第44話 黎仁の意識
入れ替わる瞬間、千景の中に見知らぬ記憶が一瞬掠めた。
贄になるように宣告される瞬間。
焔との出逢い。燃え盛る炎と抱えた憎しみ。
そして。黎仁とよく似た面差しの明朗な若者。
霧の立ち込めた真っ白な空間に、千景は立ち尽くしていた。
周囲には人の気配も何もなく、どこまでも果てがないように見えた。
ふと背後に巨大な影が現れる。気配はなかったが、周囲の霧に影が映し出されたから辛うじて千景は気付き、ばっと振り向いた。
丸くて真っ黒な影であった。焔を襲ったススクイに形は似ていた。ただあれよりももっと流動的で、得体の知れない印象を与えた。
千景に襲い掛かろうとそれは口をぱかりと開けて、牙を向く。
刀の召喚も逃げることも間に合わず、体が動かない。何よりも怖い、という気持ちが先に来てしまった。
千景が目を瞑ったその時。
斬撃がして巨大な影は真っ二つに裂かれた。それは、細かい霧となり消滅をしていく。
霧状になった影の合間から、刀を構えていた一人の少年が現れた。黎仁だった。
黎仁は千景を見ると、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「助けて下さったのですか……?」
「……別に。お前がそこにいただけだ」
あの一閃で、自分よりも遥かに巨大な化け物を倒すなど、並大抵の技ではない。
彼の力の一端を間近で見て、千景は素直に感嘆した。
「今のは一体何ですか」
「俺にずっと付きまとっている負の感情だ。斬っても斬っても出現する。形を変え、姿を変え、常に俺と共にある。時に牙を向き、時に身を潜め、面倒な代物だ」
負の感情と聞き、千景はようやくここが精神や意識の一角であると気が付いた。
「でも、あれがあるから、俺はやることを見失わずにいるのかもしれない」
そう言う黎仁は、相変わらず表情の変化がない。ただ、こちらの方が彼の本質に近いのかもしれないと千景は思った。
「助けて下さり、ありがとうございました。黎仁様」
「焔に色々と、けしかけられたのだろう。焔が求めているのはあれだ。焔は黄泉の世の贄として捧げられた多くの魂から生まれた存在。絶望から生まれた存在である焔は、負の感情を本能的に求めている。だからわざわざ俺を覚醒させた」
「黄泉の、贄……?」
すると黎仁は知らないのか、と言いたげにこちらを振り返った。
その瞳に浮かぶ感情は一言で言い表せないものであり、その深みに千景はこれ以上聞いてもよいのか迷う。
「かつて黄泉の世では、王の一族は現世の安寧のために贄となり、天子の血筋の代わりに身代わりとして立てられる。そんな扱いだった」
「そんな……」
千景は動揺した。今では信じられないことであった。
「俺も贄の一人だった。元々、双子の兄が王になる予定だった」
千景の脳裏に、先程一瞬掠めた黎仁とよく似た面差しの若者が浮かんだ。
黎仁とは異なり、溌剌とした雰囲気だった。
「終わらせると誓ったんだ。俺が贄になることを拒絶した時から。この黄泉の世を」
彼が少年だった頃、国は異国の脅威にさらされていた。
黎仁は国を護るため、贄となれと父である王に命じられた。
黄泉の世の者は人ではない。ならば贄として命を捧げても何ら不都合はないと。そう言われていた。死ぬ寸前だった黎仁は、その時に焔に命を救われた。
だが黎仁はその後も命を狙われ続けた。時には裏切られ、刃を向けられ、毒をもられた。
現世に逃げても追手が来た。焔と共にやり過ごし、隠れ、時に相手を殺した。
もはや贄ではなく、黎仁を殺せば平穏になると、そう考えて行動する者もいた。
黎仁の父であった王と双子の兄が病にかかり、それはさらに助長した。
ついには焔にまで裏切られかけ、黎仁は逃げることを辞めた。
自分を追い詰めた居場所を奪うことにしたのだ。
血と怨念で汚れることは焔の思う壺だったが、それでもかまわなかった。
そして黎仁を最後まで信じ続けた兄は、自ら余命と引き換えに黎仁を生かすことにした。
兄の魂はトキジクノカクとなり、黎仁の異端の力となった。
黎仁の祈りを捧げる心は、完全に失われていた。それは何の効力もないばかりか、黎仁の命を狙い、双子の兄すら追い込んだ。黎仁は壊された分、全てを力として掌握することを決めた。
黎仁は嘆きや怒りの感情は出さず、ただそれがあったという事実だけを伝えていた。
「俺は黄泉の世を憎んでいた。現世の国の言いなりになっている世を。その風習を俺の代で変えた。神に祈りを捧げることも辞めた。俺は一度、この黄泉を壊している」
黎仁は現世も恨んでいたが、それ以上に黄泉の世界を憎んだ。掌握した後も、黄泉の風習も伝統も壊し、黎仁の目は現世へと向かった。
後は頼人から聞いた話の通りだった。反乱を起こす国の民を黎仁は殺し、負の感情で悪霊や妖に変化したものを消滅させ、そのおびただしい命や屍を踏み越えた戦勝で、現世との地位を対等にした。
絶句する千景の表情を見て、黎仁は何気ない調子で言った。
「いっそ無くしてしまおうと思ったよ。王という位も役割も。何もかも。そうすれば、もう役目を担う必要もない。その想いは今も変わらない。その方が、楽になるだろう?」
千景は否定出来なかった。むしろよく、王や浄化の役割を全て滅ぼさなかったぐらいだと思ってしまった。
「……あなたが壊して、そして再構築された黄泉の世で、たくさんの人が救われました。私もその一人です」
その一言に黎仁はいささか驚いた顔をした。
気が遠くなるほどの長い歴史と役目を担っていた黄泉の世。
黎仁が壊し、信人と頼人が願い、繋げた世界。
そして悠幸と千景が出会った世界。
この人が存在しなければ、体も心も千景は悠幸に出逢えなかった。
彼が生きることを諦めていれば、千景と悠幸の出逢いはまったく異なるかたちや関係になっていただろう。
「だからこの世界を無くさないでほしいのです。この世を必要としている魂が存在するから。あなたは常世へ向かえなかった人々の、恐怖や辛いお気持ちが誰よりもわかる方のはずです」
「お前は本当に……」
黎仁は千景の横髪をさらりとすくった。そして溜め息混じりに呟く。
「俺の魂の持ち主だとは思えん」
「え?」
千景は戸惑った。彼がどのような感情でそれを口にしたのか、千景は最後までわからなかった。
「その願いは俺が聞き入れるものではない」
黎仁は立ち上がって背を向けた。髪と洋装の裾が翻る。
「言っておくが、世を救うのは祈る心よりも確固たる力だ。利用出来るものは全て利用しろ。失う時は一瞬だ」
誇り高いはっきりとした口調で、そう語る。それは自身の経験から裏打ちされた、揺るぎない自信だった。
「どうなるかなど、やってみなければわからない。人に願うな。自分の力で成し遂げろ」
そして黎仁は千景から決別するように離れて行く。
白い霧は次第に薄くなっていった────。
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