第50話 薫香

 突然の異変に、本宮内は混乱をきたしていた。

 術者や近衛らが率先して動き、宮の者はその場に留まるように言われている。


 元よりいつ妖が襲来してもいいよう、緊急時の対応の動きは一通り訓練されているが、黄泉の世界が揺らぐほどのことは滅多に起きないので、どうすればよいのかわからない、という混乱であった。


 また彼らの心の支えである主上は常世の怪異に巻き込まれ、后妃は何者かと交戦し重症を負ったという話が流れ、それが不安に拍車をかけていた。


 その宮の中を悠幸は全速力で駆けていた。

 顔見知りの女官に楓の居場所を尋ねると、その襖を力いっぱい開けた。


「悠幸様!」


 簀子の方を向いて祈りのために手を合わせていた楓は、目を丸くして振り向いた。


「楓様! 匂い袋を集めたいのです。出来るだけ、たくさん!」


「これを、ですか?」

 楓は袂に入れていた白檀の香りの匂い袋を取り出した。


「香りを撒いて、霊力の代わりにするのです。他の皆さまにも、持っているものは全て私に渡して下さい!」


 悠幸の説明に聞きつけた女官らも次々と申し出た。

「私共も協力致します」

 女官らも自身の身を守るために、匂い袋を持参している者は多い。


 付喪神たちも分かれて、悠幸の協力をして集めてくれた。

 悠幸はそれらを持って舞台へ戻ると、頼人が用意した鉢に、集まった大量の匂い袋を入れた。


 それに悠幸は身の内に僅かに残っていた浄化の炎をくべる。

 静かに銀の炎に包まれていく匂い袋から、香りがくゆり、立ち上っていく。


「もっと早く拡散してくれ……!」


 すると舞台の屋根から現れた白鵠が翼を広げて、風を起こした。

 発生した風が、火柱を中心に渦巻いていく。


 不思議と様々な香りなのに、混ざり合い、調和しながら、薫風となる。

 邪を祓う香と持ち主の力が、風に乗って舞い上がる。


 信人は歯を食いしばって、威力を増す炎を、術を駆使して広がらないよう保っていた。

 頼人は短刀を己の腕に刃を滑らせると、流した血に霊力を込め、最後の力を振り絞って投げつけた。それは矢のように飛び、柱の中心に突き刺さる。


「行け────っ!」

 全ての力を結集させるように、悠幸は叫んだ。



 千景は白檀の香と銀の炎に守られながら、必死に耐え続けていた。

 徐々に全身を焼かれるような灼熱が強くなっていく。それでも千景は剣を押し続けた。


 すると突然、ふっと呼吸が軽くなった。

 黄泉の結集された霊力が千景に力を与えていた。

 驚くほど力がみなぎる。


「はあああああっ」


 千景の刃が金色の炎を押し切り、身の内に剣を通して荒れ狂う魂がなだれ込んできた。


 燃え尽くされそうな苦しみがあった。焼き切れるような凄絶な痛みが伴った。

 だが、その全てを千景は受け入れる。


 炎の柱は銀色となり、徐々に勢いを弱まり、やがて千景を中心に消失していった。




 風に乗って飛んできた白い羽根が簀子に落ちた。

 手を合わせて祈を捧げていた楓はそれを拾う。柔らかい羽根からは、ほのかに白檀の香が漂った。


 楓の脳裏に、ふっと浮かんだのは幼い頃に過ごした寺の本堂であった。

 いつの日か、再興を願った楓の育った尼寺。


 見上げると、天への火柱が消え、空には巨大な白い鳥が飛ぶ姿が見えた。

 楓は郷愁を浮かべた面差しで仄かに微笑む。


 御仏に。黄泉の世に。大切は人たちに。

 どうか全ての御魂が安らかになりますようにと楓は願った。

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