鬼ごっこ
俺が小学生の頃、血染めの銀行強盗と呼ばれる事件が起きた。人質であった罪無き十人を、そして取り押さえようとした警官を一人殺害したことから、現代における最悪の一つとして数えられる大事件だ。
テレビでは最早金より人殺しを目的としていたとまで考察され、その端正な容姿も相まってネットの末端では“狂い華”なんてご大層な畏怖と憎悪をぶつけられていたらしい。そんな頭のおかしい殺人鬼の死刑は確定だろうと、当時の大人達は誰もが口を揃えて言っていたものだ。
そしてつい先月。そんな悪の華の恐怖も名さえも人々の記憶から薄れた頃、そいつは再び茶の間を騒がせたのだ。
脱獄から一ヶ月。顔も割れているのに未だ警察の手から逃れ、世間は碌な情報すら掴めずにいる。
まさしく蜃気楼。吸えば死に至る煙が如く現代の雑踏に紛れた悪魔、それこそが
さて、そんなテレビの向こうの有名人の名前が目の前にいるわけだが。
正直本人だと思いたくない。だって見かけは間違いなくどこにでもいるおっさんそのものだもの。
けれど俺は知っている。ステータスは嘘つかない、だって誤表記を見たことないんだもん。柊くんも備考の通り熟女好きで三股だったもん。
「うん、いいね。君は動体視力に優れているね。正直避けられるとは思ってなかったよ」
「……そりゃどうも。こちとらまだまだ育ち盛りな十代だからね」
「威勢が良い。ええ、若者はそうでなくちゃね」
声は男のそれ。姿形も男装なんてちゃちな偽装じゃないのは目で分かる。
やっぱり固有かな。変身なんていかにもな名前の力がその姿を成り立たせているんだろうな。
「で、どうするの? 俺は今から交番に駆け込むつもりだけど、無様に尻尾巻いて逃げてもいいんだよ?」
「……ふむ。やはり君は惜しい。命の危機にその胆力、大人になればさぞや大成しただろうにねぇ!!」
俺の暖かな忠告を無視したのり子なおっさんは、欠片の容赦もなく踏み込んでくる。
えらく力の入った刺突。遊びとは違う本物の殺意が、今にも俺を襲おうとしている。
迎撃は多分不可能。まだいなす技術は練習中だし、刺すから切るに切り替えられれば対処出来るか不明瞭。そもそも相手の技量が定かで無いのだし、やはり回避の一択だろう。
ただ後ろへは意味が無い。道路に飛び出してもそれはそれで危ない。
だから正解は一つ。刹那の思考の後、今度は右後方へと飛び退きおっさんから距離を取った。
「……
二度目の刺突を避けられたおっさんは、先ほどまでと違い静かな驚きを見せてくる。
躊躇いのない本気の刺突。冗談などでは決して無く、体が動かねば間違いなくあの刃先は俺を貫いていた。
これが初めて人から向けられた、混じり気の無い本物の殺意。黒スライムとの殺し合いとは違う、欲と意志が詰まった人同士の争いか。
「だからこそ興味が湧いた。この状況でなお、そんな笑みを浮かべる君自身に」
指摘されて初めて気付く。自分が今、怯えではなく喜悦を顔に貼り付けていることを。
なるほど。この震えの大本は恐怖じゃあない。死の恐怖すら置き去りにする、それ以上の興奮なのか。
こいつにとって俺は獲物。けれど俺にとってもこいつは獲物。
かたっ苦しい言葉で修飾しようと変わりやしない。これは所詮、二匹の獣の食い合いなのだ。
……いいね。そんな風に考えたら、ちょっと盛り上がってきちまったぜ。
「もっと見せてくれ。もっと教えてくれ! 私の生に、君が深く残るようにっ!!」
今までの二撃とは違う、挨拶や様子見ではない本気の刺突。
