第2話 猛虎降臨


『ドラクエウォーク』などはレベルが上がるにつれ、魔法を覚えるが、このゲームでは平安将棋の駒を集めないと覚えられない。

 平安将棋は、日本の将棋類の一種であり、二人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種である。


 鎌倉時代初期に編纂されたとされる習俗辞典二中歴(平安時代後期に成立した掌中歴および懐中歴の合本)に、平安大将棋とともに掲載されている将棋である。この中では単なる『将棋』という名前であるが、後の小将棋や現代の本将棋と区別してこう呼ばれる。


 文献に載っている将棋の中では、最も古いものである。タイの将棋類であるマークルックと類似しているため、東南アジア伝来説が有力視されている。


 将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、南北朝時代に著された『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡ふじわらのあきひらの著とされる『新猿楽記』(1058年 - 1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。


 考古資料としての発掘は1980年代から相次いだ。現状、最古の駒は奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。


 三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年 - 1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋が取り上げられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。ただし平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。


 最古期の駒が発掘されるのは寺院に多く、僧が関わっていたとみられるが、一方で正倉院に囲碁・双六はあっても将棋は無いことから貴族への普及はその後と推測され、日記に登場するのは平安後期である。平安時代の駒は近畿だけでなく全国から発掘されている。これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある。


 古将棋においては桂馬の動きは、チャトランガ(インド)、シャンチー(中国象棋)、チェスと同様に八方桂であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、ほかの駒とのバランスをとるために八方桂から二方桂に動きが制限されたといわれている。


 これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。


 13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。15~16世紀ごろ(室町時代)には小将棋から醉象が除かれて本将棋になったと考えられる。このころに「将棋を指す」という表現が定着したとされる。元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年 - 1555年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない。室町末の厩図屏風には、将棋に興ずる人々が描かれている。


 16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。1707年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。ほかのルールは現在の将棋とまったく同一である。

 

 3日 (水)

  北朝鮮、中距離弾道ミサイルのノドンと見られる弾道ミサイル2発を西部から日本海に向け発射、うち一発は発射直後に爆発、それ以外は秋田県男鹿半島沖の西方250kmの日本の排他的経済水域(EEZ)内に落下。北朝鮮の弾道ミサイルの弾頭部分が日本のEEZ内に着水したのは初。


 和樹は『浦島食品』に派遣されていた。工場でカニカマを造るのが仕事だ。

「物覚えが悪い!」と、上司の柿沼東光かきぬまとうこうから蹴りを入れられた。和樹は殺意を覚えた。

 18時に仕事が終わり、工場の周辺を歩きながら『将門伝サドンデス』で遊んでいた。

 ザコキャラ100匹を倒すと次の中ボスと戦うことになる。残り70匹だ。

 ダイダラボッチが現れた。山や湖沼を作り出した巨大な妖怪。各地に様々な伝承があるが、巨人信仰から生まれたといわれる。

 危険性 ★★★

 容姿タイプ 人間型 動物型 植物型 器物型     建造物型 自然物型

 能力・特性 怪力、巨体


 踏みつぶされないように気を付ければ特に危険はない。むしろ人を助けたという伝承も少なくないので、うまく共生できれば人にとって恩恵ある妖怪だ。

 将門は回転しながら菊池千本槍でダイダラボッチを倒した。残り69匹。


 コンビニの近くにやってくると夜行やぎょうさんが現れた。

 首切れ馬に乗って道をうろつく妖怪だ。夜行日に現れ、外を出歩く者を馬の脚で蹴り飛ばして殺すという。

 危険度 ★★★★★

 容姿 人間型 動物型 植物型 器物型 建造物型 自然物型

 能力・特性 蹴り飛ばし

 夜行さんはダイダラボッチとは比較にならないくらい強かった。菊池千本槍では全く歯が立たずに、秒殺されてしまった。

 駒を集めた方がいいと和樹は思い立った。

 コンビニに入り、幕の内弁当とお〜いお茶のペットボトルを買って、イートインスペースで食べた。スマホに『将門伝 将棋の駒』と打ち込んだ。

 サクランボってハンドルネームの奴が、『ゲーセンを巡るといい』と書いている。

 コンビニから歩いて5分のところにある『アミューズメント浦島』にやって来た。

 久々に『ストリートキラー3』で遊んだ。トラで戦ったが、ジンギイーにボロ負けした。

猛虎もうこ』の駒を見つけた。猛虎は、将棋の駒の一つ。本将棋にはなく、平安大将棋・大大将棋・大局将棋に存在する。


 大将棋の猫刄と全く同じ性質の駒で、成ると金将になるのも同じ。

 平安大将棋から移行したと考えられる大将棋では、動きが変更された上で同じ音の『盲虎』に置き換わったと考えられている。


 ゲーセンから出るとダイダラボッチが現れた。『猛虎』の駒には虎の怪物を召喚させることができる。ダイダラボッチは虎に喰われて死んだ。

  

 ぬらりひょんやのっぺらぼう、一つ目小僧などを倒し残り50匹となった。

 

 21時にドラゴンパレス浦島に戻って来た。家賃は3万だ。上の階の茶髪のガキの足音がうるさくて睡眠不足だ。

 シャワーを浴びて、缶ビールを飲んで寝た。

 

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