第4話

健太は一度大きく深呼吸してから改めて考えをめぐらした。

彼は国債の暴落と日本の凋落を恐れていたが、一体それによって何が起こるのかはあまりイメージできなかった。


もちろん何度も考えてみた事はある。だが日銀が無制限に国債を購入できる今。国債の暴落がどうやって起こるのか、そこが先ず解らない。例え銀行が買わなくなったとしても日銀が無限に国債を購入する事で国債金利を維持し続ける事ができる。


彼の思考はそこでぐるぐると回り続け、そこから先がイメージできないでいた。


もし、遂に日本国債が売られ、遂に金利が上がり続けるなら、日経平均も当然下がり続ける。つまり日経平均を売っている健太は正しい選択をしていると言える。


だがしかし、本当にこれで良いのだろうかと健太は改めて考えを点検し始めた。

彼は机の端に置いてあるノートを引き寄せると空いているページを探し、そこにこれから起こるであろう事を書き出していった。


「もしも。もしも日本全体が金利が上がるほど売られているなら当然日経平均は下がる。なぜなら金利が大きく上がる事で日本は大不況に陥るからだ。」


そう言って国債売りという文字から日経平均に矢印を書き、その隣に、下げ圧力、と書き加えた。


「ってことは俺は現金範囲で売ってる信用売りをさらに売り重ねる方が有利だ。だけど、ここで日銀登場だ。」


健太は余白に日銀と書いて国債売りという文字に矢印を書いて、先ほどと同じ様に、買い支え、と加えた。


「そうなると国債価格はまた戻っていき、それに合わせて日経平均もリバウンドし始める。」


今度は日銀の文字から日経平均に向けて矢印を書いてから、リバウンド、と追記した。


改めてその書き出したシンプルな図を眺める。もしこれが機能しているなら国債金利は徐々に持ち直すはずだ。健太が考え事をしている間にも金利は遂に6.5%になっていた。しかし、先ほどと違い金利上昇スピードは徐々に落ち着き始めている様に見える。


果たしてこれは再度上げるための騙しなのか、あるいは日銀の買いが追い付き始めたのか。


6.75、6.80、6.80、6.80、6.75、6.80


健太は決断を迫られていた。

今この状態が先ほどの空売りを手じまいするタイミングなのか、あるいは犠牲者を増やすための誘いの停滞なのか。


6.75、6.80、6.75、6.70、6.75、6.70、6.75、6.80


いや、日銀は無制限に国債を購入できるのだ。

例え日銀以外が保有している発行国債全てが売りに出されたとしても日銀は国債を購入できるのだ。つまり正解は手じまいだ。


既に含み益は2億を超えている。

健太はぬぐい切れない不安を押さえつけて持ち分の全てを決裁する事にした。


それから、間違いなく取引が執行されている事を確認するために画面を操作して、取引状況画面を表示させる。


そこには間違いなく自分の全ての取引の執行を表す『約定』の文字が表示されていた。


「よし!」


健太はドカリと背もたれに身を投げ出してから目をつぶって大きく嘆息した。


彼は未だかつてこれ程大きな取引をしたことが無かった。

何せ自分の全財産の8割を取引に使ったのだ。


ふと、過去にシステムがダウンしている間に切り返して大損を喰らった人が居るという話を思い出し、改めて身震いした。


今、市場はかなりの売買がなされているはずだ。昔に比べればシステムも当然堅牢になっているはずだが、それでもシステムダウンが起こらない保証にはならない。


もし、システムがダウンして更に国債が切り返して、それに合わせて日経平均も大きくリバウンドしたら、この手にした一億円の利益は一億円の損失になっていたかもしれない。


健太は改めて約定している事を確認してから目の上をもんだ。


今日のこの張り詰めた出来事で彼の精神は既に疲れ切っており、しばしの休息を必要としていた。


国債価格は徐々に抑えられ、5.75%になっていた。

そのうち日経平均もある程度持ち直すのに違いない。


健太は自分の選択が正しかった事を確認して席を立った。

それから台所でコーヒー豆を挽きながらぼんやりと考えた。


多分今回の騒動もこれで終わりだろうし今日はもう取引を止めてゆっくりしよう、と。


マンションの外を見やると季節は既に秋に入っていた。健太の16階の部屋からは街を一望でき、紅や黄色に染まった木々が建物の立ち並ぶ隙間からチラチラと見えていた。


健太は便利なのでこの部屋に住み続けているが、正直言えば家ばかりが見える景色があまり好きではなかった。公園も小さく家々に押しつぶされそうになりながら点在している程度で木々はあまり目につかない。


コーヒーを啜りながら外を見ていた健太はつぶやいた。

「今日は豪勢に行くか。」


そう言うと彼は着替えてから家を出た。

しかし、この選択は大きな間違いであった。

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