第15話 夏の終わり

 ついにその日がやってきてしまった。


けっきょく、その夏は遺跡に泊まりで行ったのも一回きりで、それ以外はほとんど何もしないのんびりした日々を過ごしてしまったのだ。


「行ってきまあす」

マルヴィナは、元気なく告げて家を出た。すでにクルトと二コラは出勤したあとのようだ。

「憂鬱だなあ……」

ギルドが始まる九月の初日が月曜日だということも、マルヴィナの気持ちを重くさせていた。


アパートから最寄りの下流区定期馬車停へ歩いていく。

「あ……」

途中の小川の橋を渡ったとき、そのまま土手をぜんぜん違う方向へ歩いていきたい気分に駆られた。

「遅れたらだめなんだから」

その魅力的な気分に必死に抵抗しつつ、馬車停をめざす。

「人が並んでる」

すでに多くのひとが馬車を待っていた。マルヴィナがそこに並ぶと、すぐに馬車がやってきた。乗り込む。


「混んでるなあ」

その馬車は困窮区を発して、下流区のいくつかの馬車停を通ってきたからだろうか、座席は満席で、立って乗るしかなさそうだ。天井近くの手すりを掴むと、馬車が走り出した。

外の見慣れた景色も何の面白みもない。

「憂鬱だなあ」

一週間前に、ギルドから封筒が届いたのだ。それには、ギルド採用が決まったことと、九月の最初の出勤日についての案内が書かれていた。


「あれが来なかったら、すっかりギルドのことも忘れていたかもしれない」

ふつうに考えたらそんなことはあり得ないが、そのまま何もない日々を過ごすことを妄想してみた。いや、最近そんなことばかり考えてしまっている。

「ふだんのんびりして、モンスターと遭遇してもいいからたまに遺跡に行く、みたいな生活できないのかなあ」

思わず本音が出た。慌てて周りを見回す。彼女の声は幸運にも馬車が石畳を走るガタゴトという音でかき消されたようだ。

「うわあ……」

その時気づいた。馬車に乗っている全員が、明るい灰色か、暗い灰色か、黒い服を着ていた。そういう自分も、全体的に明るい灰色の服装だ。


「上流区二丁目、上流区二丁目、ストーリーギルドへお越しの方はこちらでお降りください」

御者の甲高い声が聞こえてきた。

いつの間にか、手すりを掴んで少しうつらうつらしていたマルヴィナは、慌てて馬車を降りた。

「あれね……」

ギルドの建物は、面接で来たときは大きな希望の象徴に見えたが、今見ると巨大な威圧感を与える存在になっていた。


「まるで、墓標ね」

というたった今自分の中に生まれた印象を、敷地から建物玄関に近づくにつれてどんどん消していく。その印象を消し切らないと、建物に入るという決心が折れそうだ。

たくさんの人とともに建物へ吸い込まれていく。

「おはようございます」

面接に来た時とはまるで違う、ほとんど消え入りそうな声で挨拶し、守衛のほうも挨拶を返したのか、マルヴィナのほうを見たのかすらもわからない。


人の流れに乗って、木造の昇降機に乗った。

「七階だったかしら」

昇降機は木のからくりで停止している階がわかるようになっており、その表示はこの建物が八階まであることを示していた。

「ちーん」

と音がして、各階に止まり、どんどん人が降りていく。六階でほとんど人が降りて、マルヴィナともう一人だけになった。

「ちーん」

七階に到着し、そのひとりになんとなく付いていく。昇降機乗り場からすぐの扉を入ると、そこは広いギルド職場だった。机がたくさん並んでいる。座って作業している者、忙しく行き来している者。


マルヴィナが圧倒されて立ちすくんでいると、

「あら、マルヴィナ・ヨナークさんかしら?」

一人のおばさんが話しかけてきた。

「新人さんね、わたし庶務をやっているの。課長さん呼んでくるからちょっと待っててくれる?」

そういうと、ショムと名乗ったおばさんは行ってしまった。


「君がマルヴィナ君か。わたしが課長です。君の席まで案内しましょう」

中肉中背の、頭を完全に剃り上げてスキンヘッドにした眼鏡の中年の男性が立っていた。

案内されるままに歩いていく。それは、その職場の一番端の隅っこの席だった。左隣で少し若そうな男性が忙しそうに作業している。

「さあ、ここが君の席です。どうぞ座ってください」

マルヴィナが椅子に座った。机の上には、少し左の端にクッションに乗った人の頭より少し小さいぐらいの大きさの水晶。机の中央に、升目に文字が書かれた厚紙のシート。机は対面にずっと並んでおり、白い仕切り板が張ってある。


