第28話 潜入

 本宮に踏み入れるため、楓は汚れた袿を着替えた。

 新しくまとったのは、川に浮かんだ紅葉の流れる様を描いた衣であった。


 髪の汚れは水を含んだ布で落とした。

 湿り気を含んでいるが、雨が降っているため不自然には思われないだろう。


 ただ二人が向かう頃には少しずつ小降りになっており、この様子では間もなく止みそうな様子であった。


 本宮へ向かうには塀などがあるわけではなく、渡り廊下で繋がっているため、行き来に不自由はしない。

 だが、本宮に踏み入れる際は衛士の守りがあり、気付かれずに進むのは至難の業であった。


 まずは主上と悠幸のいる所に、焔と明昭王に気付かれずに向かう必要がある。


 果たして焔らが既に接触をはかっているのか。それによって主上の無事を含め、指針が大きく変わって来る。


「何にせよ、情報が足りませんね……」

 そこで千景と楓は一計を案じることにした。



 千景は階の下の空間に息をひそめた。

 提灯の光はこちらまでは届かず、加えて茂みがあるため、姿は周囲からは見えないはずだ。


「松ノ宮の者です。悠幸様に急ぎ報告したいことがございます。

 主上のもとへ向かわれたということなのですが、どちらにいらっしゃるかご存知でしょうか」


 楓は二人組の衛士らに尋ねた。

 宮に立ち入る不埒者は黄泉の世では少ないため、どちらかといえば妖や悪霊などへの警戒の方が強い。


「悠幸様ですか? でしたら、主上と共に浄化の間へ向かわれましたよ。交代前にお見かけしましたので」


 千景は様子を伺う。よく利用する通路であるため、衛士のおおよその顔や普段の様子は知っている。

 彼らの声音に特段の変化はない。


「ありがとうございます。あの、実は千景さんの姿も朝から見当たらないのですが、ご存知ではありませんか」


 流れるように尋ねる楓の巧みさに、千景は舌を巻いた。

 常に穏やかでいるため気付かないが、彼女は普段から悠幸の思い付きにも流されずに丁度良い塩梅の提案をしたり、諫めたりしていることに長けている。


 なので実は知らず知らずのうちに、千景も動かされているのではなかろうか、と思ってしまった。


「いえ、私はお見かけしていないですね。お前はどうだ?」

「いや、千景殿の姿は……今日は悠幸様といらっしゃったのではなかったのですか」


 困惑したような響きが聞こえる。

「ありがとうございます」


 千景はほっとした。少なくとも、まだ現段階において悠幸にも主上にも、危害が加えられたと情報が入っていないということだ。

 単に秘匿されているだけの可能性もあるので、油断は出来ないが、今の彼らは滞りなく通常業務に徹しているようであった。


 周辺を見渡したが、千景の見える範囲では人の姿はない。このまま直接、浄化の間まで向かうべきか。

 千景が思案していると。


「お待ちなさい」


 頭上から凛とした声が響いた。后妃、藤子の声であった。

 はっと千景が息をひそめる。


 あらためて思うのだが、彼女は滑るような歩き方で、足音がほとんど聞こえない。

 他の女官の足音が聞こえていたから、聞き分けられたぐらいだ。


「后妃様、いつもお心遣い頂き、誠にありがとうございます。松ノ宮にてお世話になっております、楓と申します」


 さすがの楓も、突然の后妃が現れたことに緊張しているのが伝わってきた。

 千景は息を殺して、聞き耳を立てる。


「主上が浄化中に常世の事象に巻き込まれたのです。必ず戻るので、それまで黄泉の世を滞りなく守れと千景殿から報せを受けました」


「何と! まことですか⁉」


 衛士らが動揺した声音を発した。

 千景は確証した。彼女の言う千景は、明昭王が今支配している存在だ。


「浄化の間にけして来てはならないと、これは主上の命とのことです」


「……千景様が? では、悠幸様もそれに巻き込まれたということですか!?」


 今、楓の緊張感が痛いほど千景に伝わって来た。

 もしも少しでも怪しまれたら、深入りせずに宮に戻ると言って引いてほしい、と千景は頼んでいたのだが、当初の予測以上に楓は場を繋いでいる。


 むしろ、情けないことに、千景の方が緊張で身体が震えそうになっている。


 何となく状況は掴めてきた。明昭王と焔は、表向きはつつがなく黄泉の世を掌握するつもりだ。

 そして邪魔になる主上と悠幸は、おそらく浄化の間にて監禁もしくはそれに近いことをしているのだろう。


 術者らのいるあの空間で頼人らを閉じ込めることは、想像がつかなかったが、伝説にもなっている彼らのことを考えれば、不可能ではない。


「……ところで、先ほどから足元で話を伺っているのは何者ですか」


「!?」

 千景と楓が同時に息を呑む。気付かれた。

 一瞬千景は迷ったが、彼女のひととなりを信じて一か八か姿を現すことにする。


「聞き耳を立てるようなことをして申し訳ありません。実はこれには事情がありまして……」


 簀子の上に立つ后妃は、警戒の色を浮かべていた。

 当然ながら、自分に主上のことを伝えたはずの橘千景が今ここに存在するのは、おかしなことなのだ。


「事情とは?」


 声音が固い。

 普段穏やかな彼女だが、その落差が今はとても怖ろしかった。


「その橘千景は本物ではありません」


 藤子が彼らの言うことを信じているのならば、姿を現すのは得策ではないのだろう。だが、それよりも真実を伝えることを千景は選んだのだ。


「焔という男が、私の意識を体から引きはがしたのです。今、私の本当の体で振る舞っているのは、明昭王の意識なのです」


「何ですって……?」

 藤子は驚愕の眼差しを浮かべた。さすがの彼女も、明昭王の名が出て来るとは思っていなかったのだろう。


「わかりました。では」

 藤子は手を払う仕草をした。


 次の瞬間、千景と楓は女官と衛士らに取り押さえられた。

 楓は女官らに腕を掴まれ、千景は衛士らにて腕と肩を押さえられる。


「…っ!」

 楓まで捕らえられたことに、千景は動揺する。


「千景殿の名を騙る者がいれば、捕らえよとの仰せでした」

 冷ややかな瞳で、藤子はそう言い放った。

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