第24話 バスルームの攻防

 中流区で個人馬車を拾い、特区へと急いでもらった。


「ここね」

地図の場所へ辿り着き、大きな扉の横にある呼び鈴を押してみた。


「こんにちは、ストーリーギルドの者です。現場対応のために来ました」

すぐにお手伝いさん風の格好の女性がやってきて、中へ通してくれた。

「このバスルームです」

と教えてもらう。

「コンコン、ストーリーギルドの者です。現場対応のために来ました」

とドアを叩いて告げた。


「入って」

と中から声がした。

ドアを開けると、三十代前後の、派手な化粧の小太りな女性が立っていた。

「ストーリーギルドのマルヴィナ・ヨナークです。今回は申し訳ございませんでした」

とりあえず謝罪してみた。

「こっちよ」

女性は、マルヴィナを中まで招き入れた。それは通常よりもだいぶ広いバスルームだったが、中に入ってみると、確かに魚を飼うための大きな水槽が床に置いてあり、そこら中が水浸しになっている。


「ほら、この状況、どうしてくれるの?」

と少し怒ったような顔で言った。

水槽はどうやら広い洗面台に置いてあったようで、そこには端のほうが水浸しになった分厚い本も開いて置いてあった。どうやら業務物語のようだ。その横で、何匹かの金魚が力なく横たわっていた。

「たいへん申し訳ございません、すぐに修正した業務物語を持ってきますので」

もう一度謝罪したマルヴィナ。なんとなく聞いてみた。

「ちなみに、どうしてこのようなことになったのですか?」


「え? えーと……」

女性はやや言葉に詰まりながらも話し始めた。

「それはわたしがビジネスのためにこの家に来ていて、どうしてもおトイレに行きたくなったからこのバスルームを借りたのよ。おトイレを済ませたあとに手を洗おうとして洗面台に行こうとしたら、そこの毛の長い絨毯に足を引っ掛けて……」

なるほど、とマルヴィナ。

「でも、確かに水槽をひっくり返したのはわたしだけど、その場合の対応を書いてないなんて、あなたたちは本当にうっかりしているわ、この状況をどうしてくれるの?」

女性が再び詰問した。


「ええ、このたびは本当に申し訳ございませんでした」

だけど、とマルヴィナ。なんとなく、この影武者はあまり有能でないと思い始めていた。

「これぐらいの状況だったら業務物語を見なくても、その場の機転でなんとかなるのではないかしら? 一度、その大富豪本人に謝ってみたら?」

逆に聞いてみた。

「それはもう試したわ」

その女性はマルヴィナに反論されて少し泣きそうな顔になっていた。それで? とマルヴィナが促す。


「それで、ピエールは別にそんなのはかまわない、あとで片付けておくからって言ってたけど……」

「え、じゃあそれで解決じゃないのかしら?」

「ううん、そんなことはないわ。この大富豪の世界は、本音と建前で成り立っているのよ。だから本心は別のことを考えているのよきっと。わたし、このビジネスが失敗したらもう終わりだわ。どうしよう……」

とさらに泣きそうな顔になる。

そんなことがあるのかな、と思いつつもマルヴィナは、さらに言った。

「本当の大富豪ならこの程度のことで怒らないわ。それに、あなたは影武者なんだから、もっと機転を効かせるべきよ。この程度のことでつまずいていたら、これから先影武者なんて務まらないわよ」