先の回避では足りない。今度はただ突くだけに収まらず、命の根を切り取りに来るだろう。
……ま、関係ないね。このおっさんに何されようと、次に取るべき手は決まってるしな。
本気で地面を蹴り、おっさんごと飛び越えてそのまま速度を落とさずダッシュする。
こんな往来で本気の
「俺と
「……鬼ごっこか。面白い。たまの運動といこうじゃないか」
ナンパなら失敗確定な安っぽい誘い文句だが、おっさん(女)は笑顔で乗ってくれる。
さあ始まりました命懸けの鬼ごっこ。夜の都会の光に包まれながら、血生臭い
「へー死ぬ。まじ無理ぃ」
走って止まってを繰り返し、必死に逃げ惑う子羊役を演じ始めてどれくらい経っただろうか。
現在出発地点の公園から離れ、人の気配も薄い建物裏で息を整えながら、ぼろくそに弱音を吐いている最中だ。
反撃の糸口は未だ見つからず。というのもあいつの固有、当初描いた想像以上に面倒臭いのだ。
ちょっと目を離したと思えば、すぐに他の人間を皮を被って襲いかかってくる。それも不思議なことに服なんかも全面チェンジで。
ステータス機能に本名が付いていなければ何度死んでいたかわかりゃしない。いやー正直舐めすぎてたね。
「ほら少年、もうへばったのかいー? 追いかけっこは終わりかいー?」
余裕ぶって追跡者をやってくるおっさ……今はおっさんじゃなくて
甘ったるい声でのあからさまな挑発。最初は俺が有利とってたはずのに、すっかりあっちが狩人じゃないか。
乱れる息をどうにか最小限まで殺し、俺を捜す愉悦の声が遠ざかるのを待つ。
普通ならばこれで逃げ切れるはず。どんなに相手が俺を求めようと、人は広い街中で個人を捜せるわけがないのだから。
「そーこーかあぁ!!」
「ちぃっ!!」
至近距離に突如生えた若い女の声。咄嗟に地面を転がり、どうにか振り抜かれた刃を回避する。
まただ、またバレやがった。どうしてかは知らないが、あいつは何故か目前まで辿り着いてきちまう。
あり得ない。一度や二度ならともかく、流石にこれは多すぎるだろっ。
まるでこっちの居場所を知られているみたい。発信器が付けられていると言っても過言ではない補足の精度だ。
「はっ、はあっ、粘着ストーカーめ……。ころころと姿を変えやがって。握手会は一度がマナー、てめぇ俺のこと大好きなんかよ?」
「ふふっ、もしかしたら赤い糸でも繋がってるのかも。……しかし不思議だ。こうして別の皮を被ろうと君は当たり前のように見破ってくる。普通ならあり得ないことじゃないかな」
壁に刺さった包丁を抜き、刃を指で撫でながら不思議そうに首を傾げるお……JKのり子ちゃん。
ちっくしょう……。そんなあざとい仕草してんじゃねえよォ。ちょっと胸がきゅんとしちゃう程度には可愛いじゃねえか。
「さて。良い感じに運動出来たし、そろそろ幕引きにしようか」
「……つれないなぁ。んな愛らしい身なりなんだし、是非とも夜通し遊ぼうぜ?」
名称
レベル 7
生命力 70/200
魔力 40/200
肉体力 大体30
固有 変身 興奮原動
称号
備考 脱獄後の現在八人目。好きなのは人が苦しむ様
精一杯息を整えつつ、何か打開策はないかと相手のステータスを読み耽る。
とはいっても、体力と魔力が減っていること以外は最初見たときと一緒。それで何かが分かるわけもなければ、分かったところでどうにかなるわけでもない。
どうする? 戦うか? 影から金槌出して殴り合ってみるか?
