第34話 チェックメイト

 和樹は公衆トイレの前に向かった。榎本の死体が忽然と姿を消していた。神隠しにでもあったのだろうか?

 スマホを見たら約束の時間の10分前になっていた。史帆がいなくなれば、ライバルも減るし、デスゲームの得点にもなるし一石二鳥だ。

 エレベーター前でホテルマンに鉢合わせした。おそらくまだ、20代だ。

「トイレの前で死体見つけてビックリしましたよ、お客様に驚かせるといけないからゴミ置き場に運びましたけど」

「あっ、そう……」

 

 貫一郎には「一応挨拶しておきたい」と話してトイレに身を隠した。スマホでラスボスの藤原秀郷について調べた。

 藤原 秀郷は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。別名は、俵(田原)藤太。

 室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山を八巻きした大百足退治の伝説で有名。滋賀県大津市の瀬田唐橋に銅像がある。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出し、近代に正二位を追贈された。


 生年は不詳とされるが、「田原族譜」によると寛平3年(891年)とされる。いずれにせよ、将門討伐のときにはかなりの高齢だったといわれている。


 秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行の廉で下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。


 天慶2年(939年)、平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。この時、秀郷は宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。また、この時に秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている。


 複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している。この功により同年3月、従四位下に叙され、11月に下野国(栃木県)の国司である下野守に任じられた。さらに武蔵国(東京都・神奈川県・埼玉県)の国司である武蔵守、および鎮守府将軍も兼任した。


 将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は史料にほとんど名前が見られなくなる。没年は「田原族譜」によると正暦2年9月25日(991年11月4日)に101歳で亡くなったとされるが、「系図纂要」によると天徳2年2月17日(958年3月10日)に亡くなったとされる。


「俵藤太物語」にみえる百足退治伝説は、おおよそ次のようなあらすじである。


 琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した。


 俵藤太の百足退治の説話の初出は『太平記』十五巻といわれる。しかし『俵藤太物語』の古絵巻のほうが早期に成立した可能性もあるという意見もある。御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わり、説話はさらに広まった。


 御伽草子では、助けをもとめた大蛇は、琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身して藤太の前に現れる。そして百足退治が成就したのちに藤太を竜宮に招待する。ところが太平記では、大蛇は小男の姿でまみえて早々に藤太を竜宮に連れていき、そこで百足が出現すると藤太が退治するという展開になっている。

 百足は太平記では三上山でなく比良山を棲み処とする。百足が襲ってきたとき、それは松明が二、三千本も連なって動いているかのようだと形容されているが、三上山を七巻半する長さだったという記述が、『近江輿地志略』(1723年)にみえる。


 唾をつけた矢を放つとき、御伽草子では、八幡神に祈念しており、射止めた後も百足を「ずたずたに切り捨て」た、とある。


 俵藤太物語では竜女から無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち、竜宮に連れていかれ、そこでさらに金札こがねざねの鎧や太刀を授かる。


 時代が下ると、褒美の品目も十種に増える。そして太刀にも「遅来矢ちくし」という号し、赤堀家重代の宝刀となったという記述が『和漢三才図会』(1712年)や『東海道名所図会』(1797年)にみえる。


 鎧が「避来矢ひらいし」号し、下野国の佐野家に伝わったという異文が『氏郷記』(1713年以前)にみつかり、異綴りだが「平石ひらいし」と「室丸むろまる」の2領が竜宮の贈物だったという、新井白石『本朝軍器考』(1709年)の記述となかば合致する。


 鍋には「小早鍋」、俵には「首結俵」という呼称があった(『氏郷記』)とする記載もみえる。


 伊勢神宮には、秀郷が所有したと伝わる刀剣が二振り奉納されている。ひとつは百足退治に際して龍神から送られたという伝来のある毛抜形太刀(伊勢)で、赤堀家重代の宝刀だったものが複数の手を渡り伊勢に所蔵されることになったと説明される。もうひとつは「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で、8世紀の刀工、神息の作と伝わるが、14世紀頃の刀剣と鑑定されている。このほか滋賀県竹生島にも秀郷奉納と伝わる毛抜形太刀(宝厳寺)が存在する。


 三井寺の梵鐘に後日談があり、「弁慶の引きずり鐘」の故事として知られる。武蔵坊弁慶が鐘を山上まで叡山に持って行ったが、鐘を撞くたびに三井寺に「いのういのう」としか鳴らなかったという伝説がまつわる。


 御伽草子「俵藤太物語」の下巻では、平将門討伐が描かれる。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。

 

 ノックの音が聞こえた。スマホをジーンズのポケットにしまい、ホルスターからジュニア・コルトを出して息を殺しながらドアを開けた。

「生きていてよかった」

 涙を流しながら史帆は愛する息子を抱きしめた。

 和樹は焦点を彼女の背中に合わせ、引金を弾いた。史帆は反動でバンザイするようにして撃たれた。背中から血飛沫が上がり、吐血しながら史帆は死んだ。


 和樹3点、虫丸1点、史帆2点。

 

その後、和樹は神奈川県逗子市に逃れ、明石様、

後追い小僧、大首、川天狗、逆柱さかばしら舞首まいくびなどのモンスターを倒し、残り1匹を倒すだけとなった。


 

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