だが、その女性はマルヴィナの言葉にややキョトンとしている。

「え、わたし、金融ギルド長だけど?」

影武者って何? という顔をしている。

「え? あなた影武者じゃないの? その業務物語も影武者ギルド向けでしょ?」

「え? それはそうだけど、わたしは影武者じゃなくて金融ギルド長本人よ」

それが何か? という顔をしている。さらに、

「だいたい、こっちはお客よ? あなたこそ何か偉そうなことを言っているけれど、いったい何様なの? それだけ偉そうに言うなら、何かやったことがあるの?」


「ええ、わたしは影武者の経験もあるけど、こう見えてもわたしも防衛ギルドのギルド長本人だし、それに皇帝本人よ」

「え?」

「え?」

お互いに、疑問符が付いた顔でしばらく見つめあった。

それから数分かけて、マルヴィナはなんとか実状を聞き出した。

「なるほどね」

とやっと合点がいったようだ。


「あなたは金融ギルド長で、でも最近来た影武者が優秀すぎて、この業務物語三〇〇〇影武者ギルド向けを読んで勉強すれば、って言われたのね」

それにうなずく女性。

「わたし、実はドジでおっちょこちょいなの。金融ギルドを起業して、やっとなんとか軌道に乗ったんだけど、中小だから、ちょっとのミスでお釈迦ポンになるのよ」

と泣き出してしまった。女性の化粧が溶けて目の下が黒くなる。マルヴィナは、女性をなだめつつもギルド起業は意外と誰でも簡単にできるのかな、と少し思ってしまった。


「ま、待って、そうだ!」

そこでマルヴィナが何かを思いついた。

「水槽に水を入れましょう」

と金融ギルド長に手伝わせて水槽に水を張り直す。

「ええ、半分ぐらいでいいわ」

そして、そこにぐったりと横たわった金魚を戻していった。

「無理よ、彼らはもうあの世に行っているわ」

金融ギルド長が言う通り、金魚たちは水槽に戻してもぐったり浮かんでいるままだ。


「ええ、でも、あなた少し向こうを向いて目を瞑って、耳を塞いでいてくれる?」

と女性に頼んだ。女性が素直にそうすると、

「アーウームー……、屍体招魂」

小さく呟き、しばらく待つ。

「もういいかしら?」

と女性が目を開いて聞いてきたので、もう少し待ってと告げた。

すると、ぴちゃっと音を立てて金魚が跳ねた。

「よし、やった!」

マルヴィナがぐっと拳を作り、すべての金魚が元気に泳ぎ始めた。


金融ギルド長も振り返ってそれを見て、

「え? どうやったの? すごい……」

驚いて水槽を覗き込む。

「金魚鉢を倒してしまったけど、生き返らせてすべて解決、というストーリーでどうかしら?」

マルヴィナがさあご覧あれと胸を張ると、そこへ、

「トントン」

ドアを叩く音がした。


「どうぞ」

金融ギルド長が答える。

「入っても大丈夫ですか?」

男性の声だ。

「大丈夫です。もう片付きました」

そして、入ってきたのは、やはりマルヴィナの元担任のピエールだった。

「金魚を元に戻しておきました!」

金融ギルド長の女性がピエールに胸を張って水槽を手で差し示した。


「おお……」

ピエールもやや驚いている。

「では、あとはこちらで片付けておきますので」

とピエールが言ってから、マルヴィナのほうをちらりと見た。

「ピエール、わたしよ」

とマルヴィナ。

「ん? えっと……、どなたでしょうか?」

ピエールが考える素振りでそっと口ヒゲに触れた。


「わたしよ、マルヴィナよ」

そう言われ、マルヴィナの顔をじっくりと見つめるピエール。

「ん? ああ、マルヴィナか。こんなところで……」

やっとわかったようだ。人質用化粧で判別がつかなかったらしい。

「え? あなたたち知り合いなの?」

金融ギルド長が驚いている。

「ええ、彼女はわたしが教師をしていたころの教え子です」

そう言いながら、ピエールがマルヴィナとギルド長の顔を交互にチラ見した。


 そのあと広いリビングに移り、ピエールにも事情を説明した。

「なるほど、一般のギルドはストーリーを使用して業務を行っているんだね」

わたしにはあまり必要ないかもしれないが、とピエール。


「今回の件はもう解決だし、ビジネスのほうも問題ないわよね?」

まだ不安そうな顔の金融ギルド長の横で、マルヴィナがピエールに尋ねた。

「ああ、そこはまったく問題ない。わたしの金融資産の一部を預けて運用してもらう。仮にその全てが吹き飛んでも、わたしは大富豪でいくらでも富を生み出せるからまったく問題ない」

という言葉に、金融ギルド長の女性の顔がパッと明るくなった。

「やったわ」

マルヴィナと顔を見合わせた。


そこに、お手伝いさんが来客を告げた。

「スキンヘッド眼鏡の方が来ています」

通してくれ、とピエール。

入ってきたのは、大きな本を抱えたスキンヘッド課長だった。

「このたびはたいへん申し訳ございませんでした」

さっそく謝罪してピエールに本を渡そうとして、

「いや、こちらの方です……」

ピエールが遮ったので、

「あ、こちらで」

スキンヘッド課長が金融ギルド長の顔をチラチラと見つつ本を手渡した。


「では、これで解決しましたので、われわれは退出させていただきます」

スキンヘッドとマルヴィナが深々と礼をして、

「また落ち着いたら新しいアイテムを持って遺跡に行きましょう」

と言うマルヴィナに、ああもちろんとピエール。金融ギルド長も、顔の化粧はまだぐちゃぐちゃだったが、笑顔で手を振った。


 豪邸を出て個人馬車を拾い、帰る道すがら。

二人乗り馬車でストーリーギルドの建物へ向かうマルヴィナとスキンヘッド。

「もしかして、今がチャンスかしら、思い切って言っちゃおうかしら。でも、なんて理由を言えばいいだろう?」

マルヴィナの中である思いがうずまいていた。


「新しい仕事を始めたいので、かな? いや、何かもっと、嘘でもいいから簡単に納得してもらえそうな理由を言ったほうがいいかな。お母さんが病気だとか、お父さんが死んでゾンビになって介護が必要だとか……」

職場に戻ってしまう前に、できれば言ってしまいたい。思い切って話しかけた。


「あの、スキンヘッド課長……」

「ん? なんでしょうか?」

「あの、わたし、この仕事を辞めたいんですけど……」

と理由を続けようとすると、

「ああ、そうですか、わかりました」

とマルヴィナのほうを向いて特に表情を変えないスキンヘッド課長。


「では、そのようにわたしから部長に伝えておきます」

と告げると、また正面を向いてしまった。

どうやら、特に問題なく退職できるようだ。

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