……無理だ。正直勝てる気がしない。そもそもこんな往来で殺しちまったら、俺の方が問答無用で刑務所じゃねえか。
殺すにしても人気のない場所で。それも足の付かない方法で、だ。
今やるべきは時間稼ぎ。無駄な会話で間を誤魔化しながら、あの女の固有について考えるのみだ。
大事なのは最初の一言。ここが小休止か一拍になるかは、下手くそな俺の口次第だぜ。
「ふむ。真っ直ぐと魅力的な誘いではあるが、生憎君にそういう興味は持てないかな」
「……そら残念。まさか偽りババアにまでフラれちまうとはね」
「ババア? 生憎君にそのような姿、見せた記憶は無いのだけど」
──そら食い付いた。案の定、このワードなら興味を持ってくれると思ったよ。
全力で脳を回しながら、それでも想定通りに応えてくれた彼女へほくそ笑む。
その通り。こいつがこれまで俺に見せた姿はおっさん、リーマン風の男、JK、JKその2の四つだけ。老婆や中年の女みたいな如何にもなババアはお出しにされていないのだ。
けれども俺はババアとはっきりと口にした。苦し紛れの罵倒ではなく明確に意味を込めて。
それに気付かないわけがないだろう。散々こちらを追い詰めてくるこの女であれば、必ず。
しかし四つの顔で残りが40か。……嗚呼成程、それなら辻褄が合うな。
「しっかしかつての大悪党がこんなにこすい弱い者いじめに勤しんでるとは泣けてくるねェ。これじゃあお茶の間も昔ほどは騒がず終わりだろうよ」
「……何が言いたいんだ、君。もしや気でも狂ったか?」
「正気も正気よ。なあそうだろ? 女に化けるときは若作りしかしない、年齢コンプな
心底侮蔑を込めながらその名を告げてみれば、彼女は大きく目を見開いてくる。
ようやくその余裕たっぷりな面を歪ましてやれたぜ。ちょっとだけ胸がすっとしたわ。
「醜い容姿に化けないのは女のプライドか? 違うだろう? 顔や服は自在でも体型は大きく変えられないんだ。てめえの変身、元のサイズからはそこまで離れられねえんだろ?」
「……やはり君は興味深い。だがそれ以上に危険極まりないな」
ビンゴ。どうやら的中らしい。たった今思いついた推測だってのによ。
だがここまで分かれば簡単だ。後はどうにか撒いて反撃に出ればそれで勝ち──。
「遊びは終いだ。そして最後に一つ訂正してあげよう。私を暴き、事態が有利に進んでいると錯覚している、君のその思い上がった勘違いを」
「ああ?」
「恐らく君はこう思っているのだろう? 私の力を姿形を変えるだけでしかないものだと」
顔から笑みを消したのり子は包丁の刃先を向け、淡々と言葉を飛ばしてくる。
……嫌な予感がする。かろうじて成立しているせめぎ合い、その根本を崩されそうな不安を。
「獄中にて目覚めた私の力。それは自らの体を変えるだけではなく、物すらも作り替えることが出来るのだよ」
「物? ……まさか」
「そうとも。私が別の人間へ化けるように、この包丁もまた別の形と移り変わるのだよ」
女の手の中にある包丁が光を纏い、まるで自ら暴れるかのように形を変えていく。
三秒にも満たない間。たったそれだけで家庭を支える刃だったはずのそれは、人の命を奪うための道具へと。
「銃……? まじかよ……」
「ご名答。ではお別れだ、勇敢で無謀な少年よ」
最早相手を見る余裕すらなく、見覚えのある黒い兵器から逃れようと足を動かす。
くそがッ、銃とか反則だろうがッ!! んなもんあるなら最初から使っとけよ、ぬか喜びさせやがって!!
「ぐッ──!! っそがァ!!」
肩に掛かる衝撃。尋常じゃない衝撃が突き刺さり、灼けるような痛みが思考を塗りつぶす。
痛い、痛い痛い痛いッ!! 涙なんかじゃ表現出来ねえぞこれッ!!
今にも倒れて喚きたくなるが、痛みごと噛みちぎる勢いで歯を食いしばりながら自分に鞭を打つ。
「そこがゴールで良いのかい? いいとも、もう少しだけ付き合おうじゃないか」
後ろで何か言っている気がするが、そんなことに構う余裕はなく。
逃げ込んだ先はそこそこ大きな建物。人の気配など無い廃工場らしき場所であった。
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