも、俺は心の底で彼女を嗤い飛ばすことなど出来そうにない。
だってそれは俺も同じこと。美倉のり子が誰かを殺して悦を得るように、
……ああ。そう考えたらなんか初めて親近感湧いたよ。意外と似た者同士だったんだな、俺達。
「さあてそれではさよならだッ!! 今度こそ、私の記憶にしかと刻んであげよう。少年よッ!!」
西部劇のような静寂なんて訪れない。女は興奮のまま、無尽にこちら目掛けて突き進んでくる。
それを例えるのであれば二足の猪。荒々しく一点を目指すだけの、情動のみで躍動する獣のようだ。
常人の比ではない速度。十メートル程度の距離などあっという間に詰まっていく。
金槌を握る手に力が入る。鉄のように重い両足を奮い立たせ、迫る鬼へと静かに構える。
ああ大丈夫。ちゃんと計画通り。俺なら出来る。絶対俺なら成し遂げられるはず。
怯えるな。甘えるな。イキった口調のように、傲慢で生意気な大馬鹿者であれれば必ずやれるさ。
──だって俺は
「影収納ッ──!!」
本能に従い声高に叫びながら、足下の影にありったけの魔力を回す。
目前に迫る少女の足は、俺の影へと泥沼を踏んだみたいに勢いのまま沈み込む。
刹那に湧いた異常。女も罠に戸惑いを隠すことはなく、驚愕を顔に貼り付けながら姿勢を崩す。
回避も防御も不可能な勢いだけの前のめり。これこそが思い描いていた
大きく踏み込んで間合いに詰め、全力で金槌を振り抜き相手の頭蓋へ叩き付ける。
一瞬の硬さを突き抜け、後は柔らかなものを抉るような感触とどこかの骨がねじ曲がる感覚が手に伝わってくる。
──嗚呼なるほど、これが人の命を奪う感触か。
「……はあーっ。疲れたァ」
勝った。
荒れた息を整えながら勝利の実感に、そしてそれと同時に人を殺したという事実が心を満たす。
そうだ。俺は人を殺した。例え相手が悪人で正当防衛だったとしても、俺は自ら選んで殺人鬼と同じどぶ底まで堕ちたのだ。
果たして殺す必要があったのか。殺す以外で上手く場を収める手段があったのか。
そんなことは分からない。知る必要もない。どんなに最善の道があったとしても、俺はきっとこの道を選んだだろうから。
「……あーあ。月がきれいだなァ」
嗚呼、不謹慎だがどことなく風が心地好い。マラソン大会で無事完走出来た後のよう。
割れた窓から零れる月光は、そんな俺を祝福するかのように照らすのみ。
これが殺人童貞の卒業式。今度こそ俺を一般人へと戻れなくする、夢への最後の一押しだった。
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