第37話 接触
次の瞬間、屋根から一人の少年が飛び降りた。
「千景の体を返せ!」
結界内に閉じ込めていたはずの悠幸の姿であった。
「こやつ何故ここに……!」
黎仁と焔はさっと離れるが、悠幸は降り立つと素早く焔へ向かった。
そして、悠幸は手を伸ばすと、霊力を爆発させた。
光を発したそれは焔と黎仁の目を一瞬だけ眩ませた。
そして悠幸の姿はぽんっと音を立てて、付喪神三匹の姿に戻る。
彼らが自身の力を合わせて悠幸の姿に変化していたのだ。
その隙に御殿の柱の裏にいた千景は黎仁のもとへ走った。
機会はこの一瞬。おそらく千景の本来の意識の方が強いので、接触さえすれば体を奪い返せる。
千景の指先が黎仁の髪に触れる寸前。
「ほう? そっちから出向くとはな」
耳元で囁かれる声に、千景の背には氷片が滑り落ちるような感覚がした。
焔の腕が千景を捕らえ、千景は舞台の床に打ち付けられた。
「っ」
衝撃に千景は呻く。
そして千景は周囲を見渡したが、付喪神三匹の姿は既に舞台にはいなかった。
千景はそれだけはほっとした。
『脅かしたら、私のことは一切かまわずにすぐに逃げて下さいね』
そう三匹には約束してもらい、決行したのだ。
焔に捕らえられた千景の体は、手首を背後に回して掴まれ、肩も強く押さえつけられていた。
「ああ、この者か」
黎仁は涼しげな瞳で千景を見下ろした。
奇妙な感覚だった。軍神と名高い明昭王。若き姿だからだろうか。
彼が千景や悠幸の血のつながった祖父だという実感はなかった。
千景は黎仁へ訴えた。
「私の体を……いえ、せめて悠幸様や主上の身の安全を約束して頂きたいのです。そしてどうか誰も傷付けないで下さい……!」
すると黎仁は冷ややかな瞳で千景を見た。
「なるほど、お前がそうか。この体……頼人から神剣を奪ったが、とても動きにくかったぞ。体が軟弱すぎるのでは?」
「どうやら余程、平穏な生を送ったようだな。少なくとも貴様のように、何度も命を狙われるような経験はしていないな」
千景は焔を睨んで口を開いた。
「軟弱だの弱いだの、随分な物言いをしますが……お前も昨日、油断して妖に食われかけたのでは……⁉」
焔の頬が引き攣った。
「はっ、それは見たかったなあ!」
千景の苦し紛れの抵抗に、黎仁は口の端を上げた。
「笑うのが久しぶりすぎてどうやって笑ったらいいかわからないが、良いことを聞けた。後で焔の記憶を探ってやろう」
「あれは食われかけたんじゃねえ! 力の一部を完全に戻すために一度体を消滅させる必要があったんだ!」
「お前、俺の魂を戻すことを失敗したら、千景の魂を狙うつもりだったのだろう。だから回りくどい方法をとったんだろうな」
図星だったのか、焔は黎仁を睨んだ。
「それだけ千景を気に入ったのなら良いだろう」
「待て……。誰が誰を気に入ったって⁉」
黎仁は千景を見下ろした。
「千景。私は使える人間は使う。もしお前が望むなら、意識体でも仕えることを許してもいい」
近い年齢の姿なのに、堂々とした佇まいである。彼の生きた年齢を考慮すれば当たり前の話なのだが、なんとなく彼は昔から同じように上に立つ者の振る舞いが身に付いているのだろうと千景には感じられた。
若くして王になったと聞く。軍神と呼ばれるほど強く、若く利発的な王に誰もが惹きつけられただろう。
だが。
「……謹んで、お断り申し上げます」
千景は静かに、だが確固たる意志を持ってそう答えた。
「私は悠幸様に仕えると心に決めたのですから」
始めから了承するとは思わなかったのだろう。黎仁の様子はさほど驚いたものではなかった。だが、悠幸の名に、黎仁は意外そうに眉をひそめた。
「何故だ。兄が弟に仕えるのは抵抗があるのでは?」
奪った記憶の欠片から、二人が兄弟であり、千景が養子に出されていたことも、今現在悠幸に仕えていることも黎仁は把握していた。
「確かに、私は養子に出された身ですし、悠幸様は弟でしたが……」
千景の脳裏に、ありし日々の悠幸の姿が蘇る。
『もう痛くなくなったか? 私だって痛いのはいやだ』
誰かのためにと幼いながらも必死でもがく姿も。
『不安なんだ。このまま大人になっても、力が戻らなかったらどうしようって』
そして先程の洞窟内での声も。
『大丈夫だ! 千景は、強いのだから』
千景は唇を開く。
「弱い私も受け入れ、信じて下さったから。私は悠幸様にお仕えしたいと思ったのです。そして誰かのために尽くせる、そんな御方だから私は力になりたいのです!」
「なるほど。それが答えか」
黎仁は神剣をかざした。
西洋刀。この形を持つのは歴代の王の中でたった一人。
まさに現世において西洋の文化が入り始めた頃に彼は王位を継いだ。
それを象徴した形であった。
切っ先を千景の首筋に向ける。だが、千景は沸き上がってくる恐怖を必死で押し殺した。
むしろ、この時を待っていたのだ。
神剣を通してでも、明昭王と接する機会が巡ったのだ。どちらの魂が勝つかはわからないが、どんな手段も選んでいられない。
どんな身を斬られるような痛みも耐え忍ぶ。根拠はないのに魂が訴えている。体を取り戻す勝機はあるのだと。
「お前を殺すほどに恨みがあるわけじゃないが、邪魔をされるのも面倒だから消えてもらうぞ」
切っ先が千景の喉に近付いたその時。
「ダメ──っ!」
リンの声が響いて、千景ははっとした。
いつのまに戻ってきたのだろう。
付喪神三匹の霊力が弾けて、黎仁の握っていた神剣に直撃する。
神剣は弾き飛び、舞台の端に滑っていく。あとわずかで落下する、というところでそれは高欄の柱に引っかかり、止まった。
黎仁は視線を三匹へと向ける。焔は舌打ちをした。
「ちっ……見逃してやっていたら、邪魔な奴らだ」
焔が手を掲げると炎をかざした。それはごう、と音を立てる。
「やめろ……!」
千景は喉から悲痛な叫びをあげた。自分の痛みなら耐えられる。けれど、彼らを犠牲にするわけにはいかない。
身を捻って意識の逸れた焔の手から、無理やり片腕を引き抜いた。
三匹は三方向に逃げるが、焔の炎の威力の方が段違いに早い。
千景は最後の手段として残していた手首の組み紐を咥えると、歯を食いしばって嚙み切った。
ぶつっと切れた紐は、微かに感じられる波動と共に光に変わった。
炎が三匹に届く寸前、彼らの前に一つの影が現れた。影は三匹を颯爽と抱えると、一足飛びに炎から身をかわした。いつの間にかその手には、拾い上げた神剣も手にしていた。
「間に合って良かった……」
影の正体である翁はそう呟くと、三匹を下ろした。
「こ、怖かったあ……」
リンがまずぶわっと泣き出し、マロは力が抜け、カメ助も珍しく半泣きになっていた。
千景も安堵と同時に、全身からどっと力が抜けた。
だから千景は気付かなかった。翁の様子がいつもと違うことに。
飄々としたものではなく、もっと深い感情を宿したものであるということに。
翁の持っていた神剣の形が揺らぐ。次第にそれは西洋刀から形を変えていく。
焔はそれを見ると、得心したように口の端をつり上げた。
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