「これは最新の水晶器です。これから基本的な使い方と初期設定を行っていきましょう」

そのスキンヘッドの男性は、見た目に反して丁寧な話し方だった。説明をしようとその男性がマルヴィナの右横にしゃがみ込む。

「はい」

そう答えて横を見ると、先ほどの隣の男性もその水晶器を使っているようだ。よく見ると、水晶から光が出て、ただの仕切り板だと思っていたところに当たっている。

「ほう……」

その白い仕切り板に何かが投影されていて、その男性がトントンと机の上の升目に文字が書かれた厚紙を叩くごとに、その文字が投影されているようだ。


「こんなの、初めて見た」

と目を戻すと、

「じゃあ、水晶器を起動させるので、そこの水晶の頭を、時計回りに円を描くように触ってもらえますか?」

スキンヘッドがマルヴィナに指示する。

「こうかな」

しばらく円を描いていたが、水晶が光りだすこともなく、一向に何も起きない。


「あ、そっちの水晶の頭です」

そう言われて、マルヴィナは水晶ではなく、その右横にしゃがむスキンヘッドの頭を右手で触っていたことに気づいた。

「あ、はい……」

慌てて左手を伸ばして水晶の頭をなでる。すると、水晶が光り出し、目の前の仕切り板に何かを映し出した。

「そこに、あなたの名前と暗号をすでに設定していますので、このとおり入力してください」

そう言いながら小さな紙切れを机の上に置いた。


「こ、これを……」

升目の文字の位置をひとつずつ教えてもらいながら、打ち込んでいく。

「そう、そして、この決定マスを押してください。そう、ターンと」

厚紙上のそのマスをタンと押すと、矢印のようなマークが出てきた。

「はい、それで完了です」

あとはそこの説明書を読んでください、と言い残して、そのスキンヘッドは行ってしまった。

「説明書……」

たしかに足元に小さな本棚が置いてあり、そこに屍道書とあまり変わらない大きさの、背表紙に水晶器説明書と書かれた分厚い本が置いてあった。


「これね」

さっそく取り出して机の上にドスンと置いて、本を開いた。

ページをさっそくめくると、まず、この本に関する注意事項が書かれていた。

「この本は、雨天で使用できません。水に漬けてはいけません。ふむふむ、なるほど」

どんどん読み進めていく。

「この本は、火にかけてはいけません。文字が読めなくなるため、汚れに気をつけてください。足で踏んではいけません。耐重量十キログラム……」

そういったことが、絵付きでずっと書かれていた。目次を見たいと思ったのだが、なかなか目次にたどり着かない。


「ふむふむ、なるほどう」

読み飛ばすのもどうかと思い、真面目に読んでいたのだが、少し飽きてきた。

ふと水晶器を見て、さっき起動させるときは時計回りに触ったのだが、反時計回りに触るとどうなるのだろう、と思ってしまった。そう思ってしまうとどうしても気になって、手を伸ばしてやってみた。

「きーん」

水晶器が低く唸りだした。

「え? なにこれ……」

音がだんだん大きくなる。同時に、ピカピカと光を発し始めた。


「きーん!」

さらに音が大きくなり、

「え? え? どうしよう?」

まわりの人が顔を上げ、マルヴィナが慌てだしたとき、

左隣の男性が作業をやめて手をのばし、マルヴィナの水晶器の頭をなでた。すると、音と光が止まった。無言で自分の作業に戻る男性。

「す、すみません……」

小さな声で一応謝っておく。

また説明書に視線を戻した。今度は水晶器に関する注意事項だ。


「水晶器を火にかけてはいけません。水晶器を凍らせてはいけません。最低温度マイナス十度。水晶器を踏んづけてはいけません。耐荷重二十キロ。汚れた場合は、乾いた布で拭いてください。日なたには置かず、日陰の風通しの良いところに置いてください」

なるほどなるほどと読み進めていくが、さらに水晶器を置くクッションの注意事項が続き、クッションカバーの取り替え方や洗濯の仕方が書いてある。

やはり飽きてきた。

「どういう仕組みになっているのかな?」

水晶器の操作が気になって、厚紙のマスを適当に押してみようと思った。


トン、と適当なマスを指で押すと、その文字が板に表示される。どんどん色々なマスを押してみると、押すごとにその文字が表示された。

「へえ、なるほど。でも……」

どういう機能があるのかまるでわからない。

「そうだ」

と思い、決定マスを押してみた。すると、白い板の次の行に矢印が投影されるだけで、特に何も起きない。


「何か、入力にルールがあるのかな?」

と、ふとその向かい同士に立てかけてある板の角度が気になって、直そうと手を触れた。すると、

パタンとその白い板が向こうに倒れてしまい、向こう側のひとが顔をあげた。さらに、

「パタン、パタン……」

隣の机の板がそれにつられて倒れ、それがさらに連鎖していき、そこに座っていたひとたちが顔をあげていく。ついに、二十ほど対面に並んだ机の一番向こうまで板が倒れてしまった。

「あ……」

マルヴィナが驚いて固まっていると、


その人たちが無言でその板を向かい合わせに立ててなおしていく。マルヴィナが使っていた板も、向かいの人が無言でなおし、みんなが自分の作業に戻った。

「す、すみません……」

口の中で小さく謝り、説明書に顔を戻すマルヴィナ。


ギルドの初日がそうして始まった。

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