第36話 黎仁と焔

 自分とよく似た面差しの少年が告げる。

 ──黎、やっぱり逃げよう。お前が贄になる必要なんてないんだよ。二人で誰も傷つかない、優しい世界を作ろう


                  ◇


 うつらうつらと過去の記憶が入り混じった夢を見ていた黎仁は、突然喉の奥に何かが突っ込まれる不快感と嘔気を覚えて我に返った。


「おえっ……」


 嘔気と共に黎仁は体をくの字に屈曲する。辛うじて嘔吐にまでは至らなかったが、生理的な涙が滲んだ。


 視線をさまよわせると、目の前に焔の姿が見えた。自分の唾液が糸を引き、焔の指が同じく液状のもので濡れていた。

 状況を察するに、焔に喉の奥に指を突っ込まれて、反射で無理やり起こされたのだとわかった。


「貴様……もっとましな起こし方はなかったのか」


 黎仁は鋭い目つきで焔を睨んだ。といっても千景の容貌であるため、あまり迫力は伴わなかった。


「諱で呼んでも反応が悪かったからな。強制的に起きてもらったぜ」

 焔は飄々と答えた。


 なにしろ、黎仁は無理やり起こされたような意識だ。本来の自分の体ではないので、ふとした拍子に意識が混濁してしまうのだ。


 黎仁は辺りを見渡した。清望殿の一角であった。

 視界の先には舞台が見えた。

 雨が止んだのであろう。

 頭上には闇とはまた異なる灰色の雲が垂れ込めている。


「焔」

 黎仁は手を伸ばすと焔の髪を一筋触れた。

 そして指に絡めると、勢いよく引き抜いた。


「いっ……⁉」

 突然の頭部の鋭い痛みに、焔は口元を歪める。大した痛みではないが、そのやり口に焔は頬を引きつらせた。


「お前の記憶も必要だからな。もらうぞ」

 仕返しと言わんばかりに、黎仁は表情変化が乏しいながらも鼻で笑う。

「貴様……」


 焔は剃刀のような目つきで黎仁を睨んだ。普通の者が睨まれれば、震えあがりそうな視線だが、黎仁は穏やかな風のように受け流す。

 焔の髪はさらさらとした光となり、黎仁に取り巻くように舞った。


「俺の意識が混濁したから、急いで戻って来たのか?」

「ほざけ」


 黎仁は焔の悪態を背中で聞きながら、舞台の方へと歩みを進めた。

 黄泉の景色が視界に広がる。自分が死んで随分と経つが、代わり映えはしていないように見えた。


 舞台の床の水溜まりに、黎仁は己の姿を映す。気弱そうな少年の姿が映った。


「その容姿、見かけだけでも変えられるだろ」

「ああ」


 仄かに燐光が立ち昇り、姿が別の少年の姿に変わった。

 変わったのは見た目の認識だけで、実体や身体能力は変わらないが、傍から見れば印象は大きく異なる。


 千景と比べて影はあるが、身長は僅かながら高く、しなやかな体つきだ。柔和な印象から怜悧な印象へと変わる。

 髪質は千景と似ているが、軽く目元にかかった前髪は気弱さよりも底知れなさを宿し、高めの位置で一つに結っていた。


 衣服は黒を基調とした洋装になる。金刺繍に軍服を模した型で前よりも後ろ身頃の方が長めにとられており、風に吹かれると軽やかにはためいた。

 白手袋をはめ、腰位置には黒革の剣帯に下げられた西洋刀。下衣は足の線に合わせた白地で、黒の長靴ちょうかを履いていた。


「その年齢でいいのか」

 思っていたよりも年若い姿に、焔は尋ねた。

「この者の体の年齢が十六なので、それに合わせたまでだ」


「懐かしいな。くそ生意気だったもんな、貴様は。いや、年齢を重ねても変わらねえか」

 焔は皮肉の中にからかいを込めながら言った。


「うるさい」

 黎仁は真っ直ぐな視線を焔にぶつけた。


「俺はもうやるべきことは終わった。きっと俺が介入しなくとも、現世の国は大戦に参戦して勝手に滅ぶ。黄泉の因習も絶たれた。生きるほどの理由にはならない」


「あ? 列車を国全土に張り巡らせるのを見届けるまでは死なないとか言ってなかったか?」

「…………」

「飛行機械も興味津々だったじゃねえか。あれから飛行技術が進んで……」


「焔、お前が私をこの世に呼び戻した理由。それぐらいわかるぞ」

 黎仁は放っておいたら余計なことを話し出しそうな焔の言葉を遮った。


「お前は、もう一度俺を殺したかったのだろう?」


 黎仁の言葉に反応するように、焔の瞳が赤く光った。


「もちろん、俺がもう一度世界を壊すさまを見たかったのもあるだろうが、それはあくまでついでだ。お前は、俺の魂を取り込みたかったんだろう。この血と恨みと怨念が滴った魂を」


 焔は黎仁の結われた髪をさらりと撫でた。

「お前の魂は俺に捧げられたのだろう? なら、どうしようが俺の自由だ」


「別にお前に捧げられたわけじゃない。ただそこにいたのがお前だった。それだけだ」


 黎仁は初めて焔と出逢った時のことを思い出し、眉に険を寄せた。

 黎仁はかつて国を護るため、贄に捧げられそうになった。

 それを救ったのが焔であった。


「──お前が死んだ時の魂の色が、俺は楽しみだったよ。世界を壊すほど絶望して、わずかな希望も裏切られ、祈る心より圧倒的な力を選び、自分を殺そうとした国を血と命で染め上げたお前の魂が。それなのにお前の魂は守られ、再び輪廻を巡った」


「ああ、何故お前に奪われなかったのか想像がつく」


 黎仁の先程駆け抜けた記憶の中の、自分とよく似た面差しの少年を思い出した。

 彼の魂が、黎仁の魂を焔から守っていたのだ。そして黎仁の魂は新たな生へと生まれ変わった。


「俺はまた、殺されるために生きるようだな」


 焔は黎仁のように贄として捧げられた無数の魂から生まれた存在だ。

 銀の髪は、歴代の贄の持っていた浄化の炎で染まった色だ。

 絶望から生まれた魂は、自分より不幸な魂や負の感情をより取り込もうと本能的に求めるのだ。


「貴様がいない千年よりも、貴様がいる数十年の方が面白いからな。また復讐するなら手を貸すぜ」

 そして舞台から黄泉の世界を見下ろす。


「まだ見たことのない景色、見てえだろ」

 黎仁の目が一瞬、憎悪とも嫌悪ともいえない深い色が増す。

 だが、表面上は一切顔色を変えなかった。


「貴様の憎んだ世が滅ぶさま、見届けねえか?」

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