第27話 意識体
千景の意識が突然はっきりとした。渡り廊下の行灯が、辺りを照らしていた。
そこには泥と雨で汚れて不安そうな表情を浮かべていた楓と、眉間にしわを刻み、険しい面持ちで千景を見つめる翁がいた。
千景が開眼したことを確認すると、二人は僅かながらに安堵した表情を浮かべた。
「千景さん、私たちがわかりますか……?」
透き通るような声で、楓が恐る恐る問いかける。
「あなたは今、魂の欠片だけのとても不安定な状態だ。私もこれ以上は、どうしてもあげられない。すまない」
翁は申し訳なさそうに言う。その声には深い悔恨が滲んでいる。
千景は己の手をかざした。
その身体は仄かに燐光が取り巻いており、すぐに揺らいでしまいそうな危うさがあった。
「あなたの魂の表層は、砕けて常世へと行きかけたのです。
私の力でそれを黄泉へと戻しました。もっと早く駆け付けられたら良かったのですが」
翁は魂を導く役割を持つ。妖力を駆使して、千景を意識体として実体化させてくれたのだ。
「そうだ……私は、あの男に……」
千景は意識を失う前に何があったのか、思い出した。そして突き飛ばされた楓のことを思い出す。
「楓様、お怪我は……!」
楓は唇を引き結んで、首を振った。
「私は大丈夫です」
楓は全身雨に濡れており、いつも丁寧に結んだ髪は乱れ、手や頬は泥で汚れていた。衣は水溜まりに浸かって、変色してしまっている。
焔に危害を加えられなかったのが唯一の救いだった。
「あの場にいたのに、何も出来ず……申し訳ありません」
楓は今にも泣きそうな表情で、頭を下げた。
「いえ、どうか謝らないで下さい」
千景は慌てて肩に手を添えた。
「楓様は必死になって、地面に落ちた千景殿の意識の欠片を拾って下さりました。
あれがなければ、私もどうすることも出来なかったでしょう」
翁は経緯を説明する。
見ると、楓の切り揃えた爪の間には、細かい土や泥が詰まっていて、千景はますます申し訳なくなった。
「楓様も翁様も、助けて頂き、ありがとうございます」
「いえ……元よりあなたを守っていた力があったので、それを利用することが出来ただけです」
千景は夢なのか、意識を失っている間に見えた母の姿を思い出した。
袂を探ったが、意識体であるその中にトキジクノカクが入った巾着袋はなかった。
翁はいつもの飄々とした様子は鳴りを潜め、真剣な声音で尋ねた。
「一体、何があったのですか」
千景はかいつまんで、焔と名乗る鬼神の話をした。千景の魂を狙っていたこと。そして悠幸の力が自分を守っていたこと。
翁は静かに告げた。
「……焔は、先々代の王、明昭王の近衛だった男です」
「え……あの男が!?」
千景は驚愕した。
そのわりには見た目が二十代後半頃と随分若い印象を受けた。
しかし鬼神ならば年齢を操作したり、一定の年齢を保つことも造作もないかもしれない。
「あの男が狙うとしたら、おそらくあなたの魂の中に明昭王がいたのでしょう」
「つまり、千景さんはその方の生まれ変わりということですか?」
楓は尋ねた。
「私が明昭王の生まれ変わり……!?」
千景は愕然とした。
もし本当にそうなのだとすれば、千景の身には余る魂だ。
だが、魂は生前の縁の強いところへ向かう、と伝わっていることを思い出した。
「千景殿。前世がどのようなお人であろうが、今はあなたの生だ。
生まれた先で新たな意識が形成され、あなたとして作り上げる。
まれに前世の記憶や意識をそのまま受け継ぐ者もおりますが、少なくとも今のあなたは別の人格です」
千景の心の内を読んだかのように翁は言った。
「す、すみません。偉大なる明昭王の生まれ変わりなら、何故私はこんなに何も出来ない存在なのだろうと、ほんのわずかに思ってしまいました」
情けない、と千景は眉を下げた。
「あなたの体はあなたの意識の方が強いはずだ。だからこそ、あの鬼神は意識の表層であるあなたを、肉体から切り離したのだろう」
「焔が明昭王を復活させたということは……」
千景は考える。習った知識の通りならば、彼は千景が生まれる前に現世へ向かって消息を絶ったことになっている。
「まさか、王位の奪還をなさったりなどされませんよね」
「ありえますな。特に明昭王と今の主上は仲があまりよろしくなかったですから」
「え……」
千景はさあっと青くなった。
そして本宮の方を向いた。
今、あの場では一体何が起こっているのだろうか。
「とにかく、あの男の思い通りにするわけには参りません」
千景は立ち上がった。
意識体という存在なので、いつもより体の感覚がふわりとしていて奇妙な感じだが、動き方は今まで通りで良いはずだ。
「主上のもとへ向かいます。そしてまだ間に合うならば、事の次第を報告し、助力を願います」
彼や術者の力を借りれば、千景の体も何とかすることが出来るかもしれない。
楓は気がかりなことを伝えた。
「あの、実は悠幸様もまだ戻られていないのです。おそらくまだ本宮にいらっしゃるかと」
悠幸の名に、千景の心臓は跳ねた。
「先程の方が千景さんに気付くと、またあのような目に合うかもしれません」
楓は両手を握った。その色は白く、微かに震えている。
もし翁がいなければ、千景はあのまま消えてもおかしくはなかった。
「私が、共に参ります。千景さんをお守り致します」
楓を危ない目に合わせたくないという思いがある。
だが、今の千景は何も出来ないも同然だった。誰かの協力を得なければ、取り戻すことは出来ない。
「よろしくお願いします」
千景はそう返答した。
「千景殿。お気を付け下さい。意識体であるあなたは、人間であった時には守りであった刀の攻撃を受けてしまいます」
翁の忠告に、千景はそれまで思い至らなかったことに気が付いた。
「そうか、元の体よりも脆弱なんですね……」
「物に触れたり、守り刀を召喚したりすることは可能です。その分衝撃も受けます」
翁はしゃがみこんだ。
「右手を出して」
千景は言われた通りに出すと、翁は千景の手首に組み紐を結んだ。
白と濃緑の二色で織り込まれた組み紐だ。仄かに翁の妖力を感じた。
「もしもどうしても危ない時、これを切りなさい。一度だけなら、また君の力になれるだろう」
彼は彼の役割を担うため、深く関わるわけにはいかないのだ。人間と妖の中立をとれるようにしないといけない。
そのため、願いを聞き入れる時は代わりに何らかの制限や縛りを設けるのだ。
千景は組み紐にそっと触れると、礼を伝えた。
「ありがとうございます」
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