第15話 応仁の乱

 比企充ひきみつるは群馬県大泉町にある自動車工場『プレアデス』に派遣されていたが、経営難によりリストラの対象になっていた。無職になったら滅茶苦茶金がかかる。比企は35歳だが、これまでも災難だった。

 比企は、大学卒業後、大手旅行会社に就職した。彼はいつも真面目に仕事をこなし、お客様に満足していただけるように努力していた。しかし、ある日、彼の会社は、東日本大震災で大打撃を受け、経営が危機に陥ってしまった。彼が29歳のときだ。

 比企は、これまでの経験を活かし、会社の立て直しに一人で立ち向かうことに決めた。彼は、社長に協力してもらい、新しい商品開発や宣伝活動を行った。また、家族や友人にも協力を仰ぎ、お客様の利便性を向上させるための取り組みを行った。


 比企は、夜遅くまで働き、寝る時間もほとんどなかった。彼は諦めずに粘り強く戦い続けた。その結果、体を壊してしまい3ヶ月も入院することになった。会社に戻った彼に居場所はなくなっていた。部下にどんどん追い抜かれて、30歳の誕生日の日に辞職した。転職活動は地を這うように大変だった。10社落ちて、正社員として働くことを諦め、派遣会社『メテオ』に転職して『プレアデス』に派遣されることになった。畑が違うので慣れるまでに時間がかかった。

「やっと軌道に乗り始めていたのに」

 比企は友人から『将門伝サドンデス』の存在を教えられ、藁をも縋る思いで参加した。


 20日の11時過ぎ、比企は宇和島市立伊達博物館にやって来た。1974年に開館している。

 昭和47年(1972年)の市制50周年記念事業の一環で、伊達家屋敷跡に建設。慶長19年(1614年)、伊達政宗の子である伊達秀宗が初代宇和島藩藩主となり、以降9代藩主伊達宗徳に至るまで当地を治めた伊達家伝来の貴重な史料や、宇和島に関する文化遺産を展示する。構内には芝不器男および松根東洋城の句碑、8代藩主伊達宗城像などがある。


 所蔵品のうち豊臣秀吉画像(国の重要文化財、宇和島伊達文化保存会所有)が著名である。


 開館から40年以上に経って劣化となり、近い将来起こるとされている南海トラフ地震・津波などの対策の耐震性が満たさないため、市が設けた「建替委員会」の会合で、天赦公園内に移転することが決まった。

 

 比企は『幻想将門伝』を起動させた。比企は将門に『ムサシ』と名づけていた。ムサシは平良正を倒し、レベル2になったばかりだ。

   

 博物館では様々な時代にタイムスリップ出来ることが出来る。星5つなら幕末時代、星4つなら戦国時代、星3つなら室町時代、星2つなら鎌倉時代、星1つなら古代にタイムスリップする。

 この博物館の評価は3.8、ムサシは室町時代にタイムマシンでタイムスリップした。


 室町時代といえば応仁の乱だ。

 応仁元(1467)年から文明9(1477)年までの11年間、管領細川勝元かんれいほそかわかつもとの東軍と山名宗全やまなそうぜん持豊もちとよの西軍が戦った内乱。 京都が主戦場となりました。

 

 1336年、後醍醐天皇と対立した足利尊氏が持明院統(北朝)の天皇を擁立し幕府を開いたが、1392年、3代将軍義満によって南北朝が統一され、最終的に武家が優位に立った。将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる守護大名がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した(室町幕府-守護体制)。


 義満が京都北小路室町に花の御所を造営して以降、歴代将軍を室町殿むろまちどのと呼んだことから、その政権を室町幕府、時代を室町時代と呼ぶ。なお、将軍の政権・支配機構を指して「幕府」という言葉を用いるようになるのは後世のことである。


 義満の時代に国内は安定したものの、応仁の乱(1467年から1477年)ないし明応の政変(1493年)以降は全国動乱の時代(戦国時代)を迎え、それまでの幕府 - 守護体制・荘園公領制が崩壊するとともに、各地に独立勢力とも言える戦国大名が並立するようになる。


 室町時代は、鎌倉時代以前には見られない出自不明の農民・商人層の社会進出を可能とし、日本史上初めて顔が見える民衆を登場させた時代でもある。旧勢力の没落と新勢力の興隆の時代として捉えることができる(→下克上)。戦乱が続く時代だったが、経済面においては農業・工業ともに技術が向上し、生産も増大、内外の流通が盛んになった。文化面の充実も著しい時期である。


 また、この時代において、ほんの些細ないざこざ(例えば、頭を下げる下げない、笑った笑わない、等)で民衆或いは武士をも巻き込む大騒動に発展することが日常茶飯事だった(「太平記絵巻」にその様子が描かれている。)といわれ、これには幕府も手を焼いた、という。そのため、紛争を解決するために第三者が仲裁役(中人)を務める慣習があった。


 ムサシがやって来たのは応仁の乱真っ只中だ。

 

 応仁の乱の西の総大将、山名宗全やまなそうぜん祈祷師きとうしから「儂は未来が見える。この後、西軍は消滅する」と残酷な事実を打ち明けられる。

 この乱は、複数の守護大名家の家督争いや将軍家の後継問題、有力大名の細川勝元と山名宗全の幕政をめぐる主導権争いなどを要因として、全国の諸大名が東西両軍に分かれる形で応仁元(1467)年に勃発。 双方で寝返りが相次ぐなど混迷を極めた戦乱は11年にわたって続き、主戦場となった京都の荒廃や室町幕府の衰退を招いた。


 文正元年(1466年)12月、7年前の追放以来畿内近国で抵抗・逃亡を続けていた畠山義就が大軍を率いて上洛し、千本地蔵院(京都市北区)に陣取った。これまで連携していた細川勝元と山名宗全であったが、畠山氏の継承問題を巡っては立場を異にしていたため、両畠山の抗争が再び中央に持ち込まれ緊張が高まると対立するようになる。


 年が明けて1月2日(1467年2月6日)、将軍義政は正月の恒例である春日万里小路の畠山邸(政長側)への御成を取り止めて室町第に義就を招き、さらに追い討ちをかけるように山名邸の酒宴に出席して義就・宗全側を支持する姿勢を示した。1月6日には政長の管領職を罷免し、畠山邸を義就へ明け渡すよう命じた。これに対して勝元は室町第を包囲して将軍から義就追討令を得ようと企図したが、勝元夫人(宗全の娘)が事前に宗全に情報を漏らしたため、宗全・義就・斯波義廉(管領)が先手を打って室町第を占拠し、勝元側は御所巻に失敗した。


 1月18日(2月22日)、政長は自邸に火を放って上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷き抗戦の構えを見せた。義就は天皇や上皇らも室町第に避難させて将軍とともに抱え込み、勝元・政長・京極持清の兵がこれを御所巻にした。ここに至って将軍義政は畠山氏の私闘への関与を禁じたが、宗全や山名政豊(宗全の孫)・斯波義廉・朝倉孝景(斯波氏宿老)らはこれに取り合わず義就に加勢した。義政の命に従って政長への加勢を止めた勝元は「弓矢の道」に背くものとして非難を受けた。義就側は釈迦堂から出兵して御霊社の政長軍を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけて自害を装い逃走した。勝元邸に匿われたといわれる。


 山名宗全らが室町第を占拠したことで幕府中枢から排除された格好となった細川勝元は、御霊合戦の後も没落せずなお京都に留まり続けていた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていたが、勝元も代々管領職を務める細川京兆家当主の立場で独自に(管領の職務である)軍勢催促状や感状の発給、軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行った。そして四国など細川氏一族の分国からも兵を京都へ集結させるなどしたため緊迫した状態が続いた。3月5日に改元されて後の応仁元年(1467年)4月に細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。また細川方の兵は宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。


 宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上の兵力だったというが、これは誇張と考えられる。京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。守護分国の分布では、東軍が細川氏一族の畿内と四国に加えその近隣地域の自派の守護、西軍は山名氏の他に細川派の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は細川氏・畠山政長・京極持清・武田信賢に文正の政変で失脚した赤松政則・斯波義敏を加えた顔ぶれで、西軍の主力は山名氏・斯波義廉(管領)・畠山義就・一色義直・土岐成頼・大内政弘であった。


 ザコキャラ100匹倒すと次のボスが現れる。

 

 ムサシは山名宗全と結託し、細川勝元を倒すことにした。勝元は妖怪を召喚する能力があった。

 最初の敵は隠神刑部いぬがみぎょうぶだ。

 伊予国(現・愛媛県)松山に伝わる化け狸。『証城寺の狸囃子』『分福茶釜』と並んで日本三大狸話の一つに数えられる『松山騒動八百八狸物語』に登場する。

 

『松山騒動八百八狸物語』とは、享保の大飢饉に際して起こったお家騒動が1805年(文化2年)に実録物語『伊予名草』と題して書き下ろされ、さらに江戸末期、講釈師の田辺南龍により狸や妖怪の要素を加えた怪談話に仕立て上げられ、これが講談として広まったものである。そのために講談師の切口次第で複数のバリエーションがあるが、話の大筋は以下の通りである。


 四国は狸の民話・伝説が多いが、特に松山の狸は天智天皇の時代に端を発するほどの歴史を持ち、狸が狸を生んだ結果、その数は808匹にもなった。その総帥が隠神刑部である。隠神刑部は久万山の古い岩屋に住み、松山城を守護し続けていたという化け狸であり、808匹の眷属の数から「八百八狸はっぴゃくはちたぬき」とも呼ばれる。四国最高の神通力を持っていたともいう。


 名称の「刑部」とは松山城の城主の先祖から授かった称号であり、城の家臣たちから信仰され、土地の人々とも深い縁を持っていた。松平(久松)隠岐守の時代にお家騒動が起こると、隠神刑部は謀反側に利用され、子分の狸たちに命じて怪異を起こして謀叛側に助力した。


 しかし怪談『稲生物怪録』で知られる藩士・稲生武太夫が、宇佐八幡大菩薩から授かった神杖で隠神刑部を懲らしめた末、隠神刑部は808の眷属もろとも久万山に封じ込められた。その洞窟は、山口霊神として今でも松山市久谷中組に残されている。

 

 博物館近くの雑木林に隠神刑部は現れた。隠神刑部は神通力を駆使して、ムサシの動きを封じ込めた。悪戦苦闘していると後ろから二階堂博之が現れた。彼もセミナーの参加者だ。三好勇の助言通り、火槍を手に入れ平良正を倒した。今のところ倒した妖怪は30匹だ。二階堂は松山駅近くのゲーセンで『悪狼あくろう』を手に入れていた。

 悪狼は、将棋の駒の種類の一つ。本将棋にはなく、大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋・大局将棋に存在する。すべて共通する動きで、前三方と真横へは動けるが、後ろ三方へは動けない。

 成ると金将となり、真後ろへ1マス動くことができる。大将棋の駒としては、成駒が元の駒の完全上位互換であるが、新たな動きが1マス追加されるだけの2種類の駒のうちの1つである(もう一つは醉象→太子)。大将棋では、成って初めて後退ができるようになる6種類の駒(鐵将・石将・桂馬・香車・悪狼・歩兵)の内の1つであるが、その中で唯一生駒の状態で横に動ける。

 本ゲームでは神通力の防御が可能だ。

 二階堂はあっという間に隠神刑部を倒した。

 

 


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