第3話

それから二、三日。国債の値動きは小幅ながら着実に進み、今や1%を境に攻防を繰り返していた。この1%は日銀の最終防衛ラインだ。そして鉄壁のラインでもある。


日銀は日本円の発行元であり、金利の安定化のために国債を売り買いできる。そして、その売り買いできる金額には特に制限が規定されていない。これは日銀が無制限に買い入れする力を持っているという事に他ならなかった。


一昔前まで中央銀行は規律ある国債操作によって金利安定化を図るものと考えられていた。それはつまり通貨の野放図な発行は国に取返しの付かないインフレを引き起こし、国益を大きく損なうためそんな選択はあり得ないと考えられていたのだ。


しかし、日銀はそれをやった。それを果敢な挑戦と呼ぶべきか、無謀な蛮行と呼ぶべきか、とにかく日銀は無制限に国債を買い集め、当時の防衛ラインである0.25%を死守したのである。


それ以降、金利防衛への挑戦は投資家にとって禁忌として理解されていた。とは言え日銀もその横暴な振る舞いをずっと続けられるとは考えてはおらず、ある程度の配慮をしながら今の金利幅に落ち着いたというのが現状だ。


つまり原則として金利が1%を超えるという事はあり得ない。もちろん瞬時に超える事はあっても、介入によってすぐに引き戻されるという事だ。なので目の前の事態についても基本的にはあり得ない事なのだ。


そう言ったわけで、健太はこれをどこかの銀行かファンドが現金を必要としてやむを得ず売り続けているのだと結論していた。なのでどこかで落ち着くに違いないと想定した。だが連鎖的に別の銀行なりが売りに出して大きく市場が動きだす可能性もある。


なので事態が明らかになるまで健太はただじっと待つことにした。


健太は遂に差し掛かった防衛ラインでの攻防の様子を眺めながら、手持ち無沙汰にいくつかの株を適当にトレードしていた。そうしながらもちょくちょくニュースを探しにいくのだが、その動きを説明する様なニュースは相変わらず見つけられない。


自分の資金が何も生み出さずに豚積みされている状態にイライラしながら、状況が判るまでは我慢と何度も自分に言い聞かせ、御遊び程度の取引でどうにか精神を安定させようと少額取引を繰り返す。


しかし、長年一回の取引で400万、500万の損益を目安にやっていたため数万の動きは非常に緩慢に感じられイライラは募るばかりだ。さりとていつ状況が動き出すのかも判らない状態で、気分転換に旅行に行くというわけにもいかず、PCから離れられない。


「は~あ。なにこれ。とっとと動けや。」


健太は愚痴ともつかないつぶやきを口にして、椅子をリクライニングさせながら後ろ手に頭を上げてモニターを睨む。


その瞬間、国債金利が一気に動き出した。

1.015、1.020、1.025、1.030、1.040、1.050


「え、うぉ、っちょ!?」


あまりになんの前触れもなく願た通り事態が動き出したことに、健太は慌てて上体を起こそうとしてバランスを崩し、椅子から半分ずり落ちた。


それでも健太は投資家の意地で机の端にしがみつき、頭の直撃を避けながらモニターから目を離さない。


その間にも金利は上げ幅を広げており、今や1.25%になっている。


「売り!売り!売りなきゃ!!」


最早椅子に座り直す猶予もなく、舌をもつれさせながら健太は膝立ち状態でキーボードを引き寄せ、日経の先物を資金の80%近く、10億円をつぎ込んで売り浴びせた。


既に日経平均はその日だけで660円も下落をしていたが、そんなのは些細なものだった。その証拠に日経平均は更に値を崩し、どんどんと下がっていく。


国債金利も容赦なく下げ続け再度確認した時には2%を超えている。

それにつられて日経平均も更に840円下げていた。健太の含み益はあっという間に3000万円近くになっている。


時間にすると僅か7分の出来事である。


更に健太は油断なく金利動向を注視する。彼の予想ではそろそろ日銀が介入に動き出すはずだ。そうなったらリバウンドが起こり、一気に押し戻されるはずである。

そのタイミングで自分も一度利益確定し、場合によっては再エントリーだ。


2.150、2.155。2.160、2.160、2.160


動きが止まった。

きっと介入に動き出したのに違いない。

国債を売りに出さなきゃいけなかったヤツも買い手が出てきて安心して売れるってもんだな、そんな事を考えながらタイミングを計る。


2.160、2.160、2.165、2.165、2.170・・・


「は?」


金利は止まらなかった。それどころかまた徐々に上昇を始めた。

全く想定していなかった動きに健太は呆然とした。


「うそ、だろ?」


彼が呆然としている間にも金利は遂に3%を超え、日経平均は前日比2500円を超えて下げていた。彼の含み益はどんどんと膨らみ、既に1億近くになっている。


「もしかするとシステムエラーか?」


ふと思いついた不安に、彼は別のサイトや証券会社での金利や日経平均を確認する。しかし、どのサイトも他生の時間差こそあれ同じような数字を映し出していた。


健太は震えた。喜びに打ち震えたのではない。このわけの解らない事態に恐怖を覚えたのだ。頭はフリーズし、次に何をすべきか全く考える事ができなくなっていた。


ここで手じまいすれば大きく利益を上げる事ができる。しかし。そう、しかし、だ。何かただならぬ違和感がある。何かを見落としている?いや、今できるベストが選択されているはずだ。


いつの間にか金利は4.15%に達し、日経平均は3500円を超えて下落していた。


想像もつかない、全く想像もできない何か、そんな具体性もない恐怖が手じまいのボタンを押す事を躊躇させている。


そして、健太は思い至った。

遂に健太が恐れていた事が起こったのではないかと。

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