第6話
健太と良助はしばし携帯の画面に映る激しい攻防を見守っていた。
「なぁ、日銀が負けるなんて事あるのか?」
良助は素朴な疑問を口にする。それは健太が何度も考えた事がある事であり、昨日までは明らかな答えを持っていた。いや、今もその確信は変わらない。
「ない。理論上は。」
日銀はいくらでも国債を買い入れる事ができる。
もしあるとしたら、国際的な批判や政治的な判断でそれを止めざるを得ないとか、システムに障害が生じて買いが入れられないとかだ。
だが今のところそんな気配は見られない。
その証拠に金利は一進一退の攻防を繰り広げているからだ。
逆に売り崩しができたのは不意を突いたからと処理できる量一杯の売りが出ているからに違いない。一体どれだけの売買が成されているのか。
健太は内心で自分のポジションを全て処分した事に胸をなでおろした。一瞬株がどうなっているのかを見ようと考えたが、見るのが怖くてやめておいた。多分ネットも阿鼻叫喚だろう。健太はそんな地獄絵図を楽しむ趣味は持っていなかった。
「あ~、俺のボーナス大丈夫かなぁ。てか今国債買えば金利5%なんだろ?会社も買えばいいんだよな。保険の金利なんて1%なんだし4%も儲かるじゃん。」
確かにそれは一理ある。低金利の時代に5%付く国債は大きな魅力がある。
だが、それは事態が落ち着くのであれば、だろう。それに保険会社にそれを活かせる様な資金が十分に無い可能性だってある。むしろ今は損切にあくせくして売り方になってる可能性の方が高いかもしれない。
「賛成だ。お前んとこの社長に進言してくれよ。」
健太は本音も込めて呟いた。
「俺は社長様とはアワードで顔合わせたくらいで話したことも無いわ。」
「表彰されてもそんなもんなのか?」
良助は肩をすくめた。
「いや、他の人は知らんけど。まぁ上司と話するの面倒くさいし、全然いいんだけどな。しかし、これどうなるんだ?」
「俺も判らん。どうすれば日銀が負けるのかも想像つかないし、誰が何のためにこんな無謀な事をしでかしたのかも判らん。」
ここでこうしていても埒が明かないのでそろそろお開きにするか、と健太が考えたときメッセージアプリのダイレクトメッセージが届いた。
通知ウィンドウには知り合いの投資家のラブカブさんからだった。
少しだけ表示される内容には『FXヤバい』と出ていた。
それを見た健太は一瞬で血の気が引き、慌てて為替のサイトを開いた。
「ど、どうした?」
その様子を見て良助が戸惑い気味に声をかける。
しかし、健太はそれどころではなかった。
彼の眼には1ドル190円という数字が映っていた。この数時間であっという間に50円近く円安になったという事だ。
「ヤバい。」
「は?」
健太のつぶやきに良助は何があったのかと聞き返す?
「ヤバいヤバいヤバいヤバい!てかどうなってんだこれ?」
「っちょ、俺にも教えろよ。」
思わず立ち上がった健太に良助が説明する様に求めるが、健太にとって最早それどころではなかった。
「俺、帰るわ!」
健太は大慌てでジャケットを掴むと忘れ物が無いかを指さし確認してから席を離れようとした。それを良助が両手で健太の腕を掴む。
「ちょっと待て!ちょっと待て!」
「いや、それどころじゃないわ。離せ!」
「いやいや、てか金置いてけや。俺じゃここ払えんわ!!」
健太はそうだったと思いだして財布を取り出すとブラックに光るカードを良助に渡した。
意味が解らずカードを凝視する良助に、健太は無理やりカードを背広の胸ポケットに差し入れる。
「適当に払っといてくれ!」
あっけにとられる良助を置いて健太は改めて足早に店を出て行った。
それを見送りながら良助は「マジかよ」とつぶやいていた。
健太はタクシーに乗るとすぐに携帯で自分の証券サイトを開いた。
いつも6つのモニターを使ってトレードする健太は携帯の画面は小さすぎ、トレード関係の仕事をするときは必ず自分の部屋と決めており、携帯や外に出ている時は見ない様にしていた。
それが頭のオンオフを切り替える良い習慣だと健太は考えている。しかし、今日はそれが裏目に出た様だ。いや、一日で2億も稼いだのだから普通はそんな事を考える必要すらないはずなのだ。
揺れるタクシーの中でこの急激な円安がどういうことなのか考えようとするが、上手く頭が回らない。早く部屋に戻らなくては、とにかくあの部屋で情報を集めて考えなければ。健太の頭の中ではその様な事ばかりがグルグルと回っていた。
タクシーがマンションの前に着くと健太は交通系ICカードで支払いをして飛び出す様に車から出て部屋へ帰った。
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