第17話 犯罪合法化

 応仁元年(1467年)5月、東軍はかつての播磨守護赤松氏の一門赤松政則が山名分国の播磨国に侵攻し奪還した。また武田信賢・細川成之らが若狭国の一色氏の領地へ、斯波義敏が越前国へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。


 そして、5月26日に京都での戦いが始まる(上京の戦い)。夜明け前、東軍は成身院光宣(興福寺衆徒)が室町第西隣の一色義直邸に近い正実坊を、武田信賢が実相院を占拠した。武田信賢・細川成之の軍が続いて一色邸を襲撃し、義直は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。細川勝元は戦火から保護するという名目で室町第を押さえて将軍らを確保し、自邸(今出川邸)に本陣を置いた。勝元は匿っていた畠山政長を含む自派の諸将兵に応じるよう呼びかけた。また西軍についた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された。

 

 京都で開戦した26日、西軍は斯波義廉(管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が山名宗全邸南側の細川勝久邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。東軍の赤松政則は南下して正親町を通り、猪熊に攻め上って斯波勢を退け、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之邸に逃げ込んだ。西軍は勝久邸を焼き払い、さらに成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿・革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが東軍の抵抗で勝敗は決せず、翌日両軍は引き上げた。この合戦による火災のため、京都は北の船岡山から南の二条通りまでの一帯が延焼した。将軍義政は28日に両軍に和睦を命じ、勝元の行動を非難しながら、義就には河内下向を指示し、また伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど乱の収束と復権に向けた動きを取っていた。


 ところが6月3日に勝元の要請によって将軍の牙旗が東軍に下され、足利義視が総大将に推戴されたことで、戦乱は拡大する方向に向かっていく。東軍は軍事行動を再開し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに将軍義政が降伏を勧告すると斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが。東軍は義廉邸も攻撃した。京都は再び兵火に巻き込まれ南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。義廉・六角高頼・土岐成頼はいったんは降伏の意向を示したが、東軍に激しく抗戦する朝倉孝景(斯波氏宿老)の首級を条件とされたため断念した。


 西軍は6月14日に大和国の古市胤栄、19日に紀伊国の畠山政国などの援軍が到着し始めたが、8月23日に周防国から大内政弘が伊予国の河野通春ら7か国の軍勢1万と水軍2千艘を率いて入京して勢いを回復した。同日天皇・上皇が室町第に避難し、一郭が仮の内裏とされた。一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡した。この頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。


 大内政弘は8月中に船岡山に陣取った。9月1日に攻めかかった武田勢を畠山義就・朝倉孝景が追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。6日に将軍義政は再度義就の河内下向を命じたが、義就は従わず戦いを続けた。9月18日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡には斯波義廉が陣取り、また義就は宗全邸の西に進出し、東軍は劣勢に立たされた。


 朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、12月5日(12月31日)に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。


 応仁2年(1468年)3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。5月2日に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。


 管領斯波義廉は西軍に属したものの、将軍義政から直ちに解任されなかった。将軍が主宰する御前沙汰なども管領不在のまま行われていた。だが、応仁2年(1468年)、幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に義廉は和睦を提案し、山名宗全と畠山義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、7月10日に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる。


 応仁2年(1468年)9月22日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏10月16日には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。11月23日(12月19日)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。


 一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく。


 大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり(西岡の戦い)、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。文明元年(1469年)には九州の大友親繁・少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(1470年)2月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。


 これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。

 

 比企は奇神館にやって来た。チェックインを済ませ、『210』に入った。アタッシェケースを開けた。ケース内には2つの武器が保管されてある。

 1つはマチェテ(スペイン語)という中南米の現地人が使う山刀だ。マチェット、マシェット、マシェティは、同様の刃物に対する英語による呼称である。

 もう1つは手榴弾。

 手榴弾は、陸軍における最も基本的な武器のひとつである。ほとんどの兵士達は基礎訓練過程で小銃射撃と共に手榴弾の投げ方を習う。現代戦においても、歩兵として戦う兵士にとって手榴弾は不可欠の装備であり続けている。


 手榴弾をより遠くに飛ばす装置として擲弾筒、いわゆる擲弾発射器(グレネードランチャー)が存在する。現用の擲弾発射器は手榴弾とは異なる弾薬を使用するようになっている。


 ヒトは進化の過程で、石程度の物を正確に遠くまで投擲することにかけてはどんな動物よりも高度にこなせる能力を獲得した。この能力は戦争にも発揮され、熟練した投擲手の投石は、弓矢や初期の銃に匹敵する威力を発揮した。近代-現代にかけての投擲手は小型の爆弾を投げるようになった。このような過程から洗練され、生じた兵器が手榴弾である。


 手榴弾は球状や筒状の形をしており、内部に炸薬および信管、撃発装置を内蔵する。手榴弾にはいくつかの種類があり、炸裂時に周囲に生成破片を飛散させるものは破片手榴弾(フラグメンテーション)あるいは防御手榴弾と呼ばれる。爆風効果などにより狭い範囲へのみ殺傷効果をもたらすものを攻撃手榴弾(コンカッション)として区別する。外側にアタッチメント式の弾殻を追加することで、攻撃手榴弾と防御手榴弾とを組み替えられる製品も存在する。手榴弾と一般に呼称されるが、破片を撒き散らす「榴弾」に限定されるものではなく、様々な種類があり、煙幕を展開するもの、光や音で撹乱を引き起こすもの、火炎を広げるものなど、多彩な用途に存在する。


 弾体部分は信管と爆薬を内部に収容しており、信管の撃発装置に安全ピンなどの安全装置が取り付けられている。通常は暴発事故や使用時の不発を予防するために、信管は工場出荷には別途梱包され、使用前に初めて弾体に組み付けられるのが一般的である。

 

 比企が持ってるのはM67破片手榴弾だ。アメリカ軍およびカナダ軍で使用されている破片手榴弾で、 1950年代から使用され続けていたM61手榴弾の後継として導入された。弾殻の内面には細かいスタンプ加工が施されており、炸裂の際に破片の大きさが均等になるよう考慮されている。その形状と梨地仕上げの本体の印象から『アップル・グレネード(リンゴ型手榴弾)』『ベースボール(ここでは野球ボールの意味)』とも呼ばれる。

 

 テレビでお笑いをやっていたが、臨時ニュースが飛び込んできた。国会議事堂が乗っ取られ、備後びんご首相が人質になっているという。現場の状況が映し出された。ピエロの仮面を被った奴が首相にマシンガンを突きつけている。

『全ての人間に犯罪が出来るようにしなさい』

 ピエロの声は男だ。学者みたいな口調だ。備後ってどことなく辰巳琢郎たつみたくろうに似てるな?と、比企は思った。

 ピエロの他にウーパールーパーの仮面の奴、熊の仮面の奴がいた。ウーパールーパーはオートマチック拳銃を手にしており、熊は斧を手にしている。  

『そっ、そんなこと、出来るわけないだろう?』

『ほう、そうか?』

 ピエロはマシンガンをバーコード頭の議員に向けて撃った。バーコードは蜂の巣になって、ダンスを踊るように死んだ。

 議員たちの悲鳴が響き渡る。

 比企は一瞬、ドラマだと勘違いしたが、これは真実だ。

『備後さんって、白金高輪しろがねたかなわに住んでますよね? 息子さんはすめらぎ高校の2年生だ。仲間が学校の近くで待機している』

『息子には手を出すな!』

『コイツみたく死にたくないだろ?』

 ピエロがマシンガンの銃口を津久根つくね議員の死骸に突きつけながら言った。

 津久根は無免許運転をしたクズ議員だ。比企はざまあみろと思った。

『わっ、分かった。全ての国民の犯罪を許可しよう』

 

 

 

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