第19話
日本に到着したのは21時前で、実家に着いたのは23時を過ぎていた。
「ただいま。」
郊外にある実家には、母がほぼ一人で住んでいる。
「おかえり!出張大変だったねぇ。」
母はいつもは寝ている時間なのに、私の到着を待ってくれていた。
「ごめんね、遅い時間まで起こしちゃって。」
「なに気を遣ってるのよ。お風呂追い焚きしといたから、入ったら?」
荷物を客間に運び、お風呂の準備を取り出す。実家と言っても、両親は私が就職して家を出てから公団住宅に引っ越したので、私の部屋はここには無い。
お母さんにお土産のホワイトコーヒーを渡すと、「あら、これ美味しいわよね!明日職場に持っていこう。」と鞄にしまっていた。
「飲んだことあるの?」
「うん。お父さんが、買ってきてくれたことある。」
お父さんは報道カメラマンで、世界各地を飛び回っていて、家にいるイメージがあまり無い。
お母さんは高校の英語の教師で、私はそのお陰で英語が得意科目だった。
「お母さんは、いくつまで学校に勤められるの?」
今年でもう62歳のはずだ。お父さんは64歳だったはず。まだ高齢とは言えないかもしれないけど、定年の60歳は過ぎている。
「定年再雇用で65歳までは勤務する予定。その後は、海外に移住でもしようかなって考えてるのよね。お父さんも、ハードな仕事はそろそろ卒業して、風景写真とかを撮りたいそうよ。」
そんな計画を考えていたのか・・・。
私が就職先と家を出ることを決めたとき、両親は畏まって私に話したことがある。
「あなたはあなたの人生をこれから歩んでいくんだから、お父さんやお母さんのことは何も心配しなくて良いからね。自分の幸せを第一に考えて生きていきなさい。」
お風呂にゆっくり浸かっていると、そんなことを思い出した。
幸せかぁ・・・。
リーリの笑顔が浮かんでくる。
お風呂から出ると、お母さんはもう寝ているようだった。明日は平日だ。
遅い時間になってしまったけれど、リーリに電話をして良いかメッセージを送ったらかかってきた。
『ごめんね、遅い時間に。』
『大丈夫だよ!日本の方が時間が進んでるんだから、もっと遅い時間だよね。寝る前に声が聞けてよかった。』
空港で見送ってくれた時は、なかなか手を離せなくて、辛かったな。
『久しぶりの日本はどお?』
『すごく暑い。そっちの方が過ごしやすいよ。そろそろ寝なくちゃ。明日、大事な会議があるし、実家から会社までの移動に1時間半かかるから早く起きなきゃいけなくて。』
昨日の夜まで一緒に寝ていたので、ひとりの布団は寂しいな。
『一人で寝るのがこんなに寂しくなるなんて思ってなかったよ。つい最近まで一人が当たり前だったのに。』
同じことを思っていて、『私もまったく同じことを思ってた。』と笑ったら、ため息が聞こえた。
『早く課題をクリアして、一緒に住みたい。』
彼の決意に似た言葉を、その時はあまり重く受け止めてなかった。
翌日、慣れない実家からの移動に苦戦しながらも、なんとか始業の20分前に会社に到着した。
「島田さん!おはようございます。おかえりなさい!」
柴田さんがロッカーで声をかけてくれて、出張中のお礼とお土産を渡すと喜んでくれた。
「鈴木くんの様子はどお?」
「飯田部長がいなくなってからは、変わった様子はないですよ。」
メンタルも持ち直したようで良かった。
フロアに入り、システム部管理課の方にも出張から帰ってきたことの報告とお礼をして、自席に座る。メールのチェックをしていると、鈴木くんと木下くんが出社してきた。
「おはようございます!」
鈴木くんの元気な声が響いた。彼の明るい声に、私は何度も元気を貰ってきた。木下くんもその声に続いて「おはようございまーす」と軽い感じの挨拶をしている。
「おはようございます!」
笑顔で挨拶を返すと、鈴木くんは嬉しそうに席に寄ってくる。
「島田さーん、待ってましたぁ。」
「僕も待ってました。よろしくお願いします。」
2人と挨拶をして少し話していると、始業開始のチャイムが鳴って、部全体の朝礼へと移る。部長がいないので、管理課の宮本課長が全体をまとめてくれている。
私が出張から帰ってきたことを全体にも伝えてくれて、私の挨拶が終わると、管理課の主任から、今後の体制はどうなるのかという質問があった。
「今日、会議で決まる予定です。憶測や不確かな情報に惑わされないように、気を引き締めて下さい。」
宮本課長は厳しい表情で主任に回答し、朝礼が終わって、課での朝のミーティングに移った。
「しばらくこっちにいなかったからちゃんと把握できてなくて申し訳ないんだけど、みんなが抱えてる業務と進捗を確認させてください。」
本来なら飯田部長から引き継ぐところだけど、いないので仕方がない。確認が終わると、意外と業務は滞っていなかった。
「鈴木先輩が、島田さんが帰ってくるまでは俺が頑張らなきゃって頑張ってたんです。柴田さんは僕にOJTで色々教えてくれました。」
「木下さんは私や鈴木さんの業務のサポートも能動的にやってくれて、捗りました。」
「柴田さんと木下くんは、俺が部長に捕まってると、それとなく間に入ってくれたり、内線に出るのも率先してくれたのでありがたかったです。」
みんな、助け合って成長してる!
良いと思ったところを列挙して讃えると、みんなも嬉しそうにしてくれた。
今後の予定を詰めてミーティングを終わらせ、常務から召集された会議に出るため、会議室に向かっていると、宮本課長が声をかけてきた。
「長期出張、大変でしたね。」
「いえ、工場立ち上げ時のシステム構築に携われることなんてあまり無いですし、勉強になりました。でも、その間に鈴木くんたちが大変なことになってしまって、残念です。」
会議室に到着すると、まだ誰も来ていなかった。
「飯田部長も、だんだんヒートアップしてしまって、もう許容の範囲を超えたと感じたところで私が総務部に報告しました。鈴木くんが鬱病になる手前で良かったです。」
お礼を言って席に着くと、コンプライアンス企画室の担当者と総務部部長、一般管理部門の担当常務が入室し、会議が始まった。
コンプラ企画から、飯田部長から鈴木くんへのパワハラについて客観的に認められる証拠としての動画を見せられ、けっこう酷く怒鳴られていたことが分かった。
「当事者である飯田さんと鈴木さん、その他回りの社員に聞き取りを行いました。飯田さんは、なんとか彼に成長して貰いたいという気持ちが前に出すぎてしまった、とのことです。鈴木さんからは、飯田さんの気持ちは分かってはいるものの、長時間、みんなの前で怒鳴られたりしたことは苦痛だった、と教えていただきました。後半では、鈴木さんは医務室で胃薬を貰って飲んでいたようです。」
会議室はピリピリとした空気で、常務がゆっくりと口を開いた。
「飯田部長は今回の不祥事の責任を取る形で、関連会社に出向することに決まりました。システム部は部長が不在となり業務が滞るため、当面は宮本課長に部長代理として業務に当たっていただきたいと考えています。宮本課長は部長代理と兼任で忙しくなると思いますが、よろしくお願いします。」
宮本課長が、厳しい表情のまま「分かりました」と承諾してくれたので、私もほっとした。
よろしくお願いしますの気持ちで頭を下げると、微笑んで会釈をしてくれて、良好な関係でいられるといいな、と願う。
飯田部長は、根は優しくて情に厚い人だと思うし、私も助けられたり教えられたりとお世話になってきたので複雑な心情で、たぶん宮本課長も、鈴木くんも同じように複雑な気持ちなんだろうな。しかし、ルールを逸脱してしまった以上、この処遇は仕方がない。
お昼休憩になり、お母さんが作ってくれたお弁当を屋上で食べることにした。今日は雨が降っているから誰もいないはず。
雨が掛からない場所にあるベンチに座って、懐かしい味を楽しむ。
雨音を聞いて、雨を見ながら食べるお弁当は癒される。
空と水溜りの写真を撮って、「"Rain in Japan"」と、リーリに送っておいた。
ただそれだけのことだけど、近くで会話をしているような気がする。
扉が開き、誰かが屋上にやってきた音が聞こえた。癒しの時間を邪魔されたような気分で、お弁当を食べるスピードを速める。
「島田課長。」
声の主を確かめて目が合うと、彼は勝手にベンチに座ってきた。
「木下くん。なに?お昼ごはん食べたの?」
「食べました。ここの食堂最高です。ってそんなことより、いつになったらブロック解除してくれるんですか?」
あぁ、忘れてた・・・。
「ごめん、ブロックした後、リストから削除しててどうにもならなかったです・・・。」
「言ってくださいよ、マジで酷いです。」と言いながらスマホを出してきたので、もう一度友だち登録をした。
「仕方ないじゃない。当時は本当に印象悪かったし。」
「そうですよね。自分でも何やってたんだろうって思ってます。」
ほんとに思ってるのかな。
「急にアルバイト辞めた理由が、ブロックをはずして欲しいからって言ってたって、あのお店の子がわざわざ教えてくれたけど。ほんとなの?」
「ほんとですよ。あの時、何かが刺さったんだと思います。今はもう、ゆくゆくヤれたらいいなとか思ってないですから。もっと好きだったこととか、やりたかったことを思い出しました。ああいうアプリもすっかり熱が冷めてやってないです。」
変なちょっかいもかけてこないし、真面目に仕事してるし、きっと本当のことであることはなんとなく分かった。
「これからは、同じ会社の社員として、よろしくお願いしますね。顔文字はあまりビジネスライクじゃないからやめてね。」
「はい!島田課長の仕事、リスペクトしてます!顔文字は感情表現としてビジネスの場でも有効だと思います。今まではビジネスライクじゃなかっただけだと思うので、これからも使いつづけます。」
そんなに固い意思で顔文字を使っていたのね・・・。こういう新しい考え方も必要なのかもしれないな。
「相手を見て使うのも大事よね。木下くん、世渡り上手そうだからうまく出来そうだけど。」
「その辺は自信あったはずなんですけど、昔色々あって人間不信気味になり、まだ本調子じゃないです。無難なところで使います。」
私は無難ってことか。まぁいいけど。
彼は左手首に着けているスマートウォッチを確認して「コーヒータイムなので失礼します。」と言って屋内に戻っていった。すっかりこの会社にも馴染んでいるようだし、本当は良い子そうでよかった。
システム部が新体制になり、社内ではパワハラ防止のルール作りや意識改革への取り組みが強化されつつある。
新規開発課のみんなも平和を取り戻して、本社の生産管理システムの入替プロジェクトに課員全員で対応を始めた。
製造部やアプリベンダーとのやり取りは毎日のようにあり、出来るだけ完成された形で納品して貰うために交渉する。
忙しい日がまた続き、実家通いもだんだん苦痛になってきた。次の休みに、候補にあげている賃貸物件の内覧に行きたいけど、リーリが私の両親に挨拶に来てくれることになっている。
親に挨拶って、結婚を認めて貰う挨拶だよね。その挨拶が終わったら、入籍するの?そしたら、私は仕事を辞めてマレーシアに行かなきゃいけないのかな・・・。
だんだん不安になってくる。リーリと逢えるのは嬉しいのに、なんだか心から喜べていない気がする。
モヤモヤしていたら、リーリから申し訳なさそうに来日を延期していいかと連絡があった。
『Markがその期間にこっちに来てくれることになって。本当に申し訳ないし、ご両親にも印象悪くならないか心配なんだけど・・・。』
ちょっとほっとして、『大丈夫だよ!せっかくMarkくんが来てくれるんだからそっちを優先していいよ。両親にはまだ言ってないから、心配しないで!』と伝えると、『え?』と怪訝な声が返ってきた。
『まだ言ってなかったの?』
『うん。なかなかタイミングがなくて・・・。』
実家から通っているのに、母とはすれ違うくらいでしか会えていない。言い淀んでいる訳じゃないんだけど、分かってくれるかな・・・。
『分かった。とりあえず、今回の日本行きはキャンセルするよ。』
ため息が聞こえる。なんだかとても不安になってしまった。
『両親にちゃんと言ってなくてごめんなさい。』
『いいよ。』と言いながらも、彼が不機嫌な空気が伝わってくる。
『次に逢えるタイミングで、しっかり話をしよう。電波では届かないものもあると思う。』
しっかり、どんな話をするのかな。やっと出逢った幸せがまた遠退いていくような気がして、大きな不安に気持ちが沈んでいった。
リーリが来る予定だった日に、賃貸物件の内覧を済ませ、やっと引っ越し先を決めることができた。短期で退去する場合を考えて、割高だけど、家具付きのマンスリーマンションに決めた。
ダブルベッドの部屋を選んだのは、リーリが泊まりに来たときに狭くないように。本当はこんなにも一緒にいたいという気持ちがあること、伝わっているのかな。
これでもし、フラれてしまったらどうしよう。この前の不機嫌な空気を思い出す。
『"新しく住むところが決まったよ!"』
住所と写真を送ったけれど、すぐには既読にならない。きっと、Markくんと再会を喜んでいるのかな。
引っ越しの手配と、不要になってしまった家具や家電をリサイクル業者に引き取って貰う手続きを済ませ、来週の金曜日に有休を取って一気に片付けることにした。
『"何階なの?一人暮らしは心配。"』
メッセージが届いていて、一番上の5階だと返信すると、"good"な絵文字スタンプが送られてきた。
心配して貰えることだけでも嬉しい。
こんな気持ちになるの、初めてなんじゃないかな。今まで、恋愛らしい恋愛ってしてこなかった気がする。離婚した夫との交際期間は2年くらいだったけれど、デートもたくさんはしてない。なんで結婚したんだっけ?
元夫のプロポーズの言葉を思い出した。
「そろそろ、結婚する?まわりもうるさいし、一人で住むのももったいないし。」
照れてそういう素っ気ない言葉になってしまったのかと思ったけど、違った。身の回りの世話役が欲しかったのかも。
リーリが言っていた、元妻が言っていたという「彼は使用人と同じ」という言葉が重なる。
好きだったはずなんだけどな。
浮気を問い詰めたときの言葉も一緒に甦ってしまう。
「だって、真悠子はさ。ちゃんとしてくれなかったじゃん。恋人とかお嫁さんを。」
その言葉が、呪いのように傷になって残っていたことに気付いていなかった。
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