第15話
ついにこの日が来た。
今日、マレーシア工場は開所式を行い、本稼働が始まる。
本社からは社長や佐野常務もマレーシア入りし、マレーシア工場の社員全員が中庭に集まる。
今日は私もパンツスーツとパンプスで、Noraちゃんのお手伝いとしてバタバタと走り回っている。
式典となると、総務は見ていても何かと忙しい。Noraちゃんは今日から主任に昇格して、総務の他のメンバーにも指示を出したりしながら通訳もこなし、かなり忙しそうだ。
社長の挨拶と話が終わり、佐野常務が人事を発表する。工場長は片桐さんとの発表があり、とびきりな笑顔の片桐さんに拍手を送った。
工場の課長や係長、主任の発表の後、間接部門であるシステム部や総務部の発表に移る。マレーシア工場は設計開発や営業の組織がないので、システム部はインフラ関連を専門に管理する課が無く、システム課のみの組織体系だ。仕事内容は日本の新規開発課と同じく、製造機械のプログラム開発と改良がメインで、間接部門のソフトやアプリの改善、インフラ管理も業務範囲に含むらしい。
劉さんが課長として発表され、辞令を受け取ると目が合った。昇格推薦の内示の時の嬉しそうな笑顔を思い出す。拍手をして笑顔を送ったら、誇らしい笑顔を返してくれて、私まで嬉しくなった。
Noraちゃんも辞令を受けとると嬉しそうだった。マレーシアは役職に対する階層意識が強いらしい。
式典が終わると、佐野常務が私に声をかけてきた。
「島田さん、応援を引き受けてくれてありがとうございました。こうして無事に本稼働の日を迎えられたのは、島田さんのお力添えのお陰です。お礼はプロジェクトが成功したら、との約束だったので。本当にありがとう。」
そんなこと言ったなぁ、と思い出しながら、恐縮してこちらからもお礼を言った。
もうあの時から3ヶ月以上経っている。ここにいられるのもあと長くて2ヶ月ちょっとか。
本稼働が始まり、プログラムの修正での残業が増えてきた。初動の一時的な負荷で、すぐに落ち着く見込みのため、劉さんと2人で対応する。
残業の時は劉さんが毎回ホワイトコーヒーを淹れてくれるようになった。2人で過ごす時間が、心地良いものになり、穏やかな時間が流れる。
劉さんのことを意識してしまっている自分の気持ちには気付いているけれど、ただ、その気持ちをどうすれば良いのか分からず、持て余していた。
あの後、休日は住まい探しなどで忙しくて、2人で出掛けたりはしていないし、彼が私に好意を抱いているのかもしれない、と思う場面はたまにあったけれど、確信は持てなくて、ただの自惚れなのかもしれないと、自分の気持ちは心にしまったままだ。
『もう少したくさん修正が出てくるかと思ってたんですけど、この分なら早く落ち着きそうですね。』
劉さんはスケジュール表を見ながら、空いてくる時間にどの仕事を入れていくか考えているようだ。
『そうですね。そうなると、私は帰国を早められそうですね。』
鈴木くんも心配だし、他のメンバーの負荷も増えているだろうし、早く帰国して状況も確認したい。
劉さんは私の言葉を受けて、『そうですね・・・。』と言ってスケジュール表に視線を落とした。
『真悠子さん。やっぱり、島田課長って呼んだ方が良いでしょうか?』
言っている意味が理解できず、少し考える。
もしかして、距離をとろうとしている?
『・・・私の方こそ、課長に昇格されたのに役職を付けずに呼んでしまっていて、すみませんでした。』
マレーシアは役職に対する階層意識が強いのに、配慮が足りなかったかもしれない。
そんなことで怒るような人ではないと思うものの、なんだか気持ちが落ち込んでいく。
もう、最後かもしれない恋心も、このまま消えていってしまうのかな。
残業が終わり、帰り支度を済ませると、『夜ごはん、一緒に食べませんか?』と誘われた。
どうせホテルに戻って簡単に済ませるだけだし、行くことにした。
彼は夜市に連れてきてくれて、席の確保のため私をテーブルに座らせると、料理を買ってきてくれた。
焼き鳥みたいなのとか、揚げ餃子みたいなのとか、色々あって目も楽しい!
『どうぞ、真悠子さん。熱いから気をつけて下さい。』
受け取りながら、ん?と思う。
『・・・。あれ?真悠子さん??』
劉さんは餃子を食べながら、『ん?』という顔をして、私の疑問に気付いた。
『あぁ、島田課長は会社での呼び方ですよ。Noraさんにつられて真悠子さんって呼んでしまっていたけれど、会社でその呼び方をしてるとちょっと違和感あるかなって思ったので。NoraさんもNora主任ですね。』
NoraちゃんのNoraは、なんとラストネームらしい。
『スケジュールの話をしている時に急に呼び方の話になったので、どうしたのかと思いました。』
彼は、ハーブティーを飲みながら、ちょっとだけ機嫌が悪くなる。
『それは、帰国を早めるなんて言うから・・・。』
何て返せば良いのか分からない。
『真悠子さんが日本の部下や工場のみんなに信頼されていて必要とされていることは、この前の篠田課長との話を聞いていてもよく分かったし、仕事振りを見ていても努力を重ねてここまで頑張ってきたんだろうなっていうのはよく理解しています。真悠子さんはとても親切で優しいし、責任感も人一倍あるから、日本の皆のことが心配で早く帰りたい気持ちになるのもよく分かるけど。・・・僕のことも、ちょっとは心配してくれないかな、って考えてしまって。』
『劉さんは、私なんかより仕事のスキルもノウハウもあるし、マネジメントも上手で、心配することなんか・・・。』
彼は哀しそうな表情で『真悠子さん』と私の名前を呟く。
『仕事のことは何とかします。でも、そうじゃなくて。僕の傍からあなたがいなくなってしまうと思うと、ただ、それだけで苦しくなる。』
まっすぐに目を見つめられて、回りの音が何も聞こえなくなった。
『前にした結婚では良い夫婦関係は築けなかったし、恋愛なんてもう懲り懲りだって思ってました。でも、真悠子さんと少しずつ心が通じ合っていくにつれて、考えが変わってきたというか、変えざるをえなくなってしまった。僕は、真悠子さんと共にこれからを生きていきたい。出来ればずっと傍にいたいし、いてほしい。特にあの日から、もう、どうしようもないくらいに、あなたのことばかり考えています。』
彼の目を見つめると、不安そうな瞳が揺れている。
『私も、あなたの温もりを、何度も何度も思い出してしまって、どうすれば良いのか分かりませんでした。辛かった離婚の原因と、同じような経験をしているあなたとは心を通わせることが出来て、一緒にいる時間はとても安らげます。私も、本当はあなたとずっと傍にいたい。でも、今まで築き上げてきた仕事を、放り出すのも辛いです。』
夜市が混んできて、テーブルの待ちが出てきたので席を立って帰路に着くことにした。
隣を歩くと、手が少しだけ触れて、しっかりと握られた。
『真悠子さん。・・・好きです。こんなにも好きという気持ちが湧いてくるなんて信じられないくらいに、愛しています。真悠子さんはどうですか?僕のこと、好きですか?恋愛の対象とか、異性として、どう思ってますか?』
こんなにもストレートに想いを言葉に乗せて伝えられたことなんて、今まで無かったかもしれない。英語だけど、私に届く単語を選んでくれて、しっかりと伝わってくる。
まだ不安そうな彼の手をしっかりと握った。
『私も、好きです。仕事仲間としてももちろん好きですけど、それだけじゃなくて、胸を焦がされてます。あなたを異性として意識しているし、今も心臓が速すぎて、苦しいです。』
私の言葉を聞いて、満足そうにはにかんだ。
『よかった、ちゃんと気持ちを聞けて。正式に恋人になってもらえますか?しばらくは遠距離恋愛かもしれないけど、気持ちはぶれません。それにオンとオフはちゃんと分けるようにします。急がず焦らず、僕たちのペースで繋がっていきたいです。』
『・・・はい。なんか、照れ臭いです。私にもこんな未来があったなんて、不思議。』
こんな風になってしまうと、本当に離れがたくなってしまう。また明日会えるのに、今夜でさえも寂しくなる。
『焦らないけど、一緒にいられないのは寂しいです。帰国する前に、また、抱き締めてほしい。もっとずっと。夜が空けるまで。』
同じ気持ちだと分かる。劉さんは、本当は寂しがりやなのかも。
『分かりました・・・。』
想像すると顔が熱い・・・。
私の宿泊先のホテルが見えてきて、繋いでいた手を離す。
『この後も、電話とかトークとか、しても良いですか?』
『はい。嬉しいです。』
彼は最後にぎゅっと短くハグをして、名残惜しそうに背を向ける。何度も振り返って手を振った。
ホテルの部屋に入ると、大きく深呼吸をする。
こ、これは・・・。夢なの?現実なの??
いやいや、片桐さんじゃないんだから、と自分に突っ込みをいれる。
まだ出会ってから3ヶ月ちょっとしか経っていないのに、気持ちはどんどん彼に惹き寄せられたのは事実だ。きっとこれが、私にとっての運命の出会いなのかもしれないな。
それから、朝は彼からのメッセージで目覚め、会社ではオンに切り替えて『島田課長』と呼ばれてテキパキと仕事をこなし、夜は一緒にご飯を食べて宿泊先のホテルに送ってもらい、ベッドに入ると少しだけ通話をして、おやすみを言って眠る日々へと変わっていった。
恋人になってから初めて迎えた休日は、劉さんが小さい時によく訪れたという街を、手を繋いで散策した。アジア貿易の中継地点として栄えた、アジアとヨーロッパの文化が融合した、ノスタルジックな街だ。
『これから、真悠子さんと一緒に、いろんな所に行ってみたいし、いろんな体験をしていきたい。』
彼から注がれる愛情を受けて、私も目の前の未来じゃなくて、何十年も先までの未来を思い描くようになった。
同じ気持ちだと伝えると、ぎゅっと手を握ってくる。
『この街はイギリスの文化が色濃く残っています。僕は幼心にヨーロッパのお洒落な雰囲気に心引かれて、その影響で留学先をイギリスに決めました。イギリスには辛い思い出もあるけれど、Markと出会うことも出来たし、友達だって少しは出来ました。』
『素敵な出会いもあったんですね。日本では、そういう出会いを「良縁」っていいます。私と劉さんの出会いも、良縁だって信じてます。』
「良縁」という漢字を見せると、中国語も分かる劉さんは、ニュアンスを理解してくれて、肩をぶつけてきた。
『真悠子さんは、小さな時は何て呼ばれてましたか?僕は小さい頃は「リーリ」って呼ばれてて、よく女の子に間違えられてました。中国だと名前の文字を重ねてあだ名にする方法があるんですけど、その呼び方は小さな女の子を呼ぶような感じなんです。あそこのお店の前で、そのあだ名を母に叫ばれて、恥ずかしかった思い出があります。』
彼は中国語の看板のお店を指差して、懐かしむように微笑んだ。
『私は「まゆゆ」とか、「ゆこちゃん」とかです。「リーリ」かぁ、可愛いですね。私も、「リーリ」って呼んでも良いですか?それに、お母さんはリーリのことがとても可愛かったんでしょうね。私もお会いしたいです。リーリのご両親に。』
港のベンチに座って海を眺めると、水面に太陽が反射して光の絨毯のように見える。
『ちょっと恥ずかしいけど、真悠子さんにそう呼ばれるのは、なんだか嬉しいです。僕は「ユーユ」って呼んでも良いですか?』
照れながら、うん、と頷いた。他の人に聞かれるとちょっと恥ずかしいけど、2人の呼び方が特別なのは、嬉しい。
『僕の両親と会うのは、ユーユが辛い思いをしないか不安です。』
『リーリと一緒なら、何を言われても大丈夫だと思います。そんなことより、リーリを生んで育ててくれたことに感謝しているので、お会いして挨拶したいなって思っただけなので。リーリの気持ちが向いたときでいいですよ。あとは、Markくんにもぜひ会いたいです。』
『うん、ありがとう。ユーユのそういうところ、本当に尊敬しているし、大好き。僕もユーユのルーツに感謝してるから、ご両親や、お友達にも紹介してほしいです。Markにはぜひ、いつか会って欲しい。』
お互いの存在を大切に思い、その歴史にも感謝の気持ちが芽生える。誰かを大切に思うことって、こうやってどんどん広がっていくんだな。
照りつける日差しの下で潮風を感じながら、一緒にいられる幸せを噛み締めた